ヨエル書

ヨエル書
ヨエル書が書かれた年代を特定するのは難しく、前九世紀のヨアシュ王(在位前835-796年頃)の時代から前四世紀の捕囚後まで見解が分かれます。ここではヨアシュ王の時代としておきます。ペトエルの子ヨエルについては「主は神」という意味で、それ以外のことはほとんど分かりません。彼はエルサレム、またその周辺(南ユダ王国)で活動しました。ヨエルはユダを襲ったイナゴの災害を通して、敵の侵略を重ね合わせつつ、主のさばきを語り、同胞に罪の悔い改めを迫りました。この書には「主の日」の到来が告げられます。主の日は、神が力強く介入されるさばきと救いの日であり、この書では近い将来から終末の時に及ぶ預言が語られていると考えられます。その中には、後のペンテコステの時に成就していく預言も記録されています(2:28-32、使徒2:17-21)。この書は私たちに、差し迫った神のさばきに目を向けさせ、神の前に悔い改め、立ち返るように語り続けます。

ヨエル書 1章
ヨエルを通して主は、長老、民に「聞け」、「耳を傾けよ」、そして次の世代に「伝えよ」と、いなごによる激しい災害の出来事に目を向けさせます(1-4)。その災害によって、地は敵から侵略を受けたかのように荒廃しました(5-7)。穀物、果実は荒らされ、夫を失った若い妻が喪に服すように、祭司も、農夫も嘆くしかありません(8-12)。ヨエルは祭司、長老たちに、悔い改め、主に向かって泣き叫び、きよめの集会を招集せよと呼びかけます(13-14)。ヨエルは、この出来事を通して、自然の災害がこれほど激しいなら、主の日の厳しさはいかばかりかと語ります。喜びの祭りさも奪われるのです(15-18)。ヨエルは、民の一人として、主よ、と叫び求めます。地も、獣も救いを求めてうめいていますと祈ります(19-20)。人の罪ゆえに被造物もうめいています。災害を経験する時に、そこにやがて来る主の日の厳しさを覚えて、今、主に叫び求めるものとなりましょう。

ヨエル書 2章
ヨエルはいなごの襲来を様子がまざまざと描きつつ、そこに主の日のさばきを重ね合わせて、その日は、今までになかったほどの厳しい日であり、逃れるものもなく、後には荒廃、天体にも異変が起こり、誰もその日には耐えられないと語ります(1-11)。それゆえ主に立ち返れ、心を引き裂け、主はあわれみ深く、わざわいを思い直されると、すべての民に悔い改めを迫ります(12-17)。そして主の回復が語られます。主はその地を愛し、民をあわれむゆえに、いなご、災いを追い払われ(18-20)、地は回復し、産物を生み出し、楽しみと喜びが溢れ(21-24)、主がその真ん中におられ、永遠に恥を見ることがないとヨエルは語ります(25-27)。そして、このヨエルのことばは終末に向かいます。やがて主の霊がすべての人に注がれ(28-29)、主の大いなる恐るべき日にも、主の御名を呼び求める者は救われるのです(30-32)。今、まさに終末を生きる私たちはどうあるべきでしょうか。

ヨエル書 3章
二章二八節から続く、終末における主の日の預言です。その日は主の民にとっては回復の時、敵対する者にはさばきの日です。主は人々を集め、正しいさばきをなされます(1-3)。地中海に面した町々を例に、罪の告訴、全世界へのさばきが語られます(4-8)。その日は戦いの日、神の民と敵との戦いが起こり、主ご自身がその戦いに臨みます。その様子は、ブドウの収穫、ぶどう酒が絞られるように敵は滅ぼされ、さらに天体の異変も起こります(9-15)。その日は神の民の救いの日です。主はエルサレムから審判を下し、天も地は震えます。しかし、神の民にとっては主が避け所となります。その時、主こそ神であることが明らかにされます(16-17)。主にあって地は潤い、しかし敵対した地は荒野となります。主がその中心に臨在され、ユダは永遠に繁栄し、主がそこで支配されます(18-21)。この預言は、今日、すべて主を求め、終末における神の国の完成を待ち望む者たちの希望です。