日付 聖書個所 メッセージタイトル 説教要旨
2024年度(2024.4-2025.3)
2025年3月2日 ルカ2:1-7 「救い主のいる場所がなかった」
【1.イエス様の誕生の時 1-2】 イエス様の誕生の時は、ローマの皇帝がアウグストゥス(オクタビアヌス)の時、シリア州の総督がキリニウスの時、ローマ帝国全土に、住民登録の勅令が発布されていた期間の出来事です。さらに加えると、ヘロデ大王(マタイ2章)の最晩年(前4年に死去)に起きた歴史的な出来事です。
【2.イエス様の誕生の町 3-6】 イエス様の誕生は、ダビデの町ベツレヘムでした。この町はダビデ王の出身地です(Ⅰサムエル16:1)。ダビデは、その王座が、永遠に堅く立つことが約束されます(Ⅱサムエル7:16)。さらに預言者を通して、ますます明らかにされます(イザヤ9:6-7)。またその子孫の誕生がベツレヘムである事も語られました(ミカ5:2)。神様の奇蹟的な采配で、住民登録のためにベツレヘムにヨセフとマリアは導かれ、マリアの月が満ち、イエス様の誕生が実現します。
【3.イエス様の誕生の場 7】 イエス様の誕生の場は、飼葉桶に寝かされ、「宿屋には彼らのいる場所がなかった」という場所でした。神であられたイエス様は、へりくだって、私たちのところに来てくださり、羊飼いたちが、はばかることなく近づくことが出来ました。多くの人々が、また時には私たちも、イエス様のいる場をもちません。私たちには、イエス様がいる場があるでしょうか(イザヤ53章、ヨハネ1:9-12、ピリピ2:6-11)
2025年2月23日 Ⅰサムエル9:16 「最初の王様サウル」
【はじめに】 教会学校では、しばらく旧約の人物のお話を聞いています。今日は、イスラエルの最初の王様となったサウルの最初の出来事です。
【1.王を求める民 8章】 サムエルは年をとり、その子どもたちも神様から離れている姿を見て、民は、他の国のように自分たちにも王が欲しいと願います。それは、彼らにとっての王である神様を退ける事でもありました。しかし、神様はその事をお聞きになります(8:5-7、18-19)。見えない神様よりも、見える何かに頼ろうとする私たちの心があるでしょうか。
【2.サムエルとサウルの出会い 9章】 サウルは、不思議な導きでサムエルのもとを訪れます。神様は前もってサムエルに、サウルのことを伝えており、彼がイスラエルの王様となる事を告げます。サウルは、自分はそんなものではないと謙遜に答えます(9:2-3、6、16、20-21)。やがてサウルは変わってしまいますが、私たちは最初の信仰、謙遜、愛にとどまる者でありたいと願います。
【3.最初の王となるサウル 10章】 サウルはサムエルから、王のしるしとして、油を頭に注がれ、また神様の霊が降ると新しい人、新しい心に変えられます。サムエルは、人々の前で、くじを引いて、サウルが王であることを宣言します。サウルは隠れており、また彼について悪く言う人もいました(10:1、22,27)。神様は、神様を恐れ、信頼し、従い、仕えるものを求め、その人を用いられます。
2025年2月16日 ピリピ1:3-11 「完成させてくださるお方」
【1.私たちの交わり 3-5】 パウロは、ピリピの信徒たちを思うたびに、「私の神に」感謝すると言います。さらに、彼らのことを祈る毎に、喜びと共に祈ると言います。それは、彼らが最初から今に至るまで、福音を伝える交わり(コイノニア)にあったからです。私たちもそのような交わりの中にある事を思い起こしましょう。
【2 完成させる主 6-8】 パウロは、私は「堅く信じている」と語ります。それは、良い働き、すなわち救いのみわざを私たちに始めてくださった神様は、その完成まで私たちを導いてくださるお方です。その完成の日は、イエス様がもう一度、この世に来られる再臨の時です。ピリピの信徒たちは、その日を待ち望みつつ、パウロと共に、どんな状況にあっても、恵みを分かち合います。それは喜びと共に、苦しみもあります(1:29)。そして、パウロは、ピリピの信徒たちを心から愛し、覚えます。その姿にならいたいと思います。
【3 豊かな愛のための識別 9-11】 パウロはピリピの信徒たちが、知識と識別力によって、その愛がますます豊かになるように祈ります。そのために大切なことを見分けることができ、そして、キリストの日をいつも意識し、神の前に純真で、そして私たちに与えられた義の実に満たされ、神の栄光が現わされることを祈ります。
2025年2月9日 ルカ1:57-80 「闇の中に昇る光」
【はじめに】 今日は、バプテスマのヨハネの誕生の出来事に聞いてまいります
【1.ヨハネの誕生 57-66】 み使いのみ告げのとおり、ヨハネの誕生は多くの人々の喜びとなります(1:14)。人々は、旧約聖書に従って、生まれて八日目の割礼のため、また当時の習慣で父親の名をつけようとやってきますが、エリサベツとザカリヤは、み使いの命令に従って、生まれた子に「ヨハネ」と名を付けます。その時、父ザカリヤは、み使いが語った通り、口が開かれます。主の御手は、その子とともに、また主を恐れる者たちとともにあります(使11:20)。
【2.旧くからの約束 67-75】 ザカリヤは聖霊に満たされて預言します。前半は、神様が旧くからの約束を確かに実現されるゆえに、その御名を賛美します。それはアブラハムの子孫として(創22:17-18)、またダビデの子孫として、まことの王、メシア(救い主)を遣わされる約束です。
【3.約束の実現としての救い主 76-80】 旧約聖書で語られた約束は、主イエス様の誕生で実現します。ザカリヤは、自分の子が、救い主なるお方に先立って、道を備えるものとなることを預言します(マタイ3:2)。そして、イエス様は、罪と死の闇の中を歩む私たちのために、曙の光としてお生まれになり、私たちを罪の赦しと神とともに歩む平和の道に導くのです。このお方を信じ、罪を赦され、神との平和の道を、闇から光の中に歩みましょう。
2025年2月2日 ルカ1:26-38(26-56) 「喜びの知らせ」
【1.喜びの知らせ 26-38】 ナザレに住む処女マリアのもとにみ使いガブリエルが遣わされます。み使いは、マリアに「おめでとう(喜びなさい)」と語ります。そしてあなたは、神のもとに恵みを見出すのですと語られます。み使いはマリアに、あなたは男の子を身ごもり、その名をイエス(主は救い)と名付けるように言われます。その子は救い主、王の王なるお方であることが語られます。マリアはどうしてそのようなことが起こるのかと尋ねると、み使いは神によって、そのことが起こると語ります。そして神にとって不可能な事は何もないと語ります。マリアは、そのことを、自分の事として受けとめます。
【2.喜び踊る知らせ 39-45】 マリアは、似たような経験をしている親類のエリサベツを訪ねます。するとエリサベツも、そして胎内にいた子どもも喜び踊ります。そして自分の救い主であるお方の母となる方が来られたと告白します。そして主のことばを信じる者の幸いをエリサベツは告白します(ルカ11:27)
【3.喜びの賛美 46-56】 聖霊に導かれて語られたエリサベツのことばを聞いて、マリアは賛美をささげます。このような小さなものに目を留めてくださった主を賛美しつつ、御子イエス様の誕生は世界の物事を逆転させ、その誕生はまさに主が約束されたことの実現である事を告白します。神のあわれみは主を恐れ、主に信頼する者に注がれます。
2025年1月26日 ルカ19:1-10 「ザアカイ」
【はじめに】 今日は、ザアカイ(「義人」「きよい人」)いう人のお話です。
【1.ザアカイという人 19:1-2,7-8】 エリコは古くからの町で、交通の要衝でした。取税人はローマ帝国に納めるために、お金を人々から集めます。しかし、異邦人であり、敵国でもある彼らと関係を持ち、さらには脅しや不正でお金を集めた彼らは、人々から罪人の中の罪人と見下されていました。おそらく、ザアカイは、お金はあっても、孤独であったと思いますが、イエス様は、そんなザアカイの心の奥底をご存じでした。
【2.ザアカイとイエス様の出会い 19:3-5】 ザアカイはイエス様が町に来られたと聞き、イエス様を一目見たいと外に出ます。背が低く、人々に阻まれ、そして木に登るザアカイをあざける者たちもいたでしょう。彼は、自分が、どんな存在かをあらためて感じたでしょう。そんな彼に、イエス様は、急いで、降りてきなさいと語られ、さらに、今日、あなたの家に泊まることにしてあると語られます。イエス様が名を呼び、招き、受け入れてくださいました。
【3.変えられたザアカイ 19:6-10】 ザアカイは、イエス様の招きに応じ、イエス様を向かい入れ、新しく変えられます。自ら進んで、その感謝と喜びを示します。アブラハムの信仰にならい、神への信仰に生きる者とされました。人の子であるイエス様は、神の前に失われたすべての人を救うために来られたのです。
2025年1月19日 ピリピ1:5-25 「ピリピの信徒への手紙」
【はじめに】 第三週は「喜びの手紙」とも言われるピリピ人への手紙から聞いてまいります。
【本論1.ピリピ人への手紙】 これはピリピにある教会の信徒たちに送られた手紙で、ピリピはローマの重要な町でした。第二回の伝道旅行(使徒16章)の時に、ヨーロッパに最初に築かれた教会で、パウロを物心両面で支えた群れでした。著者パウロは、おそらくローマで、投獄の身でした(1:13-14)。そこにあるピリピの教会からエパフロディトが物資をもって派遣されます(4:18)。しかし彼は、重病になります。回復後、彼は、この手紙を携え、ピリピの教会に送られます(2:25-30)。パウロは、主にある兄弟姉妹の愛と交わりを喜びました。その主は、人となられ、死なれ、よみがえられたお方です(2章)。その主に倣い、主にある喜びをパウロはこの手紙で分かち合います。
【本論2.主にある聖徒たち 1:1】 しもべは、自分のすべてが、主人のものであることを認めます。私たちは、主に結ばれ、聖徒として召されました(Ⅰペテロ2:9-10)。
【本論3.恵みと平安の挨拶 1:2】 「恵み」は神様からの一方的な、自由な、功績のない者、罪人に注がれる愛です。「平安」は、平和であり、まず神との平和、そこから人と人との平和が生まれます。私たちは、平和を作り出すものとして遣わされており(マタイ5:9)、そこに喜びが満ちあふれます(ピリピ4:4-7)
2025年1月12日 ルカ1:5-25 「時が来れば実現することば」
【本論1.登場人物の背景 1:5-7】 ヘロデ大王がローマ帝国からユダヤ地方の王として認められ、治めていた時のことです。祭司ザカリヤは、妻エリサベツと共にアロンの家系に属し、神の前に正しく歩んでいました。しかし、彼らには子がおらず、年を取っていました。
【本論2.喜びをもたらす計画 1:8-17】 ザカリヤが神殿で香を焚き、民のために祈りをささげる大切な奉仕に就いた時、み使いガブリエルが彼に現れ、あなたの願いは聞かれ、子が与えられると告げます。その子は、救い主に先立って、民の心を神に向け、備えをなすものとなります。まさしく罪を贖い、民を救われるお方に先立て、整える者の誕生が約束されました。その子の誕生もまた、多くの人にとって、あふれるばかりの喜びとなります。
【本論3.人間の応答 1:18-25】 喜びの知らせ、神様の大きなご計画に対して、私たちは、すぐに信仰の応答をすることができないことがあります。ザカリヤは自分の現状から、素直に、信じることができませんでした。み使いガブリエルは、ザカリヤに、その約束が確かなことを示すため、しるしとして口がきけなくなると語ります。しかし神のことばは、時(カイロス)が来れば必ず実現します。やがてエリサベツは身ごもり、彼女は、主が私に目を留め、私から恥を取り除いてくださったと告白します。私たちはどうでしょうか。
2025年1月5日 ルカ1:1-4 「確かであること」
【はじめに】今年は、第一と第二週にルカの福音書を開きます。まずは全体像を確認します。
【1.ルカの福音書】 この福音書と使徒の働きを書いた著者は同じ人物と考えられます(ルカ1:3、使徒1:1)。伝統的に、その人は医者のルカと考えられ(コロサイ4:11)、彼はパウロの身近にいた人でした(Ⅱテモ4:11)。また、この福音書の特徴には、独自のたとえ話(「良きサマリヤ人」「放蕩息子」など)や、女性、子ども、弱い立場の人たちへの深い関心、聖霊なる神様の働きも強調されています。当然、その中心は、救い主イエス様についてでありますが、イエス様についての様々な表現も出てきます(「神の子」「主」「キリスト」「王」「ダビデの子」「人の子」など)
【2.歴史的出来事 1:1-3】 ルカはマルコの福音書などを参考に、救い主イエス様の歴史的出来事を初めから綿密に調べ、順序だてて書き記しました。その出来事は、救い主イエス様が成し遂げた出来事であり、まさに神が私たち人類を救い出す、救済の出来事でした。
【3.確かな事 1:4】 ルカはこの福音書を通して、イエス様の出来事が、イエス様のことばが、イエス様の成し遂げられたことが、確かであることを知ってほしいと願っています。
2025年1月1日 ヨハネ15:11 「喜びで満ちあふれる」 新年礼拝
【1.三年間の大きなテーマ Ⅰテサロニケ5:16-18】 第一テサロニケ5章16ー18節を次の三年間の歩みにおいて思い巡らしつつ、今年は「喜び」に心を向けたいと思います。私たちの喜びは、「イエス様の喜びにある喜び」です。イエス様と共にあって、イエス様から分かち合われる喜びを味わいましょう。
【2.イエス様にある ヨハネ15:1-10】 ヨハネ15章において、イエス様は「わたしはぶどうの木」、「あなたがたは枝です」と語られました。イエス様にとどまるなら、私たちは豊かな実を結ぶことができます。その実の一つが「喜び」です。イエス様にとどまるとは、イエス様の愛にとどまることであり、それはイエス様の戒めを守ることです。私たちは、祈りの中に、聖書の思い巡らしの中に、共に信仰生活を歩む中に、ますますイエス様を知るものとされていきましょう。
【3.主の喜びで満ちあふれる ヨハネ15:11】 イエス様の喜びとは何だったのでしょうか。一つのことを思い巡らしますが、父なる神様とイエス様は親しい交わりのうちにあって、いついかなる時にも、自分自身が御父から覚えられている喜びがあったでしょう。私たちも、イエス様にあって、いつも神様の前に覚えられていることを確信し、そこにある喜びを味わってまいりましょう。
2024年12月29日 エズラ3:13 「喜びも悲しみも一つに」
新年特別号より
【はじめに】今年は、昨日の感謝礼拝に続いて二日連続の礼拝、さらに大泉と尾島の合同新年礼拝と二倍の祝福から始まります。
【1.裏・年間聖句 イザヤ37:31(Ⅱ列19:30)】今年の年間聖句はエズラ記ですが、イザヤ書37章31節「下に根を張り、上に実を結ぶ。」にも心にとめて、尾島宣教100年、大泉宣教75年を迎えます。歴史に根ざし、今、実を結ぶことを願わされます。
【2.エズラ記の背景】エズラ記の前半は、イスラエルの民がバビロン捕囚から帰還し、破壊された神殿再建の様子が描かれます。まさに今年の箇所は、その神殿の礎が据えられた時のことです。
【3.喜びも悲しみも一つに】見るも無残に崩れ去った神殿の礎が築き直されます。人々は、まず、神様への礼拝をささげます(3:10-11)。ところが、涙を流す者たちもいました(12)。それは、かつての神殿と比べての涙か(ハガイ2:3-4)、神へ悔い改めか、また回復への感謝と喜びの涙か。いろいろな思いが交錯しながら、その声は一つ叫びとなって響きました。教会の歩みも、私たちの歩みにも、喜びと悲しみがありますが、それが一つの叫びとなって、再建に向かい、前進することに期待して歩んで参りましょう。
2024年12月22日 ルカ2:8-14 「みつかいたちのさんか」
【はじめに】 今年は、「救い主イエス様を遣わされた神様への感謝と賛美」というテーマで、聖書のメッセージを聞いてきました。
【1.羊飼いの賛歌 2:8-12、15-20】 救い主の誕生の知らせを最初に聞いたのは羊飼いでした。当時、羊飼いは社会の片隅にあって、その証言は重要視されない、そんな存在でした。しかし、彼らの証言から始まったイエス様の誕生の知らせは、今日、全世界に鳴り響いています。
【2.み使いの賛歌 2:13-14】 夜空に、み使いの大合唱が響きます。「いと高き所(天)で、栄光が、神に」、「地の上で、平和が、みこころにある人に」と。この「平和」とは、神様と私たちの平和です。人は本当の神様から離れ、神様に背を向けて歩むようになりました。聖書はそのことを「罪」と言います。私たちと神様の間に平和を回復するために、イエス様はお生まれになりました。イエス様の十字架の出来事によって、私たちの罪が赦され、神の子どもとされ、永遠のいのちを与えられる約束が与えられました。そしてこの神との平和が実現するところに、人と人の平和も生まれます。それこそが、本当の平和であり、私たちはそこに安らぎを見出します。皆さん、今日、イエス・キリストを信じ、2025年に向かって新しい出発をしようではありませんか。
2024年12月15日 ルカ2:1-7 「キリストの賛歌」
【はじめに】 今年は、「救い主イエス様を遣わされた神様への感謝と賛美」というテーマで、ザカリヤの賛歌、マリアの賛歌、そして今日は、「キリスト賛歌」に耳を傾けます。
【1.救い主の誕生 ルカ2:1-7】 住民登録というこの世の出来事を通して、預言のとおり、イエス様はベツレヘムで誕生され、飼葉桶に寝かされました。
【2.人となられた神の御子 ピリピ2:6-8】 「キリスト賛歌」とも呼ばれる詩の前半6節から8節は、キリストの「謙卑」が歌われます。まことの神なるお方が、まことに人となられました。このことは、「受肉」とも言われます。無限なるお方が、有限な人となられ、その制限を受けられました。決して「神である」ことを捨てたのではありません。そして永遠なるお方が、人として死をも味わわれたのです。新聖歌99「まぶねの中に」
【3.すべてに勝る名を受けるお方 ピリピ2:9-11】 そして、イエス様は、死を打ち破り、よみがえられました。ここに、私たちの罪の赦し、義認、神の子とされ、死に終わることない復活の希望があります。後半は、イエス様の「高挙」が歌われます。イエス様は、もう一度、この世に来られ、その栄光の御姿をはっきりと示されます。私たちはこのお方を覚えて、感謝と賛美をささげましょう。
2024年12月8日 ルカ1:46-56 「マリアの賛歌」
【はじめに】 第二アドベントに入りますが、今日は、イエス様の母となるマリアの賛歌に耳を傾けます。
【1.み使いのみ告げ 26-38】 マリアは、ナザレという小さな町に住むダビデの系図に属する女性でした。み使いガブリエルは、婚約中の彼女に、あなたは聖霊によって身ごもり、男の子を産み、名をイエスとつけ、その子が民を罪と滅びから救われるお方であると告げます。マリアは、主のことばを信じ、受けとめました。
【2.エリサベツを訪ねる 39-45】 しかしながら、マリアは色々な思いの中で、同じような経験をした親類のエリサベツを訪ねます。エリサベツはマリアに会うなり、胎の子が躍り、聖霊に満たされ「あなたは祝福された方、救い主の母となる方が私を訪ね、私も私の胎の子も喜び踊っています。主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです」と叫びました。マリアはそのことばに励まされたことでしょう。
【3.マリアの賛美 46-56】 マリアは、この小さいものに主が目を留めてくださったゆえに「主をあがめます」と賛美します。主は、私たちにも大きなことをしてくださいました。その恵みは、マリアだけでなく、主を恐れる者に代々にわたって及びます。それは人の力や知恵ではなく、神のみわざです。それゆえに神に感謝し、神の御名をほめたたえます。
2024年12月1日 ルカ1:67-80 「ザカリヤの賛歌」
【はじめに】 今日から「アドベント(待降節)」に入ります。主の御降誕を覚えつつ、主の再臨(もう一度、世に来られる時)を待ち望みましょう。
【1.ヨハネの誕生の予告 1:5-25】 祭司ザカリヤとその妻エリサベツは高齢になっていましたが子どもがいませんでした。ある日、神殿でザカリヤが奉仕していると、み使いが、子どもの誕生を告げます。しかしザカリヤはすぐに信じることができず、子どもが生まれるまで口がきけなくなってしまいました。
【2.ヨハネの誕生 1:57-66】 ザカリヤに約束された通り、しばらくして妻エリサベツは身ごもり、そして子どもが生まれます。二人はみ使いに命じられたように、その子の名をヨハネ(主は恵み深い)と名付けました。するとザカリヤの口が開け、沈黙は賛美の歌声に変わりました。
【3.ザカリヤの賛美 1:67-80】 聖霊に満たされたザカリヤの預言と賛美は、主への賛美と救い主の誕生の預言(68-70)、イスラエルの民を通して現わされた神様の救いは敵の手から救い出し、神の御前に歩む者とされること(71-75)、救い主の到来に先立ち幼子(ヨハネ)が遣わされ罪の赦しによる救いを語る事(76-77)、そしてついに暗闇に光が与えられます(78-79)。神様の約束されたことは確かに実現します。その約束の素晴らしさのゆえに神様に感謝し、賛美をささげます。
2024年11月24日 ルカ10:38-42 「ただひとつのひつようなこと」
【1.イエス様を迎えるマルタ 38】 イエス様たちが、ベタニアの町に入ると、マルタさんが喜んで家にお迎えし、心からのもてなしをはじめました。
【2.イエス様のお話を聞くマリア 39-40】 しばらくすると、姉のマルタは、あれこれ気を遣って働いているのに、妹のマリアは手伝いもしないで、イエス様の足元でお話を聞いています。マルタは怒って、イエス様に文句を言いました。はじめはイエス様に目を向けていたマルタは、いつの間にか、色々なもてなす事で、心が一杯になってしまいました。
【3.ただ一つの必要なこと 41-42】 イエス様はその機会をとらえて、マルタに、そして私たちに大切なことを示されます。必要なことは一つだけです。それは、マリアがしているように、イエス様のことばに聞く事、イエス様のそばにいることです。
【考えよう】 必要なことは沢山あります。でも、ただ一つの必要な事は、イエス様のことばを聞き、イエス様のそばにいるです。やらなければならない事があります。楽しい事があります。困った時だけ神様のところに行けばいいと思うことがあります。でも、そのようにして「ただ一つの必要な」ことを失っていることがないでしょうか。また、教会に来ていながら、色々な奉仕をしながら、イエス様と一緒にいることを忘れてしまう事がないでしょうか。
2024年11月17日 ローマ5:1-5 「素晴らしい贈り物」 メッセージ:舘野克己師
【はじめに】 子どもたちと歌う讃美に「ぼくのたからもの」がある。そこでは「ぼくの宝物はイエスさまを知ったことイエスさまと一緒に生きること」と歌います。イエスさまをどのように知ったのでしょうか。イエスさまと一緒に生きるとはどういうことでしょうか。
【1.神との平和を持っている者たち 1】 「平和の神」との表現もありますが、ここでは「神との平和」です。それを与えてくださるのは主イエス・キリストです。この方以外にはおられません。人類史上、唯一のお方です。
【2.喜ぶ者たち 2-4】 この箇所は「喜ぶ」ということばが中心でしょう。それは与えられた立場と関係があります。イエスと結び合わされていることと関係しています。
【3.希望に生きる者たち 5】 「希望」は困難な時(時代)にあっては特に必須なものです。失望、絶望は悲しいことばです。神が与えてくださる希望はいつまでも続くのです。
【まとめ】 「平和」「喜び」「希望」これら全ては私たちに贈呈されました。私たちがすることは感謝であり、全存在を通しての証しではないでしょうか。
2024年11月10日 イザヤ2:1-5 「希望の先取りを生きる」 韓国 主イエス教会 青年による 証と賛美
【はじめに】 今日の一節は、国連の本部広場にあるイザヤの壁という記念碑の中に刻まれています。「剣を鋤に、その槍を鎌に」、しかし、その姿とは裏腹に、現実を見る時に、私たちは心を痛めます。
【1.終末の預言 1-4】 このイザヤの言葉は、終わりの日の出来事で、それはやがて実現する世界の姿です。すなわち、すべての国々が主なる神のもとに集い、主の道を歩み、主のことばに聞き従うというのです。その結果こそ、先ほどの「剣を鋤に、槍を鎌に」という平和の完成に向かいます。しかしこの約束は、ただ未来の希望であって、今の世界においては、全く望みがないのでしょうか。
【2.個人的な思い巡らし】 (大泉)アメリカ、ブラジル、韓国とのこと。(尾島)韓国「提岩里教会」でのこと。
【3.隔ての壁を打ち破るお方 5】 イザヤは「来たれ。ヤコブの家よ。私たちは主の光に歩もう」と語りかけます。イエス・キリストはすべての隔ての壁を打ち砕かれると約束します(エペソ2:14-16)。キリストの十字架は、神との平和を、人と人との平和を実現します。私たちは、国を越え、一つの家族となる小さな一歩を踏み出すことができます。そして、その希望はやがて完全なものとなる日が来ます。その希望に目を留めながら、今日は、その前味を経験してまいりましょう。
2024年11月3日 Ⅲヨハネ1:1-4(1章) 「名を呼んで、よろしく」
【1.この手紙について】 伝統的立場に立って、ゼベダイの子、使徒ヨハネが福音書より後、黙示録よりは前の紀元90年前後に、晩年を過ごしたエペソ(今日のトルコ南西)で、エペソかその周辺の教会の長老と思われるガイオという人に書いた手紙と理解しておきます。
【2.旅人をもてなす 1-8】 ヨハネは心と体の健康が幸いであるようにと祈り、主の愛のうちに歩み続けている人々の姿を大いに喜びます(1-4)。そして当時、各地を巡回しながら伝道していた人々をもてなし、支援するように勧めます。直接の働き人も、彼らを支援する人も、同じ真理のために働く同労者です。
【3.交わりを破壊する者 9-12】 しかしそのような者たちを助けることを快く思わないディオテレペスという人がいたようです。意見の相違が起こり、彼はヨハネたちのことばを受け入れず、さらには、宣教師たちを支援する事を願う人々を追い出していました。しかし、その問題の背後には、彼の権力欲、「かしらになりがっている」という問題がありました。その姿は、主にある指導者の姿ではありません(マタイ20:25-28)。私のことばと態度はどうだろうか。
【まとめ 13-15】 名前を呼んでよろしくと挨拶し、名前を挙げてお互いの心と体の健康が幸いであるように祈る一週間を歩みましょう。
2024年10月27日 ヨシュア記14章、24章 「カレブとヨシュアの信仰」 子どもと一緒
【はじめに】 子どもの礼拝では、エジプト脱出、約束の地カナンに入るお話などを聞いてきました。今日はヨシュアとカレブという二人の人のお話です。
【本論1.若い時の二人の信仰 民数記13-14章】 まずは二人の若い時のお話ですが、二人は約束の地を前に、偵察隊として送られた十二人のリーダーの中にいました。二人だけは、神様の約束を信じて、神様に従うことを選ぶように主張しましたが、他の人たちの反対もあって、イスラエルの人たちは40年の間、荒野を旅することになりました。
【本論2.年をとったカレブ ヨシュア記14章】 年をとってからもカレブさんの信仰は弱ることなく、神様の約束を信じて、前進し続けました。カレブさんは「主が一緒にいてくださればできる。主の約束が確かになる」(14:12)と信じて、主に従い通しました(14:14)。皆さんの周りにもそのような信仰の先輩がいるでしょうか。
【本論3.年をとったヨシュア ヨシュア記24章】 ヨシュアさんも同じで、神様の約束を信じ、神様がいつも、ともにいてくださることを信じて、前進し続けました。110歳で死を迎える前に、神様への信仰を、民にチャレンジしました。民もまた、神様を信じ、従いますと告白しました(24:14-15、23-24)。私たちはどうでしょうか。また、先に召された信仰者たちを思い出してみましょう。
2024年10月20日 エズラ10章1節(10章) 「激しく泣いた」
【はじめに】 エズラ記の最後の章に入ります。まずは、いくつかの事柄を取り上げます。
【本論1.結婚の本質 創2章、マタ19章】 結婚の原則は、神が二人を一体とされます(創2:24)。ですから、それを引き離すべきではありません。これはイエス様も確認されました(マタイ19:4-6)。まず原則を確認した上で、様々な問題を見極める必要があります。
【本論2.事の背景 エズラ9章】 前回のエズラ記9章を振り返りますが、民の中に、異国人と結婚し、神の忌み嫌う習慣、偶像礼拝に影響を受ける者たちがいました。エズラや少数の者たちは神の前に悔い改め、そして、嘆きは民全体に広がっていきます。
【本論3.大きな決断 エズラ10章】 その悔い改めは、具体的な行動となって現れます。ここでは、異国人の妻とその子どもとの決別を決断します。これはとても難しい決断ですが、彼らにとっては、神の律法に背いたことへの悔い改めとしての選択でした。そして民は、自らその決断を選びました。
【まとめ】 罪に対する真剣な悔い改め、そこに注がれるイエス様の十字架の恵み、そして、結婚について思い巡らしましょう。
2024年10月13日 Ⅱヨハネ1章4-13節 「神の愛の交わりに歩む」
【はじめに】先週は、Ⅱヨハネ1章3節を祈りつつ過ごす一週間だったでしょうか。
【1.互いに愛し合う 4-6】ヨハネは、第一の手紙でもそうでしたが、繰り返し、互いに愛し合う事、それこそ神さまの命令ですと語ります。私たちは神に愛され、神の子どもとされ、真理の内を、神との交わりの中を歩む者とされました。それゆえに、私たちは、お互いを愛する愛の中に歩む者とされています。
そして、互いに愛し合うことは、神様の命令でもあります。
【2.気をつけなさい 7-11】この神との愛の交わりを破壊するものたちも存在します。特に、その人々は、イエス様が人となって来られたことを否定するものでした。それは、私たちのためにイエス様がこの世に来られ、私たちの罪のために十字架で死なれたことを否定する事であり、私たちに示された神様の愛を拒否する事にもつながります。それは、まさに神の愛を、互いに愛し合う交わりを破壊することになります。ですから、私たちは、聖書を通して語られる神様のみおしえを逸脱する教えに気をつけて歩みましょう。
【3.顔と顔とを合わせて 12-13】確かに、手紙、電話、メールは素晴らしい道具ですが、今週、私たちは、直接、誰かを訪ね、口と口で、すなわち顔と顔とを合わせて語り合う時間を持ってまいりましょう。
2024年10月6日 Ⅱヨハネ1章1-3節 「私たちの旗印」
【はじめに】 今月と来月で、ヨハネの手紙第二と第三を続けて読んでまいります。
【1.著者、執筆年代、執筆場所、宛先】 この手紙の著者は、第一の手紙や福音書、黙示録を記した使徒ヨハネが、晩年を過ごしたエペソで、90年前後に、「選ばれた婦人」、すなわち教会とその教会の一人一人に向かってこの手紙を書いたと考えておきたいと思います。
【2.全体像】 1節から3節は挨拶の部分で、「真理」と「愛」が何度も語られます。特にそのことが4節から6節で確認され、7節から11節は、私たちの信仰告白とそれを否定するものへの警戒が語られます。そして12節、13節が結びの部分となります。
【3.真理と愛】 私たちの旗印は、「真理」であって、それは偽りのない神の真実さ、その神のことばであり、そして、ヨハネは、特に、イエス様自身(ヨハネ14:6)であることを示しました。そしてそのお方の真実な「愛」を受けて、私たちは互いに愛し合うことができるのです。そして、この神から「恵み」と「あわれみ」と「平安」が注がれているのです。私たちは、真理と愛の内にある時に、いや私たちはすでに、神の子どもとされ、真理と愛の内にあるのだから、父なる神と、御子イエス・キリスト、そして信じる者のうちにおられる聖霊によって、恵みとあわれみと平安のうちに歩むのです。それが私たちの旗印です。
2024年9月29日 ルカ10章38-42節 「マルタの信仰」 信徒役員によるメッセージ奉仕
2024年9月22日 出エジプト32章31,32節(32章)「金の子牛(きんのこうし)」
【はじめに】子どもたちは、しばらくの間、モーセさんの生涯からメッセージを聞いています。先週は十戒のお話でした。今日は、特にその第一戒と第二戒を破ってしまう出来事が起こります。
【1.金の子牛を作る 1-6】人々はモーセがなかなかシナイ山から降りてこないので、心配になり、アロンさんに、自分たちの神様の像を作ってほしいと言い出します。アロンは金の耳輪を集めて、金の子牛を作ると、人々はそれを拝み、大騒ぎをしました。
【2.神様の怒り 7-29】神様はモーセに、このことを伝えます。そして、この民を滅ぼすと語られます。モーセは思い直して欲しいと願い、その願いが聞かれます。モーセはすぐに山を下り、怒って、十戒の板を砕き、また偶像も破壊しました。アロンは言い訳をしました。民は、厳しいさばきを受けました。
【3.モーセのとりなし 30-35】モーセはもう一度、神様に民の赦しを願い、もしかなわないなら、私が代わりにその罰を受けると願います。私たちには、私たちの罪を赦すために十字架で死なれたイエス様がおられます。神様は、罪を決して見過ごすお方ではありません。しかし赦してくださるお方です。
【まとめ】私たちの中にある偶像は何でしょうか。偶像から自分を守りましょう(Ⅰヨハネ5:21)
2024年9月15日 エズラ記9章5,6節(9章)「私の神よ。私は恥じています。」
【はじめに】エズラ記は、前半6章までが、バビロンから帰還した人々が神殿を再建する記録が、後半7章からが、エズラの働き、特に律法を確認(再建)する記録が記されます。その背景には民の結婚に関わる問題がありました。
【1.神の前に座り込む 1-4】 ある者たちがエズラに、民や神殿に奉仕する者たちの中に、異教的な習慣や偶像礼拝を行う者たちと結婚し、そのような生き方に歩んでいる者たちがいるとの報告を受けました。それを聞いて、エズラは嘆き、神のことばを恐れる者たちと黙って、神の前に座り込みました。
【2.神のあわれみを覚える 5-9】 夕方になってエズラは立ち上がり、神に祈り始めます。まずは先祖の罪に触れ、それゆえに、捕囚の憂き目にあったと告白します。エズラの祈りは決して罪を他人事にするのではなく、自らのこととして告白します。さらにエズラは、それにもかかわらず、神様のあわれみがあったことを告白します。
【3.神の前に罪を告白する 10-15】 そのような先祖の罪、それゆえの捕囚、そして神のあわれみを受けたにもかかわらず、今もなお、民が神の律法に背いて、異邦の民と結婚し、異教的な習慣、生き方に倣うものとなった罪を、エズラは神の前に告白します。私たちが、今、神の前に悔い改めるべき罪があるだろうか。神との関係を揺るがす関係が何かあるだろうか。
2024年9月8日 第一ヨハネ5章18-21節「私たちは知っています」
【はじめに】今日の箇所には、「私たちは知っています」という言葉が繰り返されます。そこで、この言葉を手掛かりに、三つのポイントで、御言葉に聞いてまいります。
【1.私たちは罪を犯さない 18】 ヨハネは、「神から生まれた者はみな罪を犯さない」と語ります。このテーマは、すでに、3章9節でも取り上げられました。神から生まれたものとは、イエス様を信じ、新しく生まれた者です。その立場は失われません。「すでに」そのようなものとされました。そして、「いまだ」完成はしていませんが、その立場にふさわしく成長し続けます。まさに「聖化」の歩みです。私たちは罪を犯し続けることなく、キリストに守られて、神との交わりの中に歩み続けます。
【2.私たちは神に属する 19】 ヨハネは、私たちは「神に属しています」と語ります。私たちは自分が何者か。すなわち、私たちは神に属し、神の側にあり、神から生まれた、神のものであることを自覚して歩んで参りましょう。
【3.私たちは神のうちにある 20-21】 ヨハネは、私たちが真実な方(神)を知らされ、真実な方のうちに、そして真の神であり、永遠のいのちなる御子イエス・キリストのうちにあると語ります。それはまさしく「神との交わり」にあります。私たちは、それを妨げるあらゆる偶像から自分を守りましょう。
2024年9月1日 第一ヨハネ5章13-17節「永遠のいのちに生きる」
【1.永遠のいのちを持っている 13】 ヨハネは、この手紙の目的を、イエス様を信じる者たちが永遠のいのちをすでに持っていることを分かってもらうためと語ります(ヨハネ3:16)。「永遠のいのち」とは、永遠の神と生きる将来に約束されたいのちであるとともに、今すでに、永遠のいのちであるイエス様にあって(Ⅰヨハネ5:20)、神とともに生きる新しいいのちです。その人生は、喜びに満ち溢れるものとなります(Ⅰヨハネ1:4)
【2.みこころにしたがった祈り 14、15】 ヨハネは祈りついて、神のみこころにしたがって祈る時、それは確かに聞かれたと確信できると語ります。祈りとは、神との会話であり、交わりです。その交わりの中で、神のみこころに沿うものとされていきます。私たちの祈りが、神のみこころにまで引き上げられることを願います。
【3.とりなしの祈り 16、17】 ヨハネは、兄弟が罪を犯しているのを見たなら、その人が神様の前に悔い改め、赦され、死に至らないように、とりなしの祈りについて語ります。罪から来る報酬は死です(ローマ6:23)。しかし聖霊なる神様は、私たちに語り続けてくださいます。しかし、このお方の声を拒み続けるならば、その罪は死に向かいます(マルコ3:29)。すべての人が、聖霊の御声に応答し、罪を悔い改め、イエス様を主と告白できるように、私たちは祈り続けましょう。
2024年8月25日 出エジプト11章1節「過越(すぎこし)」
【はじめに】 子どもたちは、モーセさんの出来事に聞いています。今日は過越の出来事です。
【1.神様からの災い 7-10章】 神様は、エジプトで奴隷として苦しむイスラエルの人たちを救い出すためにモーセを遣わされました。神様は10の災いを通して、イスラエルの民を救い出されます。最後の、わざわいは神様の言葉に従わないなら長子(長男)が死ぬというものでした。
【2.過越 11-12章】 ファラオ(エジプトの王の意味)は神様の言葉に従いません。イスラエルの人々は、羊を犠牲とし、その血を門に塗り、それにより、神様のわざわいが過ぎ越しました。
【3.エジプトを出る 12章】 ファラオはモーセたちに、出て行くように命じました。
【まとめ,暗唱聖句 ヨハネ3章16節】 過越しの出来事は、イエス様の十字架の型です。羊の犠牲、その血によってわざわいが過ぎ越し、人々がエジプトの奴隷状態から救われました。イエス様は私たちの身代わりとなって十字架で死なれ、それを信じる者は、神のさばきが過ぎ去り、罪と死の状態(永遠のほろび)から救われ、永遠のいのちを得るのです。
【祈り】 「神様、私はあなたの前に罪人です。しかし、イエス様が、私の罪の身代わりとなって、十字架で死なれた救い主であると信じます。」
2024年8月18日 エズラ8章18節(8章)「神の御手に導かれる」
【はじめに】エズラ記は、前半6章までが、バビロンから帰還した人々が神殿を再建する記録が、後半7章からが、エズラの働き、特に律法を確認(再建)する記録が記されます。
【1.あきらめない 1-20】 8章も7章に続いて帰還の前後の出来事ですが、最初に帰還者のリストが出てきます。これは2章の第一次の帰還者に比べると実に少数です。さらに、神殿に仕えるレビ人も集まりませんでした。しかし、エズラはあきらめず再度、願い求め、少数でしたが集めることができました。求める事、必要を神様が備えてくださるところにも「神の恵みの御手」がありました。
【2.主に信頼するとは 21-23】 エズラは今回の帰還に際して、神の御手に委ねて、王からの護衛を受けませんでした。エズラより、少し後のネヘミヤは護衛をつけて帰還します(ネヘ2:9)。両者ともに、神様に期待し、信頼し、その上で、知恵を尽くし、信仰をもって応答しました。私たちの行動はどうでしょうか。
【3.神の御手に導かれて 24-36】 多くの財を持ち、長距離の長旅も、神の御手があって守られました。エズラたちは到着して、罪の赦しのいけにえと、献身を示す全焼のいけにえをささげました。私たちもいつも主の前に罪の赦しと献身を新たにして始めてまいりましょう。
2024年8月11日 ヨハネの手紙第一 5章6-12節「神の御子を信じる者」
【はじめに】前回は、イエス様を神の御子と信じる者は、世に打ち勝つと語られましたが、このイエスと言うお方は、どのようなお方なのでしょうか。
【1.イエスは誰か 6-9】このお方は、「水と血によって来られた」とあります。いくつかの解釈がありますが、ここでは、イエス様の公生涯における最初の洗礼(水)と、その最後の十字架(血)と理解します。そしてまた聖霊がこのお方を証しします。それだけではなく、何より神が証言されるとヨハネは語ります(マタイ3:16-17)。私たちは主イエスを誰だと告白するでしょうか(マタイ16:15-16)。
【2.神を偽り者にしない 10】ヨハネは、イエス様を神の御子と信じない者は、神を偽りものとしていると語ります。なぜなら、神がイエス様について証言しているにも関わらず、それを受け入れないからです。私たちは、やがてそのことを神の御前で問われます。教会はイエス様を神の御子と告白する者の群れです。
【3.永遠のいのち 11-12】さらに、ヨハネは、この神の証言について、その証言とは「神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ」だと語ります。なぜなら、信じる者は、御子にあって、いのちをもっているからです。私たちが、イエス様とともに生きているいのち、それが永遠のいのちです。この永遠のいのちへ約束は、イエス様にしかありません。これは地上にあっても希望であり、やがて将来へ希望でもあります。
2024年8月4日 ヨハネの手紙第一 5章1-5節「勝利者となる信仰」
【はじめに】今日の1-5節には、これまでこの手紙で語られて来た「神から生まれる」「神を愛する」「神の子どもたちを愛する」「神の命令を守る」「世に打ち勝つ」などが凝縮されて語られます。
【1.愛に生きる信仰 1-3】ヨハネはイエス様をキリスト、すなわち救い主と告白する者は、神から生まれた者、まさに神の子どもとして新しく生まれた者であると語ります。その人は神を愛し、そしてその神から生まれた神の子どもたちを愛します。それは神の命令でもあります(4:12、4:20、マタイ22:37-40)。それは重荷とはなりません。
【2.世に打ち勝つ信仰 4】ここでの「世」とは、神に敵対する存在としての世ですが、神から生まれた者はみな、世に勝ったと言われます(2:14、4:4)。なぜなら、イエス様がすでに勝利されたからです(ヨハネ16:33)。私たちが勝つのは私たちの力ではなく、イエス様を信じることによって、このお方にあって打ち勝つのです。私たちは小さい存在ですが(Ⅱコリント6:8-10)、死にさえも打ち勝つ信仰者です。
【3.イエス様を信頼する信仰 5】ヨハネは、イエス様を神の御子と信じる者は勝利者となると語ります。このお方を神の御子、救い主と信じるなら、恐れは消え去り、その力に委ね、勝利を得るのです(マタイ14:27)
2024年7月28日 マタイ14章27節「水の上を歩く」
【はじめに】 今日は子どもと一緒です。子どもたちは先週、イエス様が、五つのパンと二匹の魚で、男の人だけでも五千人の人を満足させた奇蹟のお話を聞きました。今日はその続きの奇蹟の出来事です。
【1.水の上を歩くイエス様 22-27】 弟子たちは先にガリラヤ湖を舟で渡りますが、風のために進めません。イエス様は一人、山で祈られてから、水の上を歩いて弟子たちのところにやってきました。驚く弟子たちにイエス様は「しっかりしなさい。わたしだ(エゴ―・エイミ)」と言われました(出エジ3:14)。主は、私たちの人生の嵐の中でも、そのように語りかけてくださいます。
【2.水の上を歩くペテロ 28-29】 イエス様のところに行きたいと願うペテロに、イエス様は「来なさい」と語られます。ペテロは、水の上に、信仰をもって一歩を踏み出しました。私たちにとって信仰をもって踏み出すべき一歩は何だろうか。イエス様は神なるお方です。
【3.イエス様から目を離さない 30-33】 風を見たペテロは沈み始めます(支配されます)。すぐにペテロは「イエス様、助けて」と叫びました。イエス様は「信仰の薄い者よ、なぜ疑うのか」と言われ、助けてくださいました。私たちにとっての風は何か。
【質問】 あなたにとっての、嵐は?風は?イエス様は何と言われますか?
2024年7月21日 エズラ記7:27-28(7章)「主の御手が上に」
【はじめに】 主の御手が私たちの人生の上に、下に(申33:27)あることを覚えます。エズラ記は前半6章までは神殿の再建、後半7章以降はエズラを通しての律法の再建、復興が記録されます。
【1.王を動かされる主の御手 1-6】 時は、6章のダレイオス王から50年以上経って、アルタクセルクセス王の第七年(前457年頃)となっています。エズラは王の許可を得て、エルサレムに帰還します。ここにも主の御手が彼の上にありました。エズラは祭司の家系、モーセの律法に通じている学者でした。
【2.旅を導かれる主の御手 7-26】 バビロンからエルサレムまで約四カ月、その距離千キロ以上、男性、女性、子どもたちの旅も、神の恵みの御手が上にあって守られましたそして王の手紙は実に特権に満ちたものでした。そこにも神様の守りがあったことを覚えます。また指導者たちのためにも祈ることを覚えます。【新聖歌474】
【3.私を奮い立たせる主の御手 27-28】 エズラは、すべての事柄の背後に、神様の御手を覚えていました。周りの人々を動かし、旅を守り、そして、自分自身が奮い立って、一緒にエルサレムに帰る人々を集めることができました。私たちの教会の上に、私たちの人生の上に、主の御手があることを覚えましょう。
2024年7月14日 Ⅰヨハネ4:13-21 「神とともに生きる姿」
【はじめに】 前回は「愛」について、神の愛を知り、その愛を受けて、互いに愛し合うことを確認しました。
【1. 神とともに生きる姿 13-16】 12節には「互いに愛し合うなら」、神が私たちにうちにとどまることを確認しました。さらに、13節では「イエス様を信じる者に与えられる聖霊によって」、その事が分かると語られます。そして、15節では「イエス様を神の御子と告白する者」、16節では、「神の愛を信じる者」、神とともに歩む者たちの姿が、様々な側面から語られます。
【2.全き愛に生きる姿 17-18】 さらにヨハネは12節で、私たちが互いの愛に生きるなら、そこに神の愛が、完成すると語りましたが、17節では将来に目を向け、さばきの日に、神の前に、恐れなく、立つことができると語ります。私たちは神に愛されており、恐れる必要はありません。全き愛は、恐れを締め出します。神の愛は、私たちの側の何かによって、左右されるものではありません。私たちは不完全でも、完全な神の愛は変わることなく、私たちに確かに注がれています。私たちは、その事を感謝し、受け止め、そして信じるのです。
【3.兄弟を愛する。 20-21】 そして、もう一度、私たちはその神の愛を受けて、兄弟を愛する愛に踏み出してまいりましょう。これは神の命令です。
2024年7月7日 Ⅰヨハネ4:7-12 「はじめの愛」
【はじめに】前回はイエス様を告白しない霊を吟味するように語られた上で、「私たちは神から出た者です」と語られました。今日は、その者たちの姿とも言うべき「愛」について御言葉に聞いてまいります。
【1.本物の愛 7-10】ヨハネはもう一度「互いに愛し合いましょう」と語ります。なぜなら、愛は神から出ており、愛があるものは神から生まれ、神を知っていると語られます。しかし、私たちの現実はどうでしょうか。そこでヨハネは、信仰の原点、神の愛に私たちを引き戻します。まず神が私たちを愛し、御子を遣わされ、私たちのために宥めのささげ物、贖いの犠牲としてくださったのです。ここに愛が示されたのです。
【2.愛の負債 11】その上で「私たちも互いに愛し合うべきです」と、愛の負債があることを語られます。神に愛された者たちは、その神の愛を受け、他の人を愛する愛に突き動されます。
【3.愛の完成 12】さらに、神の愛は、私たちにおけるお互いの愛を通して、完成します。大胆に言えば、私たちが互いに愛し合うそこに神が現わされ、私たちが、また人々が神を見るのです。まさしく神の愛がそこに完結するのです。神の愛を受け、その愛を受けた私たちが互いの愛し合っていく、そこに、神の愛が全うされます。私たちはそのような群れを目指してまいりましょう。
2024年6月30日 マタイ5:3-10 「幸せとは、本当の幸せ」 信徒によるメッセージ奉仕 1週間のみ
2024年6月23日 創世記39:1-4 「大臣になるヨセフ」
【はじめに】 CSでは、ヤコブそしてヨセフの物語からメッセージを聞いています。先週は、ヨセフが、兄弟たちによって、エジプトに奴隷として売られてしまう出来事に聞きました。今日はその続きです。
【本論1.ポティファルの家 創39:1-18】 ヨセフはファラオの家来ポティファルの家に売られます。主が彼とともにおられ、すべてを成功させてくださり、ポティファルの信頼を得て、家のすべてを任されます。ところ彼の妻の偽りによって、ヨセフは投獄されてしまいました。
【本論2.牢屋での出来事 39:19-40:23】 ヨセフは牢獄でも主がともにおられて、大きな責任を与えられます。ある時、ファラオ(エジプトの王の称号)の二人の家来の夢を解き明かしました。ヨセフは、その一人に、自分の事をファラオに伝えてほしいと願いますが、その人はすっかりヨセフのことを忘れてしまいました。
【本論3.大臣になったヨセフ 41:1-45】 ある時、ファラオが不思議な夢を見ます。ヨセフは神様によって、その夢を解き明かし、七年の豊作と七年の飢饉が来ることを伝えました。そして、ヨセフは大きな責任を任されるものとなりました。
【まとめ】 神様は私たちと共にいてくださり、導いてくださり、その計画に間違いはありません。
2024年6月16日 エズラ6:19-22 「神様がしてくださる」
【序論】神殿再建を妨害する者たちからの書状がダレイオス王のもとに届けられました。
【1. すべてを益に 1-12】ダレイオス王はキュロス王の時に、確かに神殿再建の許可が出されたことを確認します。そこで、再建の承認に加え、費用を支出するように命じます。さらに、祝福を祈るようにも命じました(Ⅱテモテ2:1-3)。敵対する者たちの計画は良いことに転じました(ローマ8:28、創50:19-20)
【2.今を感謝して 13-18】主が預言者ハガイやゼカリヤを通して語られた通りに神殿再建が実現します。神様は人々の手のわざを用いて、妨害さえも用いて、ご自身の計画を進められます。民は主への感謝のいけにえをささげました。それはソロモンの神殿の規模に比べると小さなものでした(Ⅰ列8:63)。しかしその時にできる精一杯をもって、彼らは新しい歩みに踏み出しました。
【3.主が喜ばせてくださる 19-22】そしてイスラエルの民は過ぎ越しの祭りを祝います。その祭りは彼らにとっては大切な祭りで、奴隷状態から救い出され、解放を覚えるものでした。私たちにとっては、イエス様の十字架によって、救われ、罪と死の奴隷から解放されたことを喜ぶことに重なります。主が与えてくださる恵みの中を歩みましょう。
2024年6月9日 Ⅰヨハネ4:1-6 「霊を見分ける」
【序論】AIの技術の進展による真偽の判断の難しさ、情報を見分けることの困難な時代の中で、今日は霊を見分けること、神からのものかどうかを吟味する事に思いを巡らしましょう。
【1.イエスを告白することで見分ける 1-3】 すでに「偽預言者」や「反キリスト」と呼ばれる存在が来ている中で、霊が神からのものかどうか吟味するように語られます。そのための示唆として、人となって来られた神の御子、イエス・キリストを救い主として告白するかどうかは重要です(使徒信条)。その事が、はたして神からのものかを吟味しましょう(エペソ5:10)
【2.イエスとともにある勝利 4】 私たちを取り巻く、様々な事柄を見分ける必要について語られましたが、まず私たちは自分自身が何者なのかを吟味する必要があります。私たちは神の子どもです。神から出た者です。それゆえに、ともにおられるお方のゆえに、私たちは悪い者に勝ったのです(2:13,14、5:4、ヨハネ15:33)。
【3.みことばを通して見分ける 5-6】 私たちを神から引き離す存在の働きは終わりまで続きます。それゆえに、聖書を通して語られる神のことばによって、私たちは、真理の霊と偽りの霊を見分けます。私たちはもう一度、その教え、情報、生き方、根拠の背後にあるものを吟味して歩みましょう。
2024年6月2日 Ⅰヨハネ3:19-24 「キリストを信じ、互いに愛し合う」
【1.心安らかでいる 19-20】 18節の最後に、行いと真実をもって愛することが語られました。そして、それによって、私たちは真理から出ていることが分かると語られます(ヨハネ14:6、17)。私たちは神の子どもとされた者として、そのように歩みます。それゆえに、神の御前に心安らかでいられます。しかし、自分の現実に向かい合う時に、私たちの心は騒ぎます。しかし神様は、私たちのすべてをご存じの上で、その大きな心によって私たちをあわれんでくださいます。
【2.求めるものは与えられる 22】 ヨハネは「求めるものは何でもいただくことができる」と大胆に祈ることを教えます。なぜなら、私たちは神の子どもとして、神に喜ばれることに向かうからです(ヨハネ15:7、マルコ11:24)。私たちは、主に期待して大胆に祈り、みこころに向かって祈るものとされることを願います。
【3.キリストを信じ、互いに愛し合う 23-24】 これまでのまとめのようにして、ヨハネは、神の命令とは、御子イエス・キリストの名を信じることですと語ります。私たちはイエス様を信じて罪を赦され、神の子どもとされ、永遠のいのちを与えられました。それゆえに、私たちは互いに愛し合うのです。その人は神の内にあり、また神もその人の内にあります。それは御霊によって分かります。
2024年5月26日 創世記25:22-23(創25章、27章) 子どもと一緒 「ヤコブとエサウ」
【はじめに】 近いからこそ、いい場合もあれば、難しい場合もある関係に、夫婦関係、親子関係、そして兄弟関係があります。今日は、エサウとヤコブの兄弟のお話に聞いてまいります。
【1.ヤコブに対する神様の計画 25:19-34】 父イサクと母リベカの間に、兄エサウと弟ヤコブが誕生します。この双子に神様は「兄が弟に仕える」(25:23)という計画を持っていました。
【2.長子の権利を軽んじるエサウ 25:29-34、27章】 狩りを終え、腹を空かせたエサウにヤコブは、スープと引き換えに長子の権利を求めます。エサウは、神様の祝福を軽んじ(25:32)、目の前のスープと引き換えに、それを手放します。、父イサクは愛するエサウを祝福しようとしますが、リベカとヤコブは、イサクを欺いて、それを奪い、結果的に、ヤコブは家を離れなければなりませんでした。
【3.人間の思いと神の計画】 それぞれの思惑によって、この家族はバラバラになりました。しかしそれさえも用いて、神様の計画は前進しました。自分たちで動かしているように思える人生の背後に、神様のご計画があって、それが実現します。私たちはそこで、神様のみこころを選び取ることができるならば、素晴らしい歩みができます。ですから「愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟り」ながら歩みましょう。
2024年5月19日 エズラ5:1-5(5章) 「目を注がれる神」
【序論】 今日はペンテコステ(聖霊降臨日)ですが、今も、教会に、私たちの内に、このお方が力強く臨んでおられることを信じて歩みましょう。
【本論1.励まし 1-2】 神殿再建が十数年中断されましたが、預言者ハガイやゼカリヤの励ましにより動き出します。特に預言書を読むと民の内面の状態も知ることができます。その中から、今日は二箇所を開きますが(ハガイ2:1-4、ゼカリヤ4:6)、私たちも「主のことば」をもって互いに励まし合いましょう。
【本論2.立ちはだかる問題 3-5】 ペルシアの総督タテナイらの妨害が起こります。しかし、「神の目が注がれていたので」工事は守られます。神様は、日常の営みの中にあって、守り、導かれるお方です。私たちも、日々の歩みの中に存在する「神の目が注がれている」ことに心をとめて歩みましょう。問題に目を向けるのではなく、私たちに目を注いでおられる神様に目を向けます(マタイ14:30、詩34:15)。
【本論3.書状の内容 6-17】 タテナイたちがダレイオス王に送った書状の中から、特に長老たちの告白に耳を傾けます。自分たちの先頭に立つお方、私たちの信じるお方は「天と地の神」で、そして私たちはそのしもべです。そしてこのお方に悔い改めるべきことを告白します。そして、この地上にある事柄にもしっかりと足をつけて歩みます。
2024年5月12日 Ⅰヨハネ3:11-18 「愛を受けて愛する」
【1.互いに愛する 11―12】 ヨハネは「互いに愛し合う」ことを確認します。それは、「初めから聞いている使信です」(2:7、ヨハネ13:34)。ヨハネも主の愛によって変えられた一人です(ルカ9:54)。しかし反対に悪い者に属するものの例としてカインのようであってはなりませんと語られます(創世記4章)。
【2.兄弟を愛する 13―15】 ヨハネは「私たちは死からいのちに移った」ことを確認します。それは「兄弟を愛する」ことで示されます。逆に兄弟を愛さない者、それは兄弟を憎む者であり、その人はカインのように「人殺し」だと言われます。私たちは神の子どもとして、互いに愛し合うこと、さらに敵をも愛する生き方、死からいのちに移ったことを確認し続けます(マタイ5:21-22、43)。
【3.キリストに愛される 16―18】 しかし現実はそれほど簡単ではありません。敵どころが、主にある家族の間でも互いに愛し合うことの難しさに直面します。それゆえに、私たちは、いつもキリストの愛を受けることから始めなければなりません。イエス様は私たちを愛して、御自身のいのちを捨てられました。私たちはこの愛を受けて、その愛に生きるのです。自分を差し出します。与えられている世の財(2:16)を分かち合います。ことばや口先だけでなく行いと真実で愛します。
2024年5月5日 Ⅰヨハネ3:7-10 「罪を犯すことができない」
【1.惑わされないように 7-8】 ヨハネは「惑わされないように」と語ります。惑わす者(2:26)については、すでに確認しましたが、私たちを信仰から引き離すものがあります。その中にあって、神の子どもは義に歩みます。義とは、神との正しい関係にあって、神のみこころ、神の基準に従って生きることです。しかし、義を行わない者は、罪を犯しているのであって、その者は、悪魔から出た者と言われます。イエス様は、悪魔のわざを打ち倒すために来られ、罪と死の支配から解放し、自由を与えてくださいました(ユダ6,Ⅰペテ2:24、ローマ8章)。
【2.神の種がとどまる 9】 さらにヨハネは、神から生まれた者は「罪を犯しません」、いや「罪を犯すことができない」と言います(3:6、1:8)。私たちの現実を見ると信じられないような言葉ですが、ヨハネは、信じる者のうちには「神の種」がとどまっていると語ります。それは、信じる者のうちに聖霊がおられ(2:20,27)、神のことばが植えられているからです(2:5、Ⅰペテロ1:23)。私たちは、御言葉を通して、聖霊なる神様の働きにより、「罪を犯し続ける」ことのない歩み、新しいいのちにあって成長し続けます。
【3.兄弟を愛する 10】 ヨハネは、義を行う者について、それは兄弟を愛する者であると語ります。このことについては、次回から、詳しく確認します。
2024年4月28日 ルカ12:13-21 「おろかな おかねもち」
【序論】本当の意味で、「私のもの」と言えるものがあるでしょうか。いのち、人生、家族…それは「私のもの」なのでしょうか。
【1.兄弟喧嘩 13-15】 ある人が、イエス様に、兄弟に遺産を私と分けるように言ってほしいと願い出ます(申21:17)。イエス様は、私はそのような問題を解決するために遣わされたのではないと答え、人々の心にある同じような思いに対して「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。」(15)と語られました。貪欲とは、私たちが、今、与えられているものに満足せず、「もっと」という思いに支配されることです。
【2.愚かな金持ちのたとえ 16-20】 イエス様は一つのたとえを語られます。沢山の作物が収穫できたお金持ちがもっと大きな倉に納め、自分のたましいに、安心して、楽しめと言います。しかし神はその人に、愚か者、今晩あなたは死ぬと言われます。なぜこの人は愚か者と言われたのでしょうか。
【3.神様に対して富む 21】 その人は自分のことにしか目を向けず、自分のものにしか関心がありませんでした。神様への感謝もなく、まさに神に対して富まない人でした。また、沢山「もの」があるから安心と、いのちを守られるお方への信頼もありませんでした。私たちは、必要を与えてくださる神様に感謝し、このお方に信頼し、どんな貪欲から自由にされて歩んで参りましょう。
2024年4月21日 エズラ4:1-6(4章) 「私たちに属する事柄」
【1.唯一の神を礼拝する 1-4】 「ユダとベニヤミンの敵」とは、北イスラエルの民と移住させられた民族の混血民族で、彼らはバビロン捕囚からの帰還民による神殿再建は、自分たちの立場や利益を損ないかねないと考え、まずは協力を申し出て、そこで自分たちに都合よく、あるいは妨害を試みようと考えました。しかし帰還民の指導者たちは、自分たちの信仰を危険にさらしかねない(Ⅱ列17:29,31,41)、彼らの申し出を退けました。
【2.不条理な訴えによる妨害 5-24】 敵対者はすぐさま本性を現し、脅して民の気力を失わせ、さらには地方官を買収して妨害し(5)、ダレイオス王の第2年まで神殿再建は中断されました(24)。さらにその後の時代にも妨害は続きました。クセルクセス王の時も(6)、アルタクセルクセス王の時も(7-23)、悪意ある手紙によって中断を余儀なくされました。主の働きであっても、妨害され、中断させられることが起こります。
【3.私たちに属すること 3】 確かに様々な妨害の中でも神殿再建(エズラ6章)、城壁修復(ネヘミヤ書)はやがて実現します。私たちは、妨害の中にあって「自分たちに属する事柄」、すなわち成すべきこと、使命、責任にしっかり立って、妥協しないこと、譲ってはいけないことは揺るがさないことを覚えます。また「私たちだけで」と、一つとなって歩み続けます。
2024年4月14日 Ⅰヨハネ3:1-6 「私たちは神の子どもです」
【1.神の子どもです 1】 イエス様を信じる者たちは、「神の子ども」と呼ばれるだけでなく、事実、今、神の子どもなのだとヨハネは語ります。そして、そのために、どれほどの愛を神様が私たちに示してくださったかを考えなさいと語ります(ヨハネ3:16、Ⅰヨハネ4:8-9)。私たちは、神様の大きな愛、御子の大きな犠牲、その恵みによって、神の子どもとされたのです。
【2.キリストに似たものとなる 2】 今、神の子どもである私たちの将来はまだ明らかにされていませんが、キリストがもう一度来られた時、キリストに似たものとなることが分かっているとヨハネは語ります。私たちは神の子どもとしてキリストに似たものに変えられ続け(Ⅱコリント3:18)、そして、キリストが現れる日、完全にイエス様に似たものとされる希望があります。
【3.罪を犯しません 3-6】 そのような希望を持つ私たちは、将来そうなるのだから、今はどうでもいいということではありません。そこに向かって、私たちは主イエス・キリストと同じ姿に変えられ続け、キリストのように歩むことを願うはずです(Ⅰヨハネ2:6、2:29)。罪とは律法(参:マタイ22:36-40)に違反する事です。そして、ヨハネはキリストにとどまるならば罪を犯さないと語ります。これは私たちとって大きな希望であり、同時に、チャレンジではないでしょうか。
2024年4月7日 Ⅰヨハネ2:28-29 「キリストにとどまる」
【はじめに】 前回は、「今は終わりの時」であることを確認しました。
【1.とどまる 28】 そして、ヨハネは「今こそ、彼のうちにとどまれ」と語ります。イエス様はぶどうの木、私たちは枝です(ヨハネ15:4-5)。そこには、「とどまる」とは、主のことばがとどまること(15:7)、主の愛のうちにとどまることが語られます(15:9)。そして、私たちは互いの愛にとどまるのです。
【2.主の来臨 28】 ヨハネがとどまるように語るのは、主の現われ、主の来臨、すなわち再臨の時に(マタイ16:27)、私たちが確信を持ち、神の御前で恥じることのないためです。私たちは、イエス様の十字架のゆえに、信仰によって、罪を赦され、義と認められ、神の子とされ、永遠のいのちを受けました。この確信にとどまり、歩みましょう(Ⅰヨハネ5:13、4:16-17)。
【3.誠実に生きる 29】 私たちの地上の歩みは、神の子どもとして、キリストに似たものとして生きる歩みです。それは義を行う者としての歩みです。神様は、この世を愛し、人々を愛し、この世に、神の義、平和、愛を届けようとしておられます。私たちも、神の子どもとして、その実を結びましょう。信じる者のうちにおられる聖霊なるお方が私たちに内にあって結んでくださる実は「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22-23)です。