メッセージ

日付 聖書個所 メッセージタイトル 説教要旨 

2025年度(2025.4-2026.3)

2025年9月7日 ルカ5:1-11 「人生を変える出会い」 )

【はじめに】 「人生は出会いで決まる」とも言われますが、今日は、イエス様に出会って、人生が大きく変わっていくペテロの出来事から思いを巡らします。
【1.主よ、おことばですので 1-5】 イエス様はペテロの舟に乗り込み、舟の上から、人々に語られました。その後、ペテロに深みに漕ぎ出し、網を下ろすように命じられました。一晩中漁をしたにもかかわらず何も捕れなかったペテロでしたが、「でも」と主のことばのとおりに従った時、驚くようなみわざを経験します。あなたにとって、深みに漕ぎ出し、網を下ろすとはどんなことでしょうか。
【2.主よ、離れてください 6-9】 ペテロはイエス様の本来の姿に触れた時、この聖なるお方の前に罪人である自分を恐れ「離れてください」と願います。この姿は、神の前に立つ時の、人間の自然な反応です(イザヤ6:5)。あなたのイエス様に対する態度はどのようなものでしょうか。
【3.主よ、従います 10-11】 するとイエス様は「恐れるな」とペテロに語り、離れてくださいと語るペテロのもとに来られ、新しい使命を約束されました。イエス様は私たちに近づかれ、罪を赦し、新しいいのちを与えてくださいます。私たちもまた、このお方にすべてを捨てて、全幅の信頼を寄せて従ってまいりましょう。


2025年8月31日 ルカ18:1-8 「失望せずに祈る」 講壇交換礼拝:安田洋牧師(久喜・白岡)

*「あなたにとって祈りとは?」…祈りのすばらしさ、また困難や失望することも…。

1.本日の箇所では、「一人のやもめ」の姿勢から、祈りにおける大切なことを学べます。3節の「彼のところにやって来ては」とこの方に向かい、5節では「ひっきりなしにや
って来て」と、裁判官が根負けするほどに…。この「裁判官」は2節にある通り「不正な
裁判官」(6節)ですが、ついに訴えに応えます。7、8節では、「まして神は、…」と、 私
たちを愛し公平に扱われる真の「審判者」であることを…。

2.信仰の先輩者たち、聖書の中の人たちも祈りました。
詩篇記者も(55:16,17)「~夕べに朝にまた真昼に…。すると主は私の声を聞いてくださる」。パウロも愛するテモテのために(Ⅱテモテ1:3)「私は夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こし…」。ルターは「忙しければ忙しいほど祈る。よく祈ったことはよく学んだことである」と語り、祈りによって偉大な働きをしました。そして何よりもイエスご自身が、父なる神と交わることを優先しました(ルカ5:16、6:12)。

*O・ハレスビー:「無力である人だけが本当に祈ることができるのです。…あなたの無力なことこそ、あなたの最善の祈りであります。」


2025年8月24日 Ⅰ列王記10-11章 「ソロモン王の繁栄と罪」 子どもと一緒 ※時々、新改訳第三版になっています

【はじめに】 ソロモン王は、神様から知恵を与えられ、そして、イスラエルはどんどん豊かになりました。
【1.シェバの女王の訪問 10:1-13】 その噂を聞いて、シェバの女王がやって来ました。ソロモン王は、彼女の質問にすべて答えました。さらに、女王は、イスラエルの人々の姿にも感心しました。そして、その祝福は神様から来ていることを告白します(Ⅰ列10:9)。私たちは、神様に感謝して歩んでいるでしょうか。
【2.ソロモンの繁栄 10:14-29】 イスラエルは戦争によってではなく、貿易で、ますます豊かになっていきました。金(10:14)をはじめとして、珍しいものも入ってきました(10:22)。その一方で、ソロモンは戦車や騎兵を手に入れ始めます(10:26)。ここに私たちは、ソロモンの父ダビデの詩篇を思い出します(詩20:7)。私たちは今、何に頼っているでしょうか。何を求めているでしょうか。何を誇りとしているでしょうか。
【3.ソロモンの罪 11:1-13】 豊かになるつれ、年を重ねるにつれ、ソロモンの心は神様から離れ、その心は神様と一つとならなくなりました(申8:11-14)。ソロモンは、神様を完全に忘れたのではなく、偶像の神様にも、心を向けました(11:1-4)。私たちの姿はどうでしょうか。


2025年8月17日 ピリピ2:19-30 「主にあって喜び励まし合う」 

【はじめに】 戦後80年を迎え、世界の平和を願いつつ、神のご支配は、力ではなく、主イエスの愛とへりくだりによって実現したことを覚え、御言葉に聴き、そして、聖霊に遣わされてまいりたいと思います。
【1.テモテの派遣 19―24】 パウロは、テモテをピリピの教会に遣わします。それはピリピの教会の様子を聞いてパウロが励ましを受け、また、彼らの喜びともなるためです。テモテは自分ではなく(Ⅱテモ4:10)、主を求め、主の福音に仕え、主にあって歩んでいました。私たちはどうでしょうか。
【2.エパフロディトの派遣 25―28】 もう一人、エパフロディトをパウロはピリピに遣わします(送り返す)。彼は死ぬほどの病気となり、そのことでピリピの人々を心配させて事に心を痛めていました。主のみこころに委ねつつ(ピリ1:21)、仲間のいやし、とりわけ祈り続けてきたものの回復は、群れにとっての大きな喜びとなります。
【3.迎え入れるピリピの教会 29―30】 パウロは、わざわざ、エパフロディトを大いに喜んで迎え入れ、このような人を重んじるように語り、彼がキリストの働きのために生死をさまよったことをもう一度確認します。そこには、彼に対するあらぬうわさや、陰口が怒らないように、そして彼自身が気落ちしないための配慮だったのではないでしょうか。私たちは二人の姿、教会への勧告からどんなことを思い巡らすでしょうか。


2025年8月10日 ルカ10:25ー37 マタイ7:12 「隣人を愛する」 石坂 和久牧師

イエス様は、数々の掟を二つの掟に集約された
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』
この掟をどう言い換えますか?
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」
改めてサマリヤ人のたとえを聞く
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」を地でいったサマリヤ人
イエスの問い
「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人だと思いますか。」ではない
隣人だから愛するのではなく、愛すると隣人になる
神様の愛の方向性、それは広がっていく方向性
「人にされたくないと思うことは何でも、あなたがたも人にしてはならない。」で育てられてきたわたしたち
↑これの限界と神様の愛との方向性の違い
愛されたいと願うわたしたちだからこそ、まず自分から愛していく
それができる根拠は、神様の愛を受け取っているから
そうやって愛された人が愛するという連鎖が広がっていく時、世界は変わっていく


2025年8月3日 ルカ4:42-44 「神の国の福音」

【はじめに】 今日は、聖書の中心テーマである「神の国」と「福音」について確認します。
【1.神の国】 「神の国」について、マタイは「天の御国」という表現を用います。さらにヨハネは「永遠のいのちを持つ」という表現を用いているとも言えます。その上で、第一に神の国は、「神が王として治める、神の支配」という意味があります(マルコ10:15)。第二に、神の国は、現在、すでに、イエス様を信じる者の内に、実現しています(ルカ11:20、17:20-21)。第三に、神の国は、イエス様の再臨の時に完成する完全な神様のご支配であり、私たちが永遠に住む「神の国」です。
【2.福音】 福音についてパウロは第一コリント15章でまとめています。福音はイエス様ご自身です。その中心は、旧約聖書に約束されてきたように、イエス様が私たちの罪のために死なれ、葬られ、そして三日目によみがえられた知らせです(Ⅰコリ15:3-5)。このイエス様の知らせを信じる者たちが、罪と死から解放され、神の支配に生きる者とされ、イエス様の再臨において「神の国」が完成するという良き知らせです(Ⅰコリ15:20以降)。
【3.神の国の福音】 イエス様は、ご自身が、聖書において約束された、神様のご支配の実現のために遣わされた救い主であると宣言されました(ルカ4:21)。まさしくイエス様こそが「神の国の福音」です。


2025年7月27日 使徒13:2 「イエス様を伝える旅」子どもと一緒

【はじめに】 子どもたちは、初代教会、教会の始まりの出来事から、お話を聞いています。今日は、パウロさんが、イエス様のことを伝えた旅のはじめの頃について、聖書を読んでまいります。
【1.アンティオキア教会の開始 11:19-26】 パウロさんたちの旅を支えたのはシリアのアンティオキアの教会で、ここにはユダヤ人だけでなく、それ以外の異邦人と呼ばれる外国の人たちも大勢いました。そこにバルナバ、さらにはサウロ(のちのパウロ)も加わりました。ここで初めて、イエス様を信じる人たちは「キリスト者」(クリスチャン)と呼ばれるようになりました。「イエス様は、キリスト(救い主)です」といつも語っていたからでした。
【2.イエス様を伝える旅の開始 13:1-52】 ある時、聖霊がバルナバとパウロを伝道の旅に遣わすように、教会のリーダーたちに示されました。彼らは聖霊の声に従って、二人を送り出しました。二人はまずバルナバの故郷キプロス島に渡って伝道しました。それから、ペルゲに渡り、ピシディアのアンティオキアにやってきました。ぜひ地図で確認して下さい。パウロたちは、イエス様が私たちの罪ために十字架で死なれ、よみがえられたキリスト(救い主)であり、この方を信じるものは罪を赦され、義とされると語りました。このメッセージは今も同じです。私たちも聖霊なる神様の力によって、それぞれのところに遣わされてまいりましょう(マルコ16:15)。


2025年7月20日 ピリピ2:12-18 「世の光として輝く」

【はじめに】前回は、教会が一つとなるために、イエス様のへりくだりの姿を覚え、キリストの心を心として歩むことを確認しました。
【1.救いを達成する 12―14】 パウロは、ピリピの信徒たちに向かって、「自分の救いを達成するように」と語ります。信仰は私自身の問題です。「救い」は、始まりから完成まで含みます。そのために、御心の内に、思いを与え、実行させてくださるのは神様です。私たちは、この神様の働きに、つぶやかず、疑わず(理屈をこねず)応答しましょう。
【2.しっかり握る 15-16】 そうするならば、この世にあって、主の前に純真な者、傷のない神の子どもとしての歩みとなります。私たちはいのちの言葉をしっかり握り、救われていることを確信して歩みましょう。私たちの労苦は決して無駄にはなりません(Ⅰコリ15:58)。イエス様の再臨の日に、それは誇りとなります。
【3.ともに喜ぶ 17-18】 パウロは自分の状況を思い巡らしながら、喜びが湧いてきました。そして、ともに喜べと語ります。死を意識しながらも、一人一人の信仰の成長、救いの完成に向かう姿に喜びを覚えます(1:21、1:25-26、Ⅱコリ12:15)。私たちも、ここに喜びがある事を覚えて歩み出しましょう。


2025年7月13日 ルカ4:31-44 「主のことばの権威」

【はじめに】 先週のナザレに続いて、今日はカペナウムでの出来事に耳を傾けます。
【1.ことばの権威 31-32】 イエス様のことばには権威がありました。それは話し上手とか、知識が豊かであったということ以上にことばに力がありました。私たちの言葉には権威はありませんが、イエス様のことば、聖書のことばには権威と力がある事を信じて、私たちも御言葉を語り続けましょう(Ⅱテモ4:2)
【2.力あるわざ 33-41】 イエス様はカペナウムで力あるわざ、実現することば、奇蹟を通してご自身を示されました。イエス様はことば一つで、悪霊を追い出しました。人々は、そのことばの権威と力に驚きます。さらに、ペテロの姑の熱病を、これもことばで叱りつけ癒されます。立ち上がったペテロの姑は喜んで仕えるものとなります。その他にも、悪霊追い出しやいやしをイエス様は行われました。イエス様は一人ひとりに寄り添われます。悪霊は、イエス様が神の御子であることを認めながら、それに敵対しました。私たちはどうでしょうか。
【3.祈りと宣教 42-44】 イエス様は朝早く起きて祈られます(マルコ1:35)。神の御子イエス様が大切にされたのは父なる神との親しい交わりでした。それによって力を受け、神の国の福音を町々に宣べ伝えました。イエス様の姿にならって私たちも祈りつつ、宣教のために出発しましょう。


2025年7月6日 ルカ4:16-30 「主の恵みの実現」 

【はじめに】 ルカはナザレでの出来事を最初に記録します。イエス様のメシア(救い主)としての宣言、イエス様の生涯における人々の態度の縮図のような出来事です。
【1.今日、実現した預言 16-21】 イエス様はメシアの預言(イザヤ61章)が、「今日実現した」と語られます。すでにカペナウムで奇蹟が行われていましたが、「貧しい者たちへの良い知らせ」は、「心の貧しいものは幸い」(ルカ6:20)と語られるように、自分の罪深さ、無力さを嘆き、神により頼む者への恵みの知らせです。恵みの年(ヨベルの年=解放の時)が到来し、開始されました。
【2.人々の冷ややかな態度 22-27】 イエス様の宣言に郷里の人々は冷ややかでした。救い主であることを奇蹟によって証明しろという思いがありました(ルカ4:3、23:35)。イエス様は旧約聖書のエリヤ(Ⅰ列17)とエリシャ(Ⅱ列5)の例を紹介して、ことばで迫られました。私たちのイエス様への態度はどうでしょうか(ヨハネ1:11)。
【3.救い主を追い出す 28-30】 イエス様のことばにナザレの人々は怒り、イエス様を町から追い出し、殺そうとします(ヨハネ15:18、Ⅱテモ3:12)。私たちもまた、イエス様を生活から締め出し、心から消し去っていないだろうか。


2025年6月29日 Ⅰテサロニケ5:16ー18 「神は人生の羅針盤」 信徒メッセージ 1週間限定


2025年6月22日 使徒5:19ー20 「いのちのことばの証人」

【はじめに】 今日は子どもたちと一緒に、教会の最初の頃の姿について、御言葉に聞きます。どんなに反対にあっても聖霊によって語り続けた弟子たちの姿を覚えます。
【1.捕らえられた弟子たち 14-26】 使徒たちはイエス様を伝えるだけでなく、多くのしるしと不思議を行います。多くの人々がイエス様を信じます。大祭司たちは使徒たちを捕らえます。しかしみ使いが扉を開き、「いのちのことば」を語り続けるように命じます。しかし、またも使徒たちは逮捕され、サンヘドリンに引き出されました。
【2.神様に従う 27-32】 使徒たちは、恐れず、語るなと命じる人に従うより、語れと命じる神に従うべきであると答えます。そして、大胆にイエス様が十字架で死なれたこと、そして、よみがえられたことを語りました。使徒たちが力強く語ることができたのは、聖霊なる神様の働きでした。
【3.ガマリエルの提案 33-42】 大祭司たちは怒り狂いますが、人々から尊敬されているガマリエルが立ち上がり、もしイエスが偽者の救い主なら、そのうちこの群れは消えるでしょう。しかし、もし本当に神から出たものならば、止めることはできないし、むしろ私たちが神に敵対することになると提案します。議員たちは弟子たちを鞭で打って、イエスの名で語らないように命じて釈放します。しかし弟子たちは語り続けました。私たちも「いのちのことば」を語り続けましょう。


2025年6月15日 ピリピ2:1ー11 「キリストにならって」

【1.一致 1-2】 苦闘の中にあって、教会が、主の家族として、一致して歩むことが命じられます。四つのことが土台にあります。「キリストにある励まし」「愛の慰め」「御霊の交わり」「愛情とあわれみ」です。その結果、同じ思い、同じ愛の心、心を合わせ、思いを一つに、一致に向かいます。それこそ喜びとなります。
【2.へりくだって 3-4】 私たちの一致を妨げ、破壊するものは、「利己的な思い」、自己中心であり、それはまた党派心(1:17)でもあります。また「虚栄」、人の上に自分を置こうとする優越感も同じです。その治療薬は「へりくだり」、謙遜です。そのために、互いに相手をすぐれた者と考え、自分のことだけでなく、他の人のことも顧みるように命じられます(マタイ19:19)。
【3.イエス様の姿にならう 5-11】 それは罪人である私たちとっては簡単ではありません。そこで最も偉大な例をパウロは示します。それこそが、私たちの謙遜の基盤です。それはイエス様です。キリストの心を心とするのです。主は、神としての立場に固執されず、仕えるもの、それも十字架に死にまで従われました。それがキリストの心です。そして、このお方は、よみがえられ、本来、あるべきところに帰られました。このお方は、すべての上に立つ、礼拝されるべきお方です。このお方の心を心とし、このお方にならって、歩み出しましょう。


2025年6月8日 ルカ4:14-15 「御霊の力を帯びて歩む」

【はじめに】 本日は、教会歴ではペンテコステ(聖霊降臨日)を覚える時です。
【1.御霊の力を帯びたイエス様 1、14-15】 イエス様は悪魔の試みの後、御霊の力を帯びて(1節「聖霊に満ちて」「御霊に…導かれ」)、ガリラヤに戻られました。今日は聖霊の働きを覚えます。
【2.ペンテコステ 使徒1ー2章】 復活されたイエス様は聖霊を待つように弟子に命じられてから天に昇られました(使徒1:4-5、8)。弟子たちが集まって祈っていると聖霊が降り、弟子たちは色々な国にことばで話だし、大勢の人々がイエス様を信じバプテスマを受けました。聖霊は今も働いておられます。
【3.聖霊の働き 信仰告白】 信仰告白の手引きから11の聖霊の働きを確認します。(1)聖霊はキリストの栄光を現します(ヨハ16:14)、(2)聖霊は人間に罪を認めさせます(ヨハ16:8)、(3)聖霊は新生をもたらします(ヨハ3:5)、(4)聖霊は「イエスは主です」との告白に導きます(Ⅰコリ12:3)、(5)聖霊は信じた者のうちに宿っています(Ⅰコリ3:16)、(6)聖霊は助け主です(ヨハ14:16)、(7)聖霊は聖書の真理を悟らせます(Ⅰコリ2:12)、(8)聖霊はあかしの力を与えます(使1:8)、(9)聖霊は信じる者を導きます(使8:29)、(10)聖霊はとりなしをします(ロマ8:26)、(11)聖霊は肉の欲を満足させません(ガラ5:16)


2025年6月1日 ルカ4:1-13 「悪魔の試み」

【はじめに 1】 イエス様は聖霊に導かれて、悪魔の試みを受けます。すべての出来事の背後に神様の導きがあり、また誘惑を受けるのは、信仰が弱いからではなく、その中で、御言葉により、聖霊の助けを受けて歩むことに心を留めます。
【1. 第一の試み 2-4、申命8:3】 第一の試みは、自分の力を示す事、あるいはいのちにまつわる誘惑ということもできます。悪魔はイエス様にあなたは神の子なのだから力を示せと言います。いのちのために食べる事は間違いではありません。しかしイエス様は、すべてを与えられる神に信頼し、神のことばによって養われることばで応じます。
【2. 第二の試み 5-8、申命6:13】 第二の試みは、神のものを自分のものにしようとする事、偶像を神と取り換える誘惑と言えるかもしれません。悪魔のことばは真実と偽りを混ぜて、私たちに迫ります。神ではないものにひれ伏させようとします。何より、イエス様にとっては、十字架の道を迂回させる誘惑であったのかもしれません。
【3. 第三の試み 9-12、申命6:16】 第三の悪魔の試みは、聖書の言葉さえ用います。悪魔は、神を試みる誘惑でイエス様に迫ります。イエス様が引用された御言葉は、イスラエルの民がマサで水がないために、神に不平不満、不信仰で水を求めた出来事を思い出させ、神を試みてはならないと語られたモーセのことばを引用します。私たちは主への信頼をもって、このお方を信じて歩みます。


2025年5月25日 マタイ25:14-30 子どもといっしょ 「タラントのたとえ」

【はじめに】 子どもたちは「神の国」について、たとえ話からお話を聞いています。今日は「タラントのたとえ」を通して、イエス様の再臨まで、自分に与えられている賜物を用いて、忠実に歩むことを考えましょう。
【1.たとえ話の内容】 ご主人が、長い旅に出る前に三人のしもべにそれぞれの能力に応じて財産を任せます。5タラント預かったものは、さらに5タラント、2タラント預かった人は、さらに2タラントをもうけました。ところが、1タラントの人は地面に財産を埋めてしまいました。旅から戻った主人は先の二人の「忠実さ」をほめ、土に埋めたしもべには「怠け者」と語られました。
【2.たとえ話が教えている事】 主人は神様であり、またイエス様です。しもべはイエス様の弟子たち、私たちです。イエス様は必ずもう一度来られます。主人は、私たち一人一人を良く知っておられ、それぞれにタラント、それは私たちに与えられている「すべてもの」ですが、それを託しておられます。
【3.たとえ話から私が聞く事】 神様が、私たちに求めておられることは、私たちに期待して託した賜物を忠実に用いることです。イエス様は、私たちを愛しておられ、多くのものを任せておられます。そのことに信頼して、私たちが今ある生活を喜び、また与えられているものを感謝し、さらにそれを用いて、大胆に生きることを願っておられます。


2025年5月18日 ピリピ1:27-30 「主を信じること、苦しむこと」

【はじめに】 1章27節から2章18節までを一つのまとまりと考えて、今日はその最初の1章27節から30節を読んでまいります。
【1.キリストの福音にふさわしい生活 27】 パウロは、ピリピの信徒、そして私たちに「ただキリストの福音にふさわしく生活しなさい。」と命じます。それは市民としての生活(3:20)、教会生活とも言えます。それは特権であり、責任ある生き方です。「キリストの福音」とは、イエス様を通して与えられた救いの知らせであり、救われた者たちが、イエス様を主として、天に国籍を持つ者として、神様のご支配のもとに生きる知らせです。
【2. 霊を一つに堅く立つ 27-29】 そのためにも、私たちは、霊を一つにして(一つの霊において)、一致して堅く立つことが必要です(2:1)。それは、聖霊によって実現します。そして、そこには「福音の信仰のために心を一つにして戦う」群れとなり、その群れは迫害の中に立ち続けることができます(エペソ4:1-3)。
【3.キリストにある救いと苦しみ 29-30】 キリストのために受けた恵みは、ただ信じるだけで、罪を赦され、義と認められ、永遠のいのちを与えられ、神の子とされた恵みばかりでなく、福音の信仰のための苦しみも受けたのです。そのことはパウロの姿にも見られるものでした(Ⅱテモテ3:12)


2025年5月11日 ルカ3:21-38 「イエスとは何者か」

【はじめに】 先週のヨハネの出来事と前後しますが、本来、悔い改めのバプテスマを受ける必要のない罪のない御子イエス様がヨハネから洗礼を受け、宣教の働きが始まっていきます。
【1.父と子と聖霊 21-22】 イエス様が洗礼を受けられると、天が開け、聖霊が鳩のような形をして降って来られ、父なる神様から「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」との声がしました(マルコ1:9-11)。公生涯を前に、大切な働きを前に、イエス様は、ご自分が神から愛され、聖霊がともにおられることを確認されました。(ヘンリ・ナウエン「愛されている者の生活」)
【2.イエス様のバプテスマ 21-22】 イエス様の祈りの姿をルカは記録します。そして、私たちにふさわしいことを示されるため、イエス様は洗礼を受けられます(マタイ3:15)。イエス様を信じたならば、主に従って、洗礼を受けることはふさわしい事です。
【3.イエス・キリストの系図 23-38】 ルカの記録するイエス様の系図は、最初の人アダムにまでさかのぼり、さらに、神に至ると記録します。イエス様は、まさに全人類に関わるまことの人としてお生まれくださいました。そしてまた人は神との関係に生きる者であることに心を向けつつ、イエス様ご自身は、まさしく神の子なるお方であることにも心を向けます。


2025年5月4日 ルカ3:1-20 「神の前に生きる」

【はじめに】 今日は、イエス様の公生涯が始まる前に、道備えのために生きたバプテスマのヨハネという人の働きから、神の前に生きる者の姿を確認してまいります。
【1. すべての人への神の救い 1-6】 ルカはその時がいつ頃のことかを様々な人々の名を挙げて記録します(ティベリウスの治世15年:27-29年頃か)。ヨハネはヨルダン川周辺で悔い改めのバプテスマを宣べ伝えます(Ⅱ列2:6)。そして、イザヤの預言のとおりに、御子の到来によって、すべての人が神の救いを見るために、それに先立って人々の心を神に向け、道備えをします。
【2.悔い改めの説教 7-14】 ヨハネは、自分たちはアブラハムの子孫なのだから、神のさばき(怒り)に会うことはないとうそぶく指導者ら(マタイ3:7)、群衆たちに、心からの悔い改めを迫り、その生き方を変えるように迫ります。人々は「それでは、私たちはどうすればいいのでしょうか。」と応じます。心から神に向かう(悔い改める)ところに、罪の赦しの道が開かれ、良い実を結びます。
【3.キリストによる恵みの到来 15-20】 しかし人の力では、罪からの本当の赦しと解放はありません。私たちには、本当の救い、罪の赦し、罪からの自由を与えるお方が必要です。そのお方は神の御子イエス様です。このお方は、信じるものたちの罪を完全に赦し、そればかりか、完全にきよめてくださるお方です。


2025年4月27日 ヨハネ20:30-31 「イエス様を信じる」

【はじめに】先週はイースターでしたが、今日の出来事は、イエス様の復活された日曜日の夕方から始まります。
【1.平安があるように 19-22】 弟子たちは自分たちもイエス様のように捕まるのではないかと恐れ、鍵を閉じ、部屋に閉じこもっていました。そこにイエス様が現れて「平安があるように」と語られます。さらに、イエス様は、自分が父なる神様から救い主として遣わされたように、今度は、弟子たちを、その良い知らせ(福音)を届けるものとして、聖霊の力によって、遣わされます。
【2.遣わされた者 23】 弟子たちは、イエス様の御名によって、罪の赦しを宣言する使命を与えられました。イエス様が自分の罪のために死なれ、よみがえられた救い主であると信じるものには、罪の赦しが宣言されます。しかし、それを拒否する者の罪は残ります。これはすべての人にとって大切な問いかけです。
【3.見ないで信じる 24-29】 イエス様が弟子たちのところに来た時、トマスはそこにいませんでした。彼は、イエス様の傷に手を入れなければ信じないと言いました。そんなトマスのもとにもイエス様は来てくださいました。トマスはイエス様を「私の主、私の神」と告白します。イエス様は「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」、「見ないで信じる人たちは幸いです」と語りかけます(Ⅰペテロ1:8-9)


2025年4月20日 ピリピ1:19-26 「クリスチャンの死生観」

【イースター】 今日は、イエス様の復活を覚えるイースターです。イエス様は、十字架で死なれ、葬られ、墓は封印され、兵士が見張りにつきました。しかし、日曜日の朝、大きな地震が起こり、み使いが石を転がし、墓にやって来た女性たちに、み使いは、イエス様の復活を告げます(マタイ28:6)。イエス様は今も生きておられ、神の右の座で私たちのためにとりなし、また私たちとともにおられ、もう一度、この世に来られます(再臨)。
【本論1.キリストがすべて 18―20】 パウロは、イエス様を信じ、人々が救われ、自分もともにその救いにあずかる事を確信していました(ヨブ13:16)。そして、生きるにしても、死ぬにしても、自分の身によってキリストが大きくされることを願います。そのためにも、人々の祈りと御霊の支えは重要です。
【本論2.クリスチャンの死生観 21】 クリスチャンにとっての死生観について、生きるのは、信じる者のうちにおられるキリストを生きる事(ガラ2:20、ローマ14:8)、死ぬことは、キリストのもとにある恵みです。死は復活の通過点です。それは、イエス様がよみがえられ、罪と死に打ち勝たれたからです。
【本論3.神のみこころに生きる 22-26】 私たちのこの世の歩みは、神のみこころを求め、イエス様があがめられ、実を結んでいくことです。


2025年4月13日 ルカ2:41-52 「主イエスのように成長する」

【受難週】 主の十字架は、イスラエルの民がエジプトから救い出されたことを記念する過ぎ越しの祭り(羊の血によってさばきが過越した)の時に起こります。イエス様が日曜日、ろばの子に乗ってエルサレムに入城された時、人々はなつめ椰子(棕櫚)の枝で歓迎します(ヨハネ12:13、ゼカリヤ9:9)。しかし、数日後、人々は「十字架につけろ」と叫び、イエス様は十字架で死んで、葬られます。しかし三日目によみがえられました(イースター)。
【1.神の御子なるイエス様 41-50】 ナザレに帰る道、ヨセフとマリアは少年イエス様がおられないことに気づきます。エルサレムに戻ると、イエス様は神殿におられ、「わたしが自分の父の家にいるのは当然である」と答えられます。イエス様は神の御子、神なるお方です。
【2.両親に仕える 51】 イエス様は、両親に仕え、宣教の働きに出る時まで、母マリア、弟や妹を支えました。その姿は、十戒の「父と母を敬う」そのものでした。母マリアは、すべてのこと(ことば)を心に留めて歩みました。
【3.まことの人なるイエス様 52】 先の40節と同様、イエス様の人としての成長が記録されます。ここには「神と人とにいつくしまれ」とあるように、神様と、そして人々からの恵み、愛を受けて成長された姿を覚えます。


2025年4月6日 ルカ2:22-40 「救い主を待ち望む」

【1.律法に従う家族 22-24】 ヨセフとマリアは、律法に従って、きよめの期間(レビ記12章)を過ごした後、幼子を主の前に献げるために神殿に上ります。主の家族は、神のみこころの現れである律法に従う者たちでした。
【2.シメオンの喜び 25-35】 シメオンは聖霊に導かれ、神殿の上って来た幼子イエス様に出会います。彼はイスラエルの慰めを待ち望んできました。信仰者の歩みは、神様に期待し、待ち望む歩みです。シメオンは、イエス様に出会った時、御救いを見たと語り、その救いは、イスラエルの民だけでなく、異邦人を照らす啓示の光であり、御民イスラエルにとって栄光となると語りました。イエス様は、すべての人の救いです。さらにシメオンは、主イエス様が審判をもたらし、ある人は倒れ、ある人は立ち上がると語ります。しかし、このお方は、人々の反対にあい、その母マリアの苦しみも語ります。それは、多くの人々の心のうちが明らかにされるためです。
【3.アンナの喜び 36-40】 アンナもシメオンと同じように、救い主の到来を待ち望みつつ歩んだ信仰者でした。その人生は、決して平穏無事でもなく、華やかなものでもありませんでしたが、忠実な信仰者の歩みでした。そして、まことに人となられた神の御子イエス様は、知恵においても、肉体においても、神の恵みの内に成長しました。