マタイの福音書
この福音書の著者は、取税人マタイ【別名レビ】(9:9)、執筆年代は六十年代と考えられます。特徴としては、第一に、旧約聖書からの引用が多く見られ(1:22-23等)、ユダヤ人に旧約聖書で預言されたメシア(「人の子」)としてのイエス様を証しすることが強調されています。その関連では、「神」の国(神のご支配)という表現よりも、むしろ「天」の御国(ユダヤ的表現)が用いられます。第二に、「王」としてのイエス様の姿も強調されます。ダビデの子孫としての最初の系図(1章)に始まり、エルサレム入城(21:5)、ピラトへの態度(27:11)などに見られます。その他にも、イエス様の説教が多く(3:1-12、5-7章、10章、13:1-52、18章、23-25章)、福音書では唯一「教会」(16:18、18:17)という表現が出てきます。この福音書は、始まり(1:23)から終わりまで(28:20)、ともにおられるお方、メシア、王、天の御国を始められ、完成される支配者なるイエス様を示します。
マタイの福音書 1章
マタイは、まず、イエス様について、このお方がアブラハム(創12:2,3)、ダビデ(Ⅱサム7:12-16)の系図に属する旧約聖書に約束されたメシア(キリスト)なるお方であることについて系図を通して語ります。そこには四人の女性とマリアの名(3,5,6,16)が記録されています。ここにも、すべての人の救い主を思い起こさせます。系図は十四代ごとに凝縮し、まとめられます(1-17)。そのお方の誕生について、マタイはマリアの夫ヨセフの出来事に注目します。ヨセフは、夢の中で、婚約者マリアの妊娠が聖霊なる神によること、名をイエス(主は救い)と付けること、その子はご自分の民を罪から救い、インマヌエル(神が私たちとともにおられる)なるイザヤの預言(イザヤ7:14)を実現するお方であることが語られます。ヨセフは、その事を受け入れ、マリアを妻として迎え、誕生まで共に待ちました(18-25)。私たちは主の約束を信じ、受け止めているでしょうか。
マタイの福音書 2章
この章には、預言者のことばが引用され、預言の成就としてのイエス様の姿が描かれます。ユダヤ人の王に会うために東方の博士たちがエルサレムにやってきます。ヘロデ大王はその言葉に動揺します。不穏な状況を恐れた民も同様でした。宗教的指導者たちは、ミカの預言により、それがベツレヘムであると突き止めます(ミカ5:2)。東方の博士たちは、イエス様に出会うために出発し、礼拝し、自分の国に帰って行きました(1-12)。ヨセフは夢でエジプトに逃れるように語られ、難を逃れますが(ホセア11:1)、ヘロデはベツレヘムの二歳以下の幼子を殺すように命じ、そのことが実行され、その地に大きな嘆きが起こりました(エレミヤ31:15)。ヘロデの死後、ヨセフたちはナザレに住みます。「ナザレ人と呼ばれる」との直接の言及はありませんが、侮られ、蔑まれるメシアの姿の預言なのかもしれません(13-23)。聖書の約束は実現します。イエス様は約束された救い主です。
マタイの福音書 3章
イエス様の宣教に先立って、バプテスマのヨハネがヨルダン川で悔い改めのバプテスマを授け始めます。ヨハネは「天の御国(神の国=神のご支配)が近づいた」と宣言します。これはイザヤの預言(イザヤ40:3)の成就であり、マラキによって預言されたエリヤとしての姿でした(マラキ4:5。参:4節⇔Ⅱ列1:8)。彼は、人々だけでなく、宗教的指導たちにも悔い改めを迫ります。なぜなら、聖霊と火(きよめ)でバプテスマを授けるお方が来られるからです(1-12)。ヨハネは躊躇しましたが、主イエスは罪のないお方であるにもかかわらず、罪人の一人として、悔い改めのバプテスマを受けられます。主は「正しいことをなすことはふさわしい」と語られます。その時、主イエスの上に、聖霊が鳩のように降り、御父の「わたしの愛する子、わたしは喜ぶ」との声が響きました(13-17)。悔い改めにふさわしい実(8)は、ただ上(神)からの支配によって結ぶことができます。
マタイの福音書 4章
御霊はイエス様を荒野に導きます。そこで、悪魔は、イエス様を試み、罪を犯させ、救いの計画を破綻させようとします。「石をパンに」、「身を投げよ」、「私を拝め」。イエス様はすべて誘惑を御言葉(申8:3、6:16、6:13、10:20)により退けました(1-11)。バプテスマのヨハネが逮捕された時、イエス様はガリラヤに戻って、宣教を開始されます。これは預言(イザヤ9:1,2)の成就となりました。イエス様は、ヨハネが語ったように「悔い改めと天の御国の到来」について宣言されました(12-17)。イエス様は、「人間をとる漁師に」とペテロ、アンデレ、そしてヨハネとヤコブを召し出します。すると彼らはすべてを後に残し、主に従う決心をします(18-22)。イエス様はガリラヤ周辺の村々を行き巡り、御国の福音を宣べ伝え、病気の者や悪霊につかれた人々をも癒やされました(23-25)。悪魔の誘惑はイエス様にとってどんな試みだったのだろうか。御国の福音とは何だろうか。
マタイの福音書 5章
五章から七章は「山上の説教」としても知られるイエス様のメッセージで、天の御国の知らせとも言えます。まず弟子たちの「幸い」について語られますが、それは地上のものとは異なります(1-12)。イエス様の弟子は、地の塩、世の光として、この世に父なる神を知らせます(13-16)。イエス様は旧約聖書を廃棄するためではなく、成就するために来られました。主は律法の新しい解釈を伝えます。そこにはユダヤ教の義と弟子たちの義の違いが明らかにされます。それは行為のみならず、その心の内さえも問われます。例えば、心のうちの怒りも、不潔な考えも、さらには離婚、誓い、復讐の問題、さらに自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈るようにと言われます。そして「天の父が完全であるように、完全でありなさい」と言われます(17-48)。それは非常に高尚な生涯です。そのように生きられない貧しい自分を認め、主により頼み、そして、天の御国(支配)に踏み出しましょう。
マタイの福音書 6章
「山上の説教」の続きです。まずは、律法の実践で重んじられていた三つの善行、「施し」「祈り」「断食」を例に、その偽善的態度が批判されます。それは、善行を行う時の「人に見せるため」という動機が問われます(1)。「施し」(2-4)、「祈り」、ここに模範としての「主の祈り」が教えられます。また、赦されたものとして、赦すことについても教えられます(5-15)。そして「断食」です(16-18)。さらに、地上の富に固執することなく天に宝を蓄えること、宝のあるところに心があること、何を大切にするか(目をとめるか)がその人を健全にすること、二人の主人には仕えられないことが語られます(19-24)。地上の宝への固執は煩いを生みます。しかし、神がすべての必要をご存じであると信頼し、神への信仰に生きる、すなわち「神の国と神の義」に生きるならば、明日の心配は無用で、今日を生きます(25-34)。神への信頼をもって、今日を歩みましょう。
マタイの福音書 7章
「山上の説教」の続きです。人をさばくことについての注意(1-5)、相手を正しく判断すべきこと(6)、忍耐して神に求め続けること、そして、自分にしてもらいたいことを他の人にも同様に行うことが語られます(7-12)。二つの選択が迫られます。それらは全く違った結末を迎えます。二つの道(門)があって、歩みやすい広い門ではなく、主に従い、自らの貧しさに生きる狭い門から入ること(13-14)、二つの木があって、その実によって見分けられ、良い木は良い実を結ぶのであって、口先だけでなく父なる神のみこころを行うことによって知られること(15-23)、二つの家の土台があって、揺るがない土台に建てあげること、それは主のみことばを聞くだけでなく、そこに生きるように語られます(24-27)。イエス様は、これらのことをご自身の権威に基づいて語られました(28-29)。自分の力では、決して実現しません。主に求め続け、そのように歩ませていただきましょう。
マタイの福音書 8章
山上の説教に続き、イエス様はわざ(奇跡)によっても権威を示されました。主はツァラアト(皮膚などに現れる病)と言われる病に苦しむ人をきよめます。この病は心身に加え、宗教的・社会的痛みの伴う病でした(1-4)。ガリラヤ湖畔のカペナウムの町では、麻痺のために体の自由を奪われた百人隊長のしもべを癒やされます。百人隊長は「おことばを頂ければ癒やされる」という信仰を示しました(5-13)。ペテロの姑など、病の者を癒やし、悪霊につかれた人々を解放しました。これは預言の成就でした(14-17)。従おうと願う者に、主の弟子の歩みは、すべてを捨てて主に従うことであることを示されました(18-22)。弟子たちと舟に乗り、湖の嵐を言葉一つで静められました(23―27)。ガダラ人の地では、悪霊につかれた人々から悪霊を追い出されます。悪霊どもは豚に乗り移り湖に飛び込みました(28-34)。イエス様のみわざはご自身が救い主、神の御子であることを証します。
マタイの福音書 9章
イエス様による奇跡が行われます。体の麻痺のために友に運ばれて来た人(参:マルコ2:1-12等)がいやされます。イエス様は罪を赦す権威も示されますが、律法学者たちは神を冒涜していると考えました(1-8)。取税人マタイの召命、そして罪人を招くために来られたと語られます。さらに、断食への態度を通して、イエスにある新しい命、生き方への招きが語られます(9-17)。会堂管理者の家に向かう途中、長血の病に苦しむ女性の「衣に触れさえすれば、私は救われる」との信仰をご覧になったイエス様は、彼女にいやしを宣言されました。そして、主は会堂管理者の娘を死から生き返らせました(18-26)。さらに主は二人の盲人の目を開かれ(27―31)、悪霊により口のきけないものの口が開かれました(32-34)。イエス様は町々で教え、神の福音を宣べ伝え、いやしを行われました。主は群衆を憐れみ、働き人が与えられるように祈れと言われます(35-38)。主は力あるお方です。
マタイの福音書 10章
イエス様は特別に十二弟子(使徒)を選び、彼らに語られます。まず彼らの名前が紹介されます(1-4)。イエス様は彼らに具体的な指示(説教)を語られます。まずはイスラエルの民の元に向かう事、「天の御国が近づいた」と宣言する事、必要は満たされる事、聞く人と聞かない人がいる事などが語られます(5-15)。そして、宣教の働きは決して容易ではなく、迫害もあり、賢く、素直な知恵が必要で、人々の前で聖霊が語らせてくださることが語られます(16-23)。主は必ず彼らを守られます。「恐れてはいけません」と励まし続けます(24-33)。弟子たちには主に従う覚悟、イエス様への愛が問われます。十字架を負う事、すなわち主のために自分に死ぬ道を歩む時に、いのちを得ます(34-39)。主の弟子を受け入れるものは主を受け入れるのであって、決して報いを失いません(40-42)。私たちも主の弟子として、召命、働き、知恵、苦難、保護、覚悟、報いを思い巡らしましょう。
マタイの福音書 11章
獄中にいたバプテスマのヨハネは彼の弟子たちを通してイエス様こそ、来るべきメシアなのか尋ねます。ヨハネも迷っていました。イエス様は、御自身がなさっているみわざの事実を伝えるように言われました。主につまずかない者は幸いです(1-6)。そして人々に対して、ヨハネこそが、救い主の到来を知らせる、来るべきエリヤであるとはっきり語られました。耳のある者は聞きなさい(7-15)。この時代は、見るべきお方を見ることも、聞くこともないと語られます(16-19)。主に聞こうとしないガリラヤ湖周辺の町々のかたくなさが語られます(20-24)。自分の力や知恵により頼む知恵ある者や賢い者に、主は理解されず(隠され)、むしろ自分の貧しさを認め、神により頼む幼子たちのようなものに主は現わされます。「疲れた者、重荷を負っているものは私のもとに来なさい」との招きに応じる人たちです。そして彼は主のくびきを負います(25-30)。主を見て、主に聞きましょう。
マタイの福音書 12章
パリサイ人や律法学者からの批判が強まっていきます。まず彼らは「安息日」についてイエス様の態度を批判します。しかし、主は安息日に良いことをする事の正しさ、それは人のためのものであることを示されました(1-14)。主は癒しをなされますが、それはメシアの姿の預言の成就です(15-21)。悪霊のかしらの働きとの批判に対して、人の心を開いてくださる聖霊に逆らうことが、どれほど恐ろしい事かを示されます(22-32)。主に敵対する者たちは、しるしを求めますが、彼らは驚くべきみわざを見せられても信じることをしません。ヨナの出来事と重ねて、御自身が三日目によみがえるしるしを示しても、彼らは頑なで、まさに不信仰の時代をさばかれると語られます(33-45)。そのような人々と対照的に、主の家族とは、天におられる父のみこころを行う者であり、それこそが天の御国の姿であると語られます(46-50)。私たちは主を正しく理解しているだろうか。
マタイの福音書 13章
身近な事柄で真理を例示するイエス様の語られたたとえが七つ記録されます。これもまた預言の成就でした。第一のたとえは種まきのたとえです。弟子たちはなぜたとえで語るのかを尋ねます。分かりやすい話と裏腹に、真理に心を開き、求めるものが悟ることができます。その上で、種まきのたとえが説明されます(1-23)。第二に、天の御国について麦と毒麦でたとえられます。両方とも収穫まで成長するが、やがて見分けがつき毒麦は焼かれ、麦は納めるために刈り取られます。この解説は後でなされます(24-30、36-43)。さらに天の御国が、第三にからし種、第四にパン種でたとえられます。そのはじまりは小さくても、やがて大きくなります(31-35)。また天の御国は、第五に畑に隠された宝、第六に良い真珠を見つけた商人、第七に網の魚を分別するたとえを通して示されます。(44-52)。ナザレの人々はイエスにつまずきました(53-57)。聞く耳のあるものは聞きなさい。
マタイの福音書14章
イエス様のうわさを聞いたガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスは、バプテスマのヨハネのよみがえりかとうろたえます。ヘロデは異母兄ピリポ(領主ピリポとは別人。ルカ3:1)の妻へロディアを妻とし、へロディアは娘を使ってヨハネを殺しました(1-12)。イエス様のところに、大勢の人々が集まる中、イエス様は五つのパンと二匹の魚を通して、男だけでも五千人の人々を満腹させる奇蹟を行われました(13-21)。イエス様は、群衆を解散させた後、一人、山で祈られました。弟子たちは、先にガリラヤ湖を舟で渡り始めますが、向かい風のためにこぎあぐねていました。すると、イエス様が、その脇を通られます。ペテロは、信仰をもって湖に足を踏み出しますが、風を見て恐れ、沈み始めます。主は、神の御子であることを示されます(22-32)。主は、ゲネサレの地でも奇蹟を行われました(33-36)。主は私たちの信仰をご覧になります。私たちは主を見上げているでしょうか。
マタイの福音書15章
手を洗わないで食べたことを責めるパリサイ人や律法学者に対して、イエス様は、自分たちの言い伝えが結果的に神の律法を無にしているという矛盾を責められます。そして群衆に向かって、口から出るものが人を汚すと語られます。なぜなら口から出るものは、その心から出るからです(1-20)。主は異邦人の地に向かわれます。娘が悪霊につかれたカナン人の女の求めに、まずはイスラエルの家に遣わされていることを語りますが、食卓から落ちたパンくずなら小犬はいただくことができると願い続けるその女の信仰をご覧になり、あなたの願うとおりに、と答えられました(21-28)。異邦人の地でも、大勢の群衆がイエス様のもとに癒しを求めてやって来て、癒されました(29-31)。先の五千人の給食のように、異邦人の地でも、七つのパンと魚で、男の人だけでも四千人の人の腹を満たし、七つのかごにパン切れが余る奇蹟を行われました(32-39)。主は全ての人の救い主です。
マタイの福音書16章
いよいよ、主はご自身の受難を予告されます。宗教的指導者たちとの論争の中で、「ヨナのしるし」すなわち葬りと復活について語られ、弟子たちには、彼らの教えに注意するように語られます。見えるものに心を奪われ、本質を見失わないようにしなければなりません(1-12)。皇帝の名を冠したピリポ・カイサリアの町で、人々の評価に対して、弟子たちに、あなたたがは「わたしを誰だ」といいますかと問われます。弟子を代表してペテロが「生ける神の子キリスト」と信仰告白します。その告白の上に、教会は建て上げられてきました。あなたはどうでしょうか(13-20)。イエス様は、受難(十字架)と復活を語り始めます。ペテロは、そのことを否定しますが、主は激しく叱責します。神の計画は、人の思いを越えたところにあります。そして、主の弟子たちも、十字架、苦難を通して、まことのいのちを見出すと語られます。主の弟子は新しい価値観に生きるのです(21-28)。
マタイの福音書17章
イエス様は、ペテロとヤコブとヨハネを連れて、山に登り、本来の栄光の姿を示されます。律法を与えたモーセ、代表的預言者エリヤと、主の最期について語り合います(ルカ9:31)。もう一度、「わたしの愛する子」という御父の宣言がなされます(3:17)。その後、バプテスマのヨハネこそ、エリヤを型とする先立つものであると示されます(1-13)。悪霊によって苦しむ子を弟子たちはどうすることもできませんでした。イエス様はその子を癒やされ、弟子たちに、どんなに小さくても、心からの信頼、信仰があるならば、できないことはないと教えられます。私たちの信仰はどうでしょう(14-20)。イエス様は再び、ご自身の苦難を予告されます(22-23)。神の子は、神殿税を納める必要はないのだが、つまずきを与えないために、魚の口から見出した銀貨をペテロに託されます。私たちが神の子どもとして、この地に歩むこと、この世の責務を果たすことは何だろうか(24-27)。
マタイの福音書18章
天の御国(神のご支配)に歩む者の交わりの姿が描かれます。まずは、へりくだって生きる姿が語られます。天の御国で誰が一番偉いのかとの質問に、時に、無力、無価値と見なされた「子どもたちのように」と自分を低くする者としての姿が語られます(1-5)。また、自分を含めて誰かにつまずきを与えるもの、罪を犯させる人はわざわいです(6-9)。そして、九十九匹と一匹の羊のたとえを通して、小さいもの、一人に目を留められる神様の姿を教えます。(10-14)。また、神の御国にある者は、罪を注意深く伝え(15―17)、心を合わせて祈る姿が語られます(18-20)。そして王から多くの負債を赦された人のたとえを通して、赦し合う姿が教えられます。自分自身が神から寛大な赦しを受けた罪人であることを知るからこそ、互いに赦すものとされます(21-35)。自分こそが、小さい者であると認め、へりくだり、そして小さい者を受け入れるものとして歩んでいるだろうか。
マタイの福音書19章
結婚のあり方、特に離婚に関する事柄が語られます。理由があれば離婚は許されるのかとの問いに、イエス様は、創造の秩序から結婚の原則は、神が結び合わせたものを引き裂いてはいけないと確認します。その上で、モーセの言葉は、命令ではなく、人の頑なさのゆえの許容であることが語られます。また、ある人々は独身者として導かれる事も語られます。神のみこころを受け入れることが大切です(1-12)。次に、子どもたちへの祝福が語られ、天の御国はこのようにへりくだり、神に信頼する者たちの国であると語られます(13-15)。そこに富める青年が自分の義、自分の行いの正しさを示します。しかし、全財産を売り払うようにとの命令を通して、彼は完全ではないことを示されますが、去っていきます。求められたのは、主に従う事であり、自分の足りなさを認め、行いではなく、神様を頼る事でした(16-30)。天の御国はただ神により頼み、神に従う者たちの国です。
マタイの福音書20章
前章の「先のものが後に、後のものが先に」という言葉を受けて、イエス様は、朝から働いた者にも、夕方の僅かの時間だけ働いた者にも、同じ賃金が払われたたとえを通して、この世の価値観とは違う神様の恵みを教えます。とりわけ、主の働き人の受ける報いは平等です(1-16)。そしてエルサレムに上る途中、三度目の受難予告、特に、はっきりとご自身の十字架の死と復活を語られます(17-19)。そんな中で、ゼベダイの二人の息子と母が、御国で高い地位を求めます。他の弟子たちはその事に腹を立てます。イエス様は、「先に立ちたいものは、皆に仕える者になりなさい」と、ここでも天の御国とこの世の価値観の違いを示されます。そして、主ご自身が人々に仕え、贖いの代価としてこの世に来られた事を語られます(20-28)。主は、エリコに到着されると、目の見えない二人の目に触れて、目を開かれました(29-34)。私たちは神の国の価値観に生きているでしょうか。