ヨブ記

ヨブ記
ヨブ記に続く五つの書物は「聖文書」とか「詩歌」と呼ばれます。ヨブ記は、その登場人物ヨブの名がつけられています。その大きなテーマは「なぜ正しい人が苦しむのか」という私たちも人生で一度や二度は悩んだことのある課題に向き合います。ヨブは族長時代の人物と考えられますが、この書物自体は、後の時代にまとめられたと考えられています。内容は問題提起(1-2章)に始まり、友とヨブの論争(3-37章)、神様の応答(38-41章)、ヨブのとりなし(42章)となっています。ヨブは自らの潔白を友に訴えますが、苦難の原因はヨブ自身にあるという因果応報の問題、悪魔の働き、様々な答えが見え隠れしますが、最終的な神様の答えは、神ご自身の創造、摂理のみわざ、その計り知れない知恵と力の前に人間は神を信頼し、委ねるように語られます。私たちは、すべての事柄の中に、全知全能なる神様のご支配と最善があることを信じ、歩み続ける中に光を見出すのです。

ヨブ記 1章
ウツの地にヨブという人物が住んでいました。ウツについてははっきりしたことは分かりませんが東方の地で、ヨブは異邦人でした。彼は、神の前に誠実に歩み、家族も、財産にも恵まれていました(1-6)。さて、神の子ら、そこにはサタン(悪魔)も含めて御使いたちが主のもとにやってきます。告発者なるサタンはヨブに目を付け、主に対して、彼は大いなる祝福を受けているゆえに、あなたを敬うのであって、それらが取り去られるならあなたを呪うはずだと言います。主はサタンがヨブを試みることを許されます(7-12)。ある日、ヨブに次々と悪い知らせがもたらされます。アラビアの遊牧民シェバ人やカルデヤ人、また落雷により家畜を失い、さらに竜巻によって子どもたちを失います(13-19)。ヨブは非常に悲しみます。しかし主にすべてをゆだね、主の御名を賛美しました(20-22)。人生のどん底でも、主の御心を信じ、人生を委ね、主に信頼するものでありたいと願わされます。

ヨブ記 2章
再び、天上の情景と思われる様子が描かれます。御使いたちとともに、サタンが主の前にやって来て、今度はヨブの肉体を打つことを求めます。そうすれば、必ずヨブはあなたへの信仰を失うというのです。主なる神はこのことをも許されます。ヨブは理由なく苦しみを受けます(1-6)。悪性の腫物がヨブの全身を覆い、その悲惨な姿を前に、彼の妻でさえ、神を呪って死ぬことを勧めるほどでした。しかしなおもヨブは主へ信頼、主の主権を認め、その信仰を揺るがすことはありませんでした(7-10)。さて、ヨブに降りかかったわざわいのうわさを聞いて、三人の友がやってきました。彼らは、そのあまりに痛々しい姿に、言葉を失い、七日七夜、黙ってヨブの傍らに身を置き続けました(11-13)。妻も、友人たちもヨブのあまりの無残な姿に自分たちのできる精一杯の寄り添いで応じました。そのような中にあって、なおもヨブは主だけを見上げ続けました。私たちはどうでしょうか。

ヨブ記 3章
やがてヨブは口を開きます。その詩は自らの誕生を嘆き、呪いのことばとなりました。今ある苦難に、生まれてきたこと、今、生きていることがいかに苦痛かというヨブの苦しみがにじみ出ています。創造の光に対比するかのように、暗闇がヨブの心を覆います。八節の「レビヤタン」は、神に逆らう神話上の存在と思われます(1―10)。そして、生まれて来たことを嘆くヨブの苦悩の声は続きます。生まれてくることなく死んでしまえばよかったのに、という絶望の声が響き渡ります。十七節の「かしこ」とは、死者が行く場所と考えられる「よみ」のことと思われます(11-19)。そしてヨブは、自らの死を願います。先の見えない自分の道を嘆きながら、安らぎ、休み、憩いがなく、今を生きることに葛藤します。ヨブは「なぜ」と繰り返します(20-26)。ヨブの叫びは、私たちの叫びではないでしょうか。苦しみの中、ヨブは自分の事を嘆きます。しかし、神への信頼を失ったのではありません。

ヨブ記 4章
ヨブの嘆きを聞き、エサウの子孫エドム人に属するテマン人エリファズの答えが四章、五章と続きます。エリファズはヨブを慰めつつも、この世の理を思い起こさせようとします。また、あなたはかつて苦しむ人々を励ましたが、自分の時は嘆くのかと問います(1-6)。そして正しい人が苦しむことがあるだろうか。悪を蒔いたものが神からの裁きを刈り取るのではないか。すなわち因果応報であると語ります。(7-11)。エリファズは、自ら見た幻を通して、神の前に人が正しくあり得るだろうか。神の前には誰も立ちえず、神は御使いにさえ誤りを見出し、まして人間はちっぽけではかない存在に過ぎないと、神の厳しさだけが強調されます(12-21)。確かに、その声にはある面の真実を見出しながらも、その神様の姿には愛も憐れみもなく、またすべて事柄が因果応報の中にあると考えました。私たちは十分に知っている、分かっていると思っていながら、知りえないことがあります。

ヨブ記 5章
エリファズのことばが続きます。苛立つ愚か者、妬む浅はかなもの、不信仰な愚か者の叫び声を誰が聞くだろうか、誰がとりなしてくれるだろうかと問います(1-2)。愚か者は一時の興隆を味わい、やがてそれを失う。必ず苦しみには原因がある(5-7)。それゆえにと、エリファズは、神のご支配と助けに目を向けるように語ります。神の創造、支配、正しいさばき、公正さを思い起こして、その方に訴えよと説きます(8-16)。エリファズは続けて、神の叱責、訓戒を拒まず、神の前に罪を悔い改めるならば、神は救ってくださるとも語ります。そして神は回復してくださるお方であると招きます。この招きに応じて、あなたはこのことを悟るようにと語ります(17-27)。確かにそうです。彼のことばには真理があります。しかし、彼は天上の出来事を知らず、ヨブの苦しみを十分に理解せず、自分の考えを披露しただけで、その声はヨブの心に届きませんでした。私たちはどうでしょうか。

ヨブ記 6章
ヨブの答えが六章、七章と続きます。ヨブはあまりの苦悶の中に辛らつな言葉を語らざるを得なかったのだと語り、自分の痛みに寄り添ってもらえないことを嘆きます(1-7)。ヨブは自らの死を願い、苦痛の理由が分からず苦しみます。自分にはそれを乗り越える強靭な肉体も、知力もないとその無力さを嘆きます(8-13)。友のことばは慰めどころか、苦痛を増したと失望します。それは、まるで乾季になると干上がる水無し川に期待して旅をして来たものたちの姿だと語ります(14-21)。また自分は友に贈り物、教え、諭しを求めているのでも、また正論であっても愛のないことばを求めているのでもないと叫びます(14-27)。私をただ理解してほしい。私を見てほしい。私はわからず苦しんでいるのだと叫びます(28-30)。人の痛みに寄り添うことは何と難しく、物事を単純化し、早急に判断してしまうことでしょう。理屈や言葉を発する前に、傷んでいるその声に耳を傾けたいと思います。

ヨブ記 7章
ヨブの言葉が続きます。人生には苦役があり、眠ることのできない夜があり、今、自分は重い皮膚病で苦しみ、望みなく、時は瞬く間に過ぎていくとヨブは嘆きます(1-6)。そしてその声は神に向かって、心にとめてくださいと、はかない命、みじめな自分の姿を嘆きます(7-11)。ヨブは主の前に自分の思いを包み隠さず吐露します。あなたは、私を海や竜のように反逆するものとして見ておられるのでしょうか。あなたは私を見張り、夢の中でさえも私をおののかせ、苦しめるのでしょうか。こんな皮と骨のような状態で生きるぐらいなら死を願います(12-16)。そして「人とは何者なのでしょうか」という問いかけは詩篇の声とは対照的に響きます。人は神に監視され、逐一行動を見張られ、背きの罪におびえ、赦されないのでしょうかと訴えます(17-21)。神様からの眼差しが、愛の眼差しではなく、監視の眼差しと感じるのは、どんな時でしょうか。それはどうしてでしょうか。

ヨブ記 8章
ヨブの言葉を聞き、シュアハ人ビルダデが答えます。彼は最初からあなたはいつまでそんなことばで騒ぎ立てるのかとヨブを叱責します。全能者なる神は正義を曲げることはない。あなたの子らが死んだのは、罪の結果であると断定します。罪を悔い改めて、憐れみを請うなら、神は回復されるお方である(1-7)。それは昔からの道理であり、先人たちに聞いてみるがよい(8-10)。神を見失ったものは、水を失った植物のように枯れる。神に背いたものの結末には望みがなく、頼りなく、一時は反映したとしても、やがて見る影もなくなる(11-19)。神は誠実なものを助け、祝福を与えるが、悪しき者を助けることはなく、報いを与えられる(20-22)。確かにビルダデのことばには真理があります。しかし彼は神の摂理も、ヨブの葛藤も十分に理解せず、ただヨブを断罪し、責め立てました。正しい人が苦しむこともあるのです。私たちは分かっているつもりで人を傷つけることがないでしょうか。

ヨブ記 9章
ビルダデに対するヨブの答えが九章、十章と続きます。誰が神の前に正しくあり得ようか(1-4)。その神の偉大な力について創造者として姿を認め(5-10)、そのような偉大なお方の前に小さな私は何もなしえないと語ります(11-12)。神の怒りの前に、神話的海獣であろうラハブもひれ伏します。神の前に誰が正しくあり得るか。自分が潔白と思っていても、神の前に本当にそうかは分からない。だんだんと神に対する訴え、いや愚痴に代わっていきます(13-24)。自分の日々はあっけなく過ぎ去り(25-26)、どんなにきよくあろうとしても聖なるお方の前には絶対に立ちえないと絶望します(27-31)。そして、そんな自分と神との間に立つ仲裁者がいないとを嘆きます(32-35)。ヨブは神の前に立ちえないことは認めながらも、自分の潔白を訴えます。そこにとりなすものがいないと嘆きます。しかし、私たちは、仲裁者である主がおられ、それを知らされている恵みを覚えます。

ヨブ記 10章
九章に続いて、ヨブの神様に対する叫びが続きます。なぜ私を責めるのですか。なぜ人が見るように私を見て、私の罪を探り出されるのですか。私はこれほどの災難にあう罪を犯しているのでしょうか。あなたの手から救い出せるものはいません(1-7)。あなたは私を造り出されたお方であるのに、私を滅ぼされるのですか。あなたが私を罪あるもの、悪しき者として見られるのなら、なんと悲しいことでしょう。あなたは私を訴える人を立て、苦痛に苦痛を増し加えられる(8-17)。神よ、そんなことなら、私は生まれなければよかった。存在しなければよかった。私をほっておいてくれればよかった(18-22)。ヨブの不平と嘆きがあふれ出ました。それほどの苦痛、理由の分からない苦しみ、すべての人から見捨てられたかのような悲しみの中にありました。真っ暗な、死の陰、暗闇でした。その中で、ヨブは神様から離れず、しがみ続け、祈り続けました。私たちはどうでしょうか。

ヨブ記 11章
ヨブと二人の友の対話を聞いていたナアマ人ツォファルは、ついに感情を爆発させてヨブを責め立てます。ツォファルはヨブの言葉を「無駄話」とまで言って責めます。どんなに自分を正当化してもそれで善とされるのではない。自分の罪がその苦難を招いたのだと主張しました(1-6)。ツォファルは神がいかに人間を超えた大いなるお方であり、全知全能の絶対的なお方であるか語ります。そして、その神の前に人間は何者でもないと語ります。確かにその通りです。そしてそのお方に手を差し伸べ、すなわち祈るなら、悔い改めるなら、このお方は回復してくださるとも語ります。そうして神との正しい関係にあるなら、希望、平安、守り、安息が与えられるが、悔い改めないものには希望がないと語ります(7-20)。ツォファルはヨブを責め、教えを語るだけでした。ヨブの痛みを受け止め、ともに神へ祈る姿勢はありませんでした。誰かのためのとりなしの祈りをささげるものとなりましょう。

ヨブ記 12章
ツォファルの激しい言葉にヨブは答えます。その答えは十四章まで続きます。自分も世の理に精通しており、にもかかわらず私は苦しみに会い、悪しき者の方が安らいでいるという不条理を嘆きます。あなたは苦しんでいないからそんな偉そうなことを言えるのだと言わんとばかりです(1-6)。そして、神の絶対的な主権については自然界のすべてのものが認めている。そのようなことを知らないものはいない。知恵も力も思慮も英知も神のものであると叫びます。さらにこのお方は歴史を支配し、国民、指導者のすべてを打ち壊し、滅ぼすこともできるお方であると語り、その姿はまるで、自分勝手に振舞う専制君主のようにさえ聞こえます。これは売り言葉に買い言葉のように語ったヨブの強い応答なのかもしれません(14-25)。私たちもこの世の不条理を嘆き、神様がいるならなぜ、神様の正義とはと思うことがあるでしょうか。今、私たちは聖書を通して、神を知ることができる恵みがあります。

ヨブ記 13章
ヨブの友たちに対する激しいことばは続きます。あなたがたが言うようなことは知っており、私は神に論じかけている。あなたがたは無用な医者だとまで言います(1-4)。そして神の名を持ち出して語る友たちを責めます。あなたがたこそ神の前に潔白で、責められることなくいられるのかと(5-12)。そしてヨブは神への信仰を、たとえ神が私を殺しても、私は神を待ち望みますと、神こそ救いであると神に向かっていきます(13-19)。そしてヨブは神に向かって叫びます。願います。求めます。私の咎、罪がどれほどあるのか知らせてください。なぜ、私をこのようなめにあわせるのですかと問い続けます(20-28)。結局のところ私たちは人との関係の中には解決も、慰めもありません。神様に向かい、神様に問い、神様との関係の中で、道は開けます。私たちは誰に訴えているでしょうか。誰との関係の中にあるでしょうか。何に心を、目を、声を、耳を向けているでしょうか。

ヨブ記 14章
ヨブの言葉は続きます。しかしそれは友に対する反論ではなく神に対して訴え続けます。人の人生は儚く、労苦に満ち、罪深く、汚れたものであって、とてもあなたも前には立てず、目をそむけておいてほしいとさえ願います(1-6)。木は再び芽吹くことがあっても人は死んだらそれっきりであると人間の無力さを嘆きます。人間の死を絶望します(7-12)。ヨブは死後のはっきりとした希望が見いだせない中に、自らの死、自らの罪咎、人生の苦役の中で、神の前の憐れみを求めます。そしてこの苦しみ、刑罰のように思える状況が過ぎ去って、回復が与えられること願います。(13-17)。しかしその言葉の最後は再び彼の絶望の声で満ち溢れています。死の絶望を嘆きます(18-22)。いつの時代であっても人は自らの死を恐れ、死は終わりであり、絶望であることを嘆きます。しかし私たちにとって死は終わりではなく、永遠の始まりであるという希望がはっきりと示されています。

ヨブ記 15章
再びエリファズ(4、5章)の応答が始まります。エリファズはヨブを悪者と決めつけ、あなたは知恵ある者のようにふるまうが、空しいことを語っており、それは東からの有害な熱風のようなもので、あなたの態度は神に対して不敬虔であると責め立てます(1-6)。神に対するあなたの態度は傲慢で、あなたには神のような知恵があるのかと責めます。人間は神の前に清くあるはずがないのに、あなたは聖なるお方に対して口答えしていると非難します(7-16)。結局のところ悪者の運命は災いであり、あなたが神からそのような仕打ちを受けているのは、あなたが神に逆らうからではないのかと同じ主張を繰り返しました(17-35)。ヨブの神へのうめき、祈りは、エリファズにとっては神に食って掛かる不遜な態度にしか見えませんでした。彼は自分の考えを主張し、そこにはヨブへの同情も声に耳を傾ける姿もすでにありませんでした。苦難にある人たちへの私たちの態度はどうでしょうか。

ヨブ記 16章
再びヨブの答えが十六、十七章と続きます。まずはエリファズへの応答ですが、その内容は繰り返し、あなたが言うようなことは十分わかっている。でも私の立場になったら同じことが言えるかと批判します(1-5)。そして神様に目を向けて、私は応えることにも疲れたと語ります(6-8)。そして、あなたはなぜ私を容赦なく責め、私を打つのですか。あなたは敵対者たちを送り、私を苦しめるのですかと思いを吐露します(9-18)。しかしヨブは再び、目を天に向けて、天に私の証人が、保証人がいると期待を寄せます。苦しみの中にも助けてくれる仲保者がおられることに希望を向けます(19-22)。その人の立場に立って考え、言葉を発することは何と難しい事でしょう。私たちは自分の基準で人を責め、慰めを語りやすいものです。人間には限界があります。しかし、今や、私たちには真のとりなし手がおられ、そのお方は神の右の座におられることが明らかにされています。

ヨブ記 17章
ヨブの苦悩の言葉が続きます。自分にあるのは死だけであり、友の心無いことばに打ちのめされ、天において自分をとりなしてくれるお方を願います(1-4)。人を非難して自分を正当化する者には祝福は来ることなく、あなたがたの言葉がさらなる苦しみを与えると叫びます。私の願いは砕かれたと叫びます。私は闇と死の中にいる事を求めるほどに苦しみの中にあると嘆きます。それほどまでに望みがないと嘆きます(5-16)。人は本当に絶望に陥り、望みを失う時に、そこが自分の住まいのように感じ、希望を持つことで更なる絶望を味わうことを恐れて、僅かな期待を持つことさえも拒否することがあります。ヨブは肉体的にも死を願うほどの苦しみがあり、精神的にも友からの言葉によって打ちのめされていました。それでもヨブは自らのいのちも、苦しみも神に委ね、とりなす方がおられることに期待していました。神に叫びつつ、希望が失望の終わらないことに信じましょう。

ヨブ記 18章
八章に続いてビルダデが応答します。いつまであなたはそうやって自分を正当化し、悔い改めようとしないのか。私たちを獣や愚か者のように責めるのか。結局のところ、苦難に会うのは悪人ではないか。悪しき者の姿は自分で自分の罠にかかり、あなたはそのようなものではないか。悪しき者は、皮膚を打たれ、子を失い、硫黄が住まいを食らうというわざわいも訪れ、その最後は闇の中に追い出されるのではないかと傷に塩を塗るようにヨブを激しく非難しました(1-21)。確かに悔い改めない愚か者、悪しき者に対しては、神様の厳しいさばきはあるでしょう。しかし、はたしてそれはヨブを正しく理解し、また天上での出来事を理解してのことだったでしょうか。ビルダデも、ヨブも、互いにそれぞれの激しい言葉に、激しい言葉で応酬しました。互いに聴くことも、耳を傾ける状態ではなく、ますます攻撃的なことばになっているように見えます。私たちの対話はどうでしょうか。

ヨブ記 19章
ヨブが答えます。自分の事を非難する友たちを責めます。そして理由はわからないが、自分は今、神の取り扱いの中にあることを認めます(1-6)。神は今、私に応えてくれず、全く先が見えない闇の中に身を置いているようである。四方から打たれ、望みは根こそぎ奪われ、まるで神が自分に敵対しているかのようである。その上、友も、しもべたちも、親族もみな私を見放したのだと孤独を感じながら絶望します。それゆえ、私はかろうじて生き延びているに過ぎないと嘆きます(7-20)。そして友たちに対して憐れみを求めます。私をあわれんでくれと願います。これ以上私を追い詰めないでくれと求めます。しかしその中でも、ヨブは自らをとりなすものへの確信を強めていきます。私を贖う方は生きておられると告白します。そのお方が立たれ、私はその方を見ると告白します(21-29)。神のみが私たちを買い戻し、自由を与えるお方です。このお方が私たちの最後の拠り所、砦です。

ヨブ記 20章
十一章に続いてツォファルが苛立ちながら応答します。あなたは私たちを侮辱し、さらには悟りを与える霊が私に答えを促すと自分を正当化します。あなたも知っているはずだ。悪しき者が高ぶっても、その人は儚く消え、子孫に何も残さず、死が訪れる。たとえその悪意を隠し持っていても、それが内側からその人を滅ぼす。その富は吐き出され、繁栄を見ることもなく、苦しみが訪れ、神の激しいさばきを受ける。それこそ悪しき者が神から定められた受け継ぐ分であると、繰り返し、因果応報を主張し、あなたにこのようなことが起こるのはあなたが悪者だからとヨブを断罪しました(1-29)。確かに神様は最終的には、悪しき者を正しくさばくお方でしょう。しかしヨブの苦しみは無実の苦しみでした。励ましに来たはずのツォファルは苛立ち、その目は曇りました。私たちは愛をもって行動しましょう。イエス様の不当な苦しみを覚え、その中にあっても愛に生きた姿を思い起こします。

ヨブ記 21章
ヨブはツォファルに答えます。私の言い分を聞いてくれ。私が語る事を許してくれ。私の方を向いてくれと私の思いを受け止めてほしいと願います(1-6)。そして悪しき者たちが栄えている現実を見つめて、なぜ悪しき者が栄えるのか。なぜ彼らに神のさばきが下らないのか。なぜ彼らの家畜も子孫も繁栄するのか。なぜ彼らは平和の内に死につくのかと、ツォファルの言葉に真っ向から反対するような現実を示します(7-16)。ヨブも悪しき者に下る正しいさばきがあり、神は高ぶる者を滅ぼされ、その死が神の時のうちにあることも認めます(17-26)。しかし現実は悪しき者が繫栄しているような姿が見いだされるではないかというこの世の不条理を嘆き、なぜむなしい言葉で私を慰めるのか。あなたがたの応答は不信実だと友への思いを吐露します(27-34)。なぜという現実があります。神を信頼しながらもなぜに直面します。誰がこの葛藤を理解してくださるでしょうか。神がおられます。

ヨブ記 22章
十五章に続いて三度目のエリファズの応答は、人は神にとって何の役に立つか。神がさばきの座に立つのはあなたの悪のためである。さらに、あなたは人から剥ぎ取り、困った人を助けず、弱い者を虐げたゆえに裁かれているのではないかと根拠のないことばでヨブを責め立てます(1-11)。そして、神ははるか高きにおられ、悪人がどんなに高慢に振舞おうとも、やがてさばきが下され、正しい人はそれを見て喜ぶと言います(12―20)。それゆえにエリファズはヨブに対して、神とやわらぎ、平安を得よ。神のみおしえを受け止め、全能者に立ち返れ。富を神に返すなら神ご自身が宝となる。神に祈るなら、神は聴いてくださり、へりくだっている者を救われる。だからあなたは悔い改めよと語ります(21―30)。確かにその言葉の中には真実もあります。しかし、ヨブの苦しみの理由は何も知りません。エリファズは見える事柄だけから結論づけてヨブを責めました。私たちの判断はどうでしょうか。

ヨブ記 23章
エリファズの言葉にヨブはうめくように答えます。「今日もまた」と論争が続いている様子が伺えます。祈りの手も重くなります。ヨブは神からの応答を切に求めました。直接、神に訴え、神から答えを得たいと願いました。そうすれば神は心に留めてくれると信じていました(1-7)。しかし神を見出せない。神は私をご存じであり、私は精錬された金のように質問に耐え得ると自らの潔白を信じていました。私は神の道を守り、命令に従い、そのことばを蓄えた。それでも神はご自身のみこころを成し遂げ、私はそれを変えることはできないと認めました。それゆえ私は恐れつつ、心は弱っているが、それでも私は黙ることができない(8-17)。ヨブの最大の苦しみは神が答えてくださらないことにありました。しかし、なおも神の真実を認め、神に食らいつき、神に願い、問い続けました。神の沈黙は、神が存在しないことでも、神が聞いていないことでもありません。やがて神は語られます。

ヨブ記 24章
ヨブの言葉が続きます。ヨブはなぜ神との親しい関係にあるものが、神のさばきの時を知ることができないのか。悪者は地境を動かし、家畜を奪い、弱いものを抑圧し、それによって苦しむ者たちは食べ物、着るもの、身を置くところにも苦労する(2-8)。虐げられている者たちの姿、神の沈黙、悪者は暗闇の行為に手を染め続ける現状を嘆きます(9-17)。教えられてきたことは、悪者の結末は儚く、跡形もなく消え去るという事であったにもかかわらず(18-20)、本当にそうなのだろうか。神は正しいさばきをなされるのか。それどころか神は悪者に安全を与え、支えておられるようではないか(21-23)。しかし、結局のところ悪者はやがて他の者と同じように刈り取られる。いまそうでないからと言って、そんなことはまやかしだとは言えない(24-25)。矛盾だらけに見える現実をしっかりと見つめながらも、それでも神を見上げて歩みます。葛藤の中でも神の時を待ち望みましょう。

ヨブ記 25章
十八章に続いてビルダデの三回目の応答です。彼は、ヨブが主張した悪しき者が栄えているように見える現実に応えることなく、これまでの主張を繰り返します。神がいかに私たちとかけ離れたお方かを強調します。その主権、威厳、高さ、力、栄光、正義、きよさ、このお方の前には月さえ光を失い、星でさえ清くなく、まして人間はうじ虫にすぎず、どうして自分の正しさを主張できるだろうか(参4:17、9:2)、きよくあり得るだろうか(参15:14)と、なおも自分の潔白を主張するのかとヨブを責めます。一貫して、あなたは罪を犯したから苦しむのだという因果応報を主張します(1-6)。ビルダデの神についての真理は、ヨブも十分承知していたでしょう。しかし、ヨブは、罪なき者が苦しみに会う中で、神の答えを求めて苦しんでいました。ヨブの叫びは、矛盾だらけに見えるこの世に対する私たちの代弁者です。しかしなおも神を信頼して、なぜ神よと叫び続け、待ち続けるのです。

ヨブ記 26章
ビルダデに対するヨブの応答ですが、しばらくヨブの言葉が続きます。あなたの言葉は神を求める私の助けにもならないと人間の無力さ、人間の知恵の無力さを語ります(1-4)。ヨブはビルダデの主張をさらに広げて、神の支配は被造世界を超えて、死者の世界にまで及ぶと語ります。よみあるいは滅びの淵は海の下にあると考えられていたのかもしれません(5-6)。天空を張り巡らし、太陽が昇ると水平線が曲線を描いて光と闇の境を描き、雷鳴や大風、地を揺らされます(7-10)。さらに神に逆らう古代オリエントで知られていた神話的な海獣ラハブ(9:13)や怪獣のような蛇(イザヤ27;1)を打たれるとヨブは語ります(11-13)。しかしこれらも神の力の一端を見るにすぎません。ささやきを聞いているにすぎません。誰もその神のすべてを知り尽くすことはできません(14)。私たちは神についてすべてを知ることはできませんが、聖書を通して神は語られます。

ヨブ記 27章
ヨブはあらためて自らの言い分を語ります。神は私を苦しめるが、私はそのお方の前に自らの潔白を誓い、命ある限り不正や欺きを行わず、あなたがたの主張は間違っていると語ります(1-7)。さらにヨブは神を敬わない者に望みがないことは十分に知っている。しかしあなたがたは私の見てきたではないか。あなたがたの言葉は空しいと責めます(8-12)。また悪しき者についても、子孫は苦しみ、財産は失われ、大風や熱風で追い払われるとその結末を認めます(13-23)。確かにヨブも伝統的に語られてきた神について、また悪しき者について、その理解を認め、しかし同時に現実は、時に矛盾に満ち、何より自分は誠実に歩んできたのに苦しみの中にあって神に問い、あなたがたの言葉は的外れであると主張しました。とはいえ、あまりの苦しみの中で、ヨブは少しずつ自分の義に固執し始めているようにも見えます。自分の正義を振りかざし、誰かを追い詰めてしまうことがないでしょうか。

ヨブ記 28章
さらにヨブは、貴重な鉱物を掘り出す人間の姿を描きます。獣や鳥と違って、人間は鉱物を熱心に探し求め、掘り出します(1-11)。しかし、と貴重な鉱物は掘り出せても、知恵を見出すことができないと主張します。どんなに深淵まで掘り進めても、貴重な鉱物以上に価値をもっているまことの知恵を見出すことができない(12-19)。では知恵はどこから来るのか。それは神のみが知っており、すべての生き物に隠されている。それゆえ主を恐れることが知恵であり、悪から遠ざかることが悟りであると認めます(20―28)。まさに知恵文学に含まれるヨブ記の本領発揮のようなヨブの格言のような言葉です。ヨブは神を恐れることが知恵であるとそこに行きつきます。苦しみの中で一筋の悟りを示されます。私たちには、聖書を通して語られるまことの知恵が与えられています。そして、聖書はキリストのうちに知恵と知識の宝のすべてが隠されている(コロ2:3)と語ります。

ヨブ記 29章
ヨブの言い分は続きます。過去に戻りたい。神との親しい交わりにあったあの頃はよかった。ヨブは、神の祝福の光の中を歩み、自分も家族もかつては幸せで、牧畜、農耕も繫栄し、人々から一目置かれ、町の門にさばきの場として自分の座を設け、弱く貧しいものを助け、死を間際にした人からさえも賛辞を受けるほどだったと回顧します。そして長寿と安らかな死、名声と神の祝福を受け、まるで弓で矢を次々に放つように豊かな将来を信じていた(1-20)。そして誰もがわたしの助言を聞き入れ、私の語る事に聞き従った(21-25)。高慢のようにさえ思える言葉ですが、実際、ヨブは神の前にも潔白な人で、そのような生涯であったにもかかわらず今回のことが起きたことを私たちは知っています。私たちも、ヨブのように過去を回顧して、あの頃はよかったと、今を嘆き、過去に囚われることがあります。しかし、いつも主の憐れみと恵みがあったことを忘れてはなりません。

ヨブ記 30章
前の章で、ヨブは人々へ助言し、人々が私の言葉に聞き従ったと語りましたが、にもかかわらず今は自分より年下のものが、それも使用人の子どもたちからさえもあざ笑われ、飢えた者、貧しい者、社会から追放された者たちからさえも嘲られると辛らつな言葉を連ねます。そして今、私が神によって、いかに苦しみの日々にあるか。病気や苦痛を身にまとっているか。悲惨な状況にあるかと語ります(16-19)。それにもかかわらず、神よ、あなたは私の叫びに答えてくれず、目を留めず、残酷な方に変わり、責め立てて、やがて私は死を迎えますと語り、再び自分の世界に閉じこもるように自らの現実を嘆きます。私は不運な人や貧しい人の痛みを分かち合った。善を望んだのに悪が来た。社会から疎外された。肉体の苦痛、喜びの音楽は悲しみの音楽となった(24-31)。ヨブの姿は、自らの状況を嘆き、神に叫ぶことの繰り返しです。それでも神よ、と叫び続けます。そこにしか助けはないからです。

ヨブ記 31章
ヨブの最後の訴えです。神はすべてをご覧になり正しいさばきをなされる事を認め(1-4)、その上で、もし、私に偽りや欺きがあり、不誠実であったなら正しい量りで量られればよい(5-8)。もし、異性の誘惑に陥り、不義を行ったなら、その報いを受ければよい(9-12)。もし、神が形造られた存在であるしもべや召使の訴えを拒んだのなら神がお調べになってよい。(13-15)。もし、社会的弱者への憐れみを拒んだのなら、神のわざわいが私をおののかせればよい(16-23)。もし私が富により頼み、太陽や月を拝んだなら、上なる神を否んだのだから、罰せられて良い(24-28)。もし私が敵の不幸を喜び、寄留者に目を留めず、アダムのように罪を隠し、私に告訴状を出せるなら、それをもって神に近づくと自分の潔白を申し立てました(29-40)。まるで罪を犯したことがないかのような訴えは行き過ぎのように思えますが、ヨブは他の誰かではなく、すべてをご存じの神に訴えました。

ヨブ記 32章
ヨブの三人の友は、ヨブが自らの潔白を訴え、自分の正しさを譲らないので口をつぐんでしまいます。それに対して年下で、その名を「彼は私の神である」というエリフは、ヨブが神よりも自らを義とし、それに対して年長者たちが言い返せなかったことに怒りを燃やして答えます(1-5)。エリフは、私は年長者たちに遠慮して意見を控えてきた。誰もヨブを納得させ、応えていない。人の教えや経験ではなく、全能者の知恵こそがヨブを納得させるだろう(6-14)。私は意見を言わずにはいられない。私の内には言葉が渦巻き、発酵したぶどう酒が革袋を張り裂くように、黙っているわけにはいかない。誰の顔色をうかがうこともなく、神の霊に促されて誠実に語ると話し出します(15-22)。一見、高慢にも見えるエリフですが、行き過ぎたヨブをいさめ、神の前に誠実に語ろうとしている熱心さがあります。人の言葉や知恵ではなく、神に促され、神の前にあって誠実なことばを重ねましょう。

ヨブ記 33章
エリフはヨブの名を呼び、耳を傾けるように願います。直ぐな心で神の霊に促されて語ると告げます。自分自身も神の被造物に過ぎないと認めます。そしてヨブの主張を確認します(1-11)。その上で、神の圧倒的な偉大さ、神が人を様々な方法で導かれるにもかかわらず人は気づかないと語ります(12―14)時には夢や幻によって語られ、時には病や苦しみを通して語られます。そして仲介者が語り、その人が悔い改めに導かれるなら、神はそれを受け入れ、滅びから救い出してくださると語ります(19-28)。神は何度もそのことを行われ、人のたましいを滅びから光に導いてくださいます。それゆえにこの言葉に耳を傾け、それに応答するように語ります(29-33)。エリフはヨブをただ因果応報で決めつけ、責めるのではなく、神への信仰に目を向けさせました。今、私たちは、もう一度、真の贖い主がおられるゆえに、確かな回復と希望があることを確認して、主に目を向けてまいりましょう。

ヨブ記 34章
続けてエリフは良識あるものたちに「聞け」と、ヨブやその友たちに語ります。ヨブが自分を義とし、神をあざけるものと同じ態度を取ったと責めます。(1-9)。しかし、神は悪を行うことなど絶対になさらず、もし不正があればいのちあるものは瞬く間に息絶えると語ります(10-15)。そして神の正しさと公平さに目を向け、すべての存在は被造物であり等しく、神は正しくさばき、弱い者、苦しむ者たちの叫びを聞かれる。神が黙っているなら誰もとがめることはできない。それは神に疑問をはさむヨブの態度への叱責のようです(16-30)。神は悔い改める者をそれ以上の懲らしめことはない。あなたはどちらを選ぶのか。なおも神に言い返すような態度を変えないならば、最後まで試練を通されるようにと語ります(31-37)。一転してエリフの厳しいことばは、ヨブを正しく理解していないようにも見えます。完全な人はいません。不十分な自分を認めて語る必要があります。

ヨブ記 35章
ヨブの沈黙が続き、エリフはことばを続けます。あなたは自分を義とし、神に対して人と論じるように語るが、天を仰ぎ見て、神の偉大さに目を向けよと語ります。神の前に人間が自分の義を主張することはむなしいことを示します(1-8)。人々は苦境に陥った時に助けを求めますが、それが自己本位で、神を求める祈りでないならば、その偽りの叫びに神は心を留めません。それゆえ、あなたが確かに神を求めているならば、その訴えは神の前にあるのだから、あなたは黙って、神を待つべきではないか。あなたは空しいことばを並べ立て、神の前に知識もなしに言い分を述べることをやめるべきではないか(9-16)。エリフもヨブの状況を十分に理解したものとは言えないとはいえ、彼は単なる因果応報で終わる友たちとは違い、神の絶対的主権に目を向けます。神の前に祈りは確かに届いています。神は答えない。答えるべきだという態度ではなく、神を黙って、待つことが大切です。

ヨブ記 36章
さらにエリフの言葉が続きます。エリフは自分の言葉は神からのものであると主張します(1-4)。神は正義を行われるお方であれ、悪しき者にも、正しいものにもそれぞれふさわしい報いを与えられます。苦難を通して罪を教え、悔い改めに導き、立ち返るものには回復を与えられます(5-12)。苦悩の中で、神を敬わない者は怒りをため込み、神は悩みを通して人々を導かれます。その中で憤り、不法へ向かうことのないようにとヨブに語りかけます(13-21)。そして再び神の偉大さ、人間を超えたお方であることに目を向け、その自然界の中に、特に秋の営みの中に神の偉大な力を示します。誰もこのお方に教え、訴えることはできず、ただ賛美するのみであると語ります(22-33)。神の偉大さに目を向ける時に、私たちは圧倒されます。なぜ、どうしてという問いは、地上にある私たちの御思いをはるかに超えた神の中に消えていきます。このお方を信頼して今日を歩みましょう。

ヨブ記 37章
エリフの言葉の最後の部分です。先に季節は秋の営みにおける神の偉大な力を描きましたが、ここでは冬の営み、夏の営みが続きます。稲妻や雷鳴が神の御声と結びつけられます。パレスチナでは冬を特徴づける自然の営みでした。雨や雪の中にあって神を知り、稲妻による懲らしめ、雨による恵みを通して神の両面を起こす時です(1-13)。それゆえヨブよ、耳を傾け、立ち止まって考え、神の偉大なみわざに思いを向けるように招きます。あなたは何を知っているのかと問います。夏の暑さ、神の御手のわざである大空、人間は無知であって言葉を並べることはできない(14-20)。雨雲が太陽を覆うと光が見えなくなるが、太陽は変わらず輝いている。雨雲が消えると輝きが現れる。神はただ苦しみを与えられるお方ではない。神を恐れよ(21-24)。神はどのようなお方なのかを思い巡らしてみましょう。雨雲が覆っても、光は消えたのではありません。神は変わらずともにおられます。

ヨブ記 38章
いよいよ主が答えられます。心してあなたの言い分を述べよ。地の基が据えられた時、あなたはどこにいたのか(1-7)。海はどのように生み出されたのか。朝が訪れ、地を照らし、夜は終わるのは誰のわざか(8-15)。よみの場所と考えられた海の深み、死の世界、地の果てにあると考えられていた光と闇の住まいはどこにあるのか(16-21)。大空の雪、雹、光を放つ稲妻、東からの熱風、大雨、荒野に降る雨の営みさえ誰によるのか(22-30)。夜空の星座の場所、動きを人は観察するのみである。雨、稲妻、日照りを人間は自由に支配することができるか(31-38)。動物たちを生かしているのは誰か(39-41)。ヨブの苦難の問題に神は直接答えません。またこの神の問いに対して、人は今日、科学である程度説明ができるというかもしれません。しかし説明はできても、それを生み出し、支配することはできません。私たちは被造物に過ぎず、神の前に静まる時、神は語られるのです。

ヨブ記 39章
主のことばが続きます。野やぎや雌鹿の出産や親離れはあなたの知らないところで起こっているではないか(1-5)。野ろばが自由に生きていることを誰が知っているだろうか(5-8)。野牛を自分の思うように利用することができるだろうか(9-12)。だちょうは人の目には愚かに見えているが、そこにも深い神の関わりがある(13-18)。馬の勇ましさ、威厳、力強さ、あなたがそれを馬に与えたのか(19-25)。あなたが考えたから、鷹は高く舞い上がり、近寄りがたい岩間に巣をつくるのか(26-30)。あなたは被造世界の何を知っていて、何ができて、わたしに問うのか。今日、人は動物の生態を知り、観察もできるというかもしれない。しかしそれらを創造し、生かし、その一匹一匹をご覧になっているお方に並び得るでしょうか。私たちは何を知っているのでしょうか。確かに、私たちには神に叫ぶことが許されています。しかし、私たちは人知を超えた深い神のご計画に信頼するのです。

ヨブ記 40章
神とヨブとの対話が短く記録されます。神を非難し、責める者はだれか(1)。ヨブは答えて私はただ口に手を当てるだけで、もう答えません(2)。そして再び、主が語られます。あなたはわたしのさばきを無効にし、自分を義とし、わたしを不義とするのか。あなたは神のようであるのか。あなたは悪人にさばきを下し、正しく治めることができるのか(3-16)。河馬(ベヘモテ)を見よ。あなたと並べてわたしが造った。その屈強さに目を留めよ。そのいのちもまた主の御手にある(17-24)。義人がなぜ苦しむのかというヨブの問いかけに直接答えるわけではなく、神は再び、被造物の一つである河馬に目を留めるように命じます。人も被造物の一つに過ぎず、そのいのちは主の御手にあります。神の義しさと絶対的主権、この大いなるお方と、その摂理への信頼を通して、今を受け止めていく信仰に招かれます。不条理、理由の分からない苦しみの中で、「しかし」と神に目を上げるのです。

ヨブ記 41章
神のことばが続きます。前章の河馬(ベヘモテ)に続いて、ここでは、神に逆らう神話的生き物と考えられていたレビヤタンが登場します。あなたは、それを捕らえ、手懐け、売買する事はできるか(1-10)。それなのに、どうして神に挑むのか。すべてにおける神のご支配が宣言されます(11)。レビヤタンについての外見、生態、その圧倒的な強さが描かれ、これに類する生き物は地上に存在しないと言われます(12-34)。一見ワニのようなレビヤタンとは一体何か。実在するのか。ある人はここにサタンの存在を象徴的に示しているとも言います。しかし、それが何であれ、神の絶対的なご支配のもとにあって、すべてが神の被造物に過ぎず、神の摂理のもとにあることを忘れてはなりません。まして私たち人間はどうでしょうか。誰ものこのお方に太刀打ちできるものはいません。誰が神に対して物言いをつけられるでしょうか。神はすべてのものの上に立つ圧倒的なお方です。

ヨブ記 42章
ヨブが主に答えます。あなたは全能なるお方、私は無知であるにもかかわらず大きなことを語りました。あなたを知らされ、私はただあなたの前に悔いていますと信仰を告白しました。(1-6)。その後の出来事はあとがきのように記されます。主はヨブの三人の友に対して、あなたがたは主であるわたしについて確かなことを語らなかった。彼らは必死に神を求めるヨブに対し、神を十分に知らず、責め、因果応報を繰り返しました。彼らには全焼のいけにえとヨブからのとりなしが求められました(7-9)。ヨブが三人のために祈った時、ヨブは回復を与えられ、その後、満ち足りた生涯を送りました(12-17)。ヨブは主なる神がすべてを支配し、理解し得ない事柄、苦しみの背後にさえ、主ご自身とそのご計画があることを確信できただけで十分でした。十分に分かりえないことがあります。それでも神に信頼し、その人生を引き受けて生きる時に、そこに神とともにある人生に気づかされます。