エレミヤ書
預言者エレミヤはエルサレム近くのアナトテに生まれ、祭司の子、若くしてその働きに召され(1:6)、エルサレム崩壊、民の捕囚という悲しみの時代に預言します。続く哀歌もエレミヤによるものと考えられます。その活動は、すでに北王国が滅亡している紀元前六二七年(ヨシヤ王の治世第13年)からエルサレム崩壊の五八六年頃までと考えられます(1:2―3)。同時代の預言者にはハバククがいます。南王国の滅亡は北王国同様、偶像礼拝、形式的礼拝、諸外国に頼る姿にありました。その内容は前半二十五章までがさばきの預言で、特に七十年の捕囚が語られます。後半は自伝的な部分、諸国に対するさばきの預言、そしてエルサレム陥落が記録されます。エレミヤはバビロンに降伏することをすすめます。それは民にとっては裏切り行為に見えました。箇所によっては必ずしも時系列ではなく、過去を思い出して記述されているところもあります。悔い改めを迫り続ける預言者の姿を覚えます。
エレミヤ書 1章
エレミヤの召命の出来事です。彼はベニヤミン領のアナトテの生まれで、ユダの王ヨシヤの第十三年(前627年)からゼデキヤ王の第十一年(前586年)のバビロン捕囚頃まで活躍します(1-3)。主は母の胎にいる時から召していたと語られます。エレミヤは、私は若すぎます(二十歳ぐらいか)と恐れますが、主は人を恐れず、わたしがともにいてあなたを救うと約束されます。そしてくちびるに触れ、ことばを授けると言われます(4-10)。主はアーモンドの枝【シャケデ】を通して、実現しようと見張っている【ショケデ】と語られます(11-12)。煮立つ釜が傾く様を通して、北からユダの地にわざわい(バビロン)が来ると語られます。民が神を捨て偶像に仕えたからです(13-16)。主は、エレミヤに奮い立ち、主のことばを語り、城壁のように立ちふさがるように励まします。主がともにいて、救い出すと再度、語られます(17-19)。主の召しに「私は…まだ…」と言い訳していませんか。
エレミヤ書 2章
六章までは、ヨシヤ王の時代の託宣です。イスラエルと神がシナイ山で契約を結んだ時の誠実な愛が語られます(1-3)。しかし彼らは神を離れ、偶像に従い、忘恩の民、主を求めることさえしなくなりました(4-9)。西にも東にも、そのように神を捨て、偶像に頼る民はいない(10-13)。エジプト、アッシリアに頼り、その奴隷になり下がった(14-19)。彼らは偶像礼拝、諸国に身を寄せ、追い求めながらも、私は汚れていないとうそぶきます(20-25)。指導者たちも神を離れ、偶像を父と呼び、わざわいの時にだけ「救ってください」と叫ぶような浅ましさです(26-28)。主は言われます。なぜわたしと争い、わたしに背くのか。懲らしめを受け入れず、預言者を食い尽くすのか。主のことばに心せず、わたしを忘れるのか。弱者を虐げ、罪はないと居直るのか(29-37)。これは主を知らない民へのことばでなく、主を知っていながら主に背を向ける民の姿です。私たちはどうでしょうか。
エレミヤ書 3章
イスラエルの背信は夫を捨て淫行に走る妻の姿で描かれます。彼らは、いつまで怒っておられるのですかとうそぶき、悪を行い続けます(1-5)。時はヨシヤ王の時代、(前640-609年)、北王国を姉、南王国を妹にたとえて、姉がさばかれた(前721年)のに、妹は同じ罪を犯し、口先ばかりの悔い改めを行い(6-10)、ヨシヤ王による宗教改革にもかかわらず、なおも罪を犯し続ける姿は裏切りです。恵み深い神は、咎を認め、帰ることを求めます(11-13)。背信の民に立ち返るように叫び続ける時、少数の者が帰り、心にかなう指導者たちも与えられます。エルサレムは主の御座として回復し、諸国の民も集められます。ここには捕囚からの帰還とさらに終末の姿に目を向けます(14-18)。神は、繰り返し「立ち返れ、あなたがたを癒そう」と招き続けます。そして、その声に応答する者たちは、主こそ神、主に救いがあると叫びます(19-25)。私たちの主への応答はどのようなものでしょうか。
エレミヤ書 4章
ヨシヤ王による宗教改革があったとはいえ、それは表面的なものにとどまり、心からの悔い改めを主は求められます。それは諸国への祝福にもつながります。心を柔らかく、悪を取り除くことを求めます(1-4)。さばきが北からバビロンによって迫っています。指導者たちも狼狽します。エレミヤはなぜ偽りの預言者が「平和」を語ることを許されたのかと嘆きます。民はその生き方、行い、罪深いゆえにさばかれます(5-18)。神の審判に対するエレミヤの激しい嘆きの声が響きます。それは民の嘆きでもあり、しかし、同時に神も、民のかたくなさ、罪深さを嘆きます(19-22)。エレミヤは主のさばきの厳しさ、地が茫漠として、荒廃した幻を見せられ嘆きます。しかし完全には滅ぼされないという一筋の希望があります。エルサレムは女にたとえられ、何をしても無駄である様子が描かれます(23-31)。エレミヤのうめきは、神のうめきでもあります。主がともに苦しむのです(イザヤ63:9)
エレミヤ書 5章
エルサレムは偽りに満ち、口先ばかりで心からの悔い改めはありません(1-3)。エレミヤは指導者たちならば、と語りかけますが、彼らも契約を破る背信の民でした(4-6)。そのような民を主は赦さないと語られます。彼らは霊的姦淫を犯し、預言者も空しいことを語り、民はわざわいなど起こらないとうそぶきます(7-13)。それゆえ主のことばが民を火のようにさばき、遠くの国、バビロンによる破壊が語られます(14-17)。しかし主はイスラエルを滅ぼし尽くさないと語られます。主は民を懲らしめます(18-19)。主を見ず、主に聞かず、主を恐れることもない民は確かにさばかれます。彼らは強情で、逆らう民、その咎と罪が祝福を拒みます。欺き、悪事、弱いものを踏みにじるような者たちは罰せられます。預言者や祭司たちまでもが偽りと身勝手さに身を焦がし、民はそれを愛している有様です(20-31)。私たちの中に、霊的姦淫、背信、高慢、強情さはないでしょうか。
エレミヤ書 6章
二章からの一区切りで、ヨシヤ王の宗教改革にもかかわらずうわべだけの態度へ主の託宣と思われます。エルサレムはベニヤミン族の相続地に入っていましたが、平穏な牧場のようなエルサレムに北から戦火が訪れます(1-5)。井戸から水が出るように悪が湧き出るために懲らしめられます。しかし残りの民は捨て去られないようにとブドウの収穫にたとえられます(6-9)。民は聞かず、主の憤りが預言者の心を焦がします。老若男女、貧富によらず、そして指導者も偽り、平安がないのに平安だと叫びます(10-15)。主は幸いの道を歩み、たましいに安らぎを得よと警告を与えますが、民は拒み、無視し、偽善の礼拝をささげるゆえに、さばきがくだります(16-21)。バビロンによるさばきは激しいものです(22-26)。主はエレミヤに貴金属を試すように、民を調べよと命じます。結果は不純物のゆえに捨てられます(22-30)。私たちの中に不純物の混じったような態度はないか。
エレミヤ書 7章
二十章まではエホヤキム王の時代のことばと考えられ、この章は二十六章とも重なります。主はエレミヤを通して礼拝に集う民に「あなたがたの生き方と行いを改めよ」と語られます。偽りを捨て、公正を行うなら、エルサレムに住まわせる(1-8)。偶像を拝み、神殿があることに安心し、救われていると叫ぶ民に、さばきを受けた北王国、神の宮のあったシロに学べと言われます(9-15)。主はエレミヤに民のためにとりなすな。祈りは聞かれないと語り、彼らは偶像礼拝に陥り、神の憤りを引き起こし、いや自分たちの恥をさらしていると言われます(16-20)。主はイスラエルをエジプトから贖い出した時、主の声に聞き従うなら祝福を、耳を傾けないならのろいがあると契約を結んだが、民は父祖も子孫も頑なで真実を尽くさなかった(21-26)。エレミヤが語っても民は聞かず、それゆえ厳しいさばき、喜びが絶えると言われます(27-34)。エレミヤの苦しみ、いや主の痛みを覚えます。
エレミヤ書 8章
偶像礼拝へのさばきとして、墓が暴かれるという侮辱的行為を描いてその厳しさが示されます(1-3)。主への背信、主に帰らないことがいかに異常なことかたとえによって語られます(4-7)。主の律法を持っていることに安んじ、主のことば退ける彼らに知恵はなく(8-9)、家族、土地は奪われ、罪に安んじながら平安だとうそぶきます(10-12)。実りを願う主の願いとは裏腹に、彼は実をつけない作物です(13)。さばきの中で、ついに民は罪のために滅びに定められ、毒水を飲み、平安はなく、恐怖しかないと告白します(14-15)。北からバビロン来襲の足音が聞こえます。彼らはすべてを食らいつくします。主の用いるさばきの器です(16-17)。エレミヤは民の傷つく姿に心を痛めます。民の叫びにうなだれます。しかしそれは民が偶像に身を寄せ、真の神を離れ、神の怒りを引き起こした結果です(18-22)。警告は回復のための主の愛です。そう受けとめることができますか。
エレミヤ書 9章
エレミヤは民の姿に「頭が水、目が涙の泉」だったらというほど泣き、その場を離れたいと願うほどでした(1-2)。主は民の姿を、偽り、友さえ出し抜き、神を知ることを拒むと語られ、それゆえ民を精錬すると語られます(3-9)。エレミヤは主のさばきのゆえの地の荒廃をも嘆きます(10-11)。なぜこのような滅びが訪れるのかとのエレミヤの問い(12)、主の律法を捨て、主の声に従わず、心を頑なにし、偶像に仕えたからと主は言われます(13-16)。万軍の神、主は泣き女を呼べと語り、エレミヤは嘆き、涙を流し、さらに女たちに嘆きの歌、哀歌を聞かせ、そのさばきがどれほど悲惨かを知らせます(17-21)。さらに主のことばは人の知恵、力、富は何の誇りにもならず、誇る者は恵みと公正と正義を行われる主を知っていることを誇れと語り(22-24)、外見ばかりの割礼で、心の割礼がないことが語られます(25-26)。滅びに向かう民のために涙を流し、語っているだろうか。
エレミヤ書 10章
主なる神と偶像の対比がなされます。天体現象でうろたえ、異教的習慣に心惑わされるな、と主は語られます(1-5)。主こそ神、並ぶものはなく、大いなる、力あるお方(6-7)、偶像は地の材料で作られたに過ぎずません(8-9)。主は生ける、永遠の王であり(10)、偶像は滅び去ります(11)。主は御力と知恵をもって世界と宇宙を造られたお方で、人の手で作った偶像を拝む者は空しく、恥を見ます。イスラエルは、このお方の民とされ、このお方を知らされ、このお方を相続する特権を与えられました(15-16)。しかし、民は主を捨てたゆえに、エルサレムは包囲され、苦しみ、悲しみ、傷を受けます。指導者たちも主を求めず、北から敵がやって来て、彼らは他国に散らされます(17-22)。エレミヤは人の道を確かにするのはただ主のみ、公正をもって、契約に基づく義によって正しい裁きをなさってくださいと祈ります(23-25)。神はどのようなお方でしょうか。
エレミヤ書 11章
主は、出エジプトの時に結ばれた契約に聴けと語り続けます。それは主のことばに従うなら神の民となり、約束の地を受け継ぎ、祝福を受けるが、従わないなら、のろわれるという契約でした(1-5)。しかしイスラエルの民は、父祖たちと同様、偶像礼拝に手を染め、それに聴き従いませんでした(6-10)。それゆえ主はわざわいをくだされます。その叫びを聞きません。彼らがより頼む偶像は何の役にも立ちません。エレミヤに「とりなしの祈りをささげるな」とまで語られます(11-17)。エレミヤは民に迫りましたが、逆に故郷アナトテの人々は彼を殺そうとしました。エレミヤは、心を痛め、うなだれ、屠り場に引かれていく子羊のようになりましたが、敵を打ち滅ぼし、心の奥にあるものを試す神が正しいさばきをなしてくださいと祈ります(18-20)。そしてアナトテへのさばきを語ります(21-23)。どんなに語っても伝わらない、涙の預言者エレミヤのような経験があるでしょうか。
エレミヤ書 12章
故郷アナトテの人々からの仕打ちに対して、エレミヤは神の正しさを認めながらも、なぜ悪者が栄えるのですかと叫びます。口先ばかりで心が離れている者が祝福されているように見える現実を嘆きます。地は荒廃し、神を侮る者の声も聞かれます(1-4)。神様は、これから来る困難に比べるならば、今は平穏であると答え、家族さえも裏切ると語ります(5-6)。神はユダを捨て置き、見放し、敵に渡してさばかれます。地も、町々も荒れ果て、主の燃える怒りを刈り取ることになります(7-13)。しかし、主はやがてユダのみならず、さばきの器であった敵国をもさばかれる。しかし、その国々さえも回復されると約束されます。そして諸国が「主は生きておられる」と主の道に歩むなら、彼らも民の中に建てあげられます。しかし、そうしないなら、滅びを刈り取ります(14-17)。すべての国々に憐れみを開いておられる神様の前には、いつも回復の道があります。主は生きておられる神です。
エレミヤ書 13章
主はエレミヤに視覚教材として、帯を買い、腰に締め、さらにそれを川の近くの岩の割れ目に隠し、時を経て取り出すように命じます。帯は腐り、使い物になりません(1-7)。それは、イスラエルが主のそば近く、主に結ばれたものであったにもかかわらず、主に聴くことを拒み、頑なで、他の神々に仕えたゆえに、役に立たないものになった姿の象徴でした(8-11)。さらに酒壺の格言により、満たされた酒で全員が酔うように、神の怒りの酒がすべての民に及ぶと警告されます(12-14)。闇が来る前に、絶望が来ないうちに、高ぶりを捨て、主に立ち返るように招きます(15-17)。王に悔い改めを迫ります(18-19)。親しい友と思っていたバビロンによる侵略が訪れようとしています(20-22)。民は変わろうとしない。いやできません(23-24)。主を忘れ、偽りにより頼み、不品行に耽ったゆえに、ユダは恥を見ます(25-27)主の近くにおかれながら、主に逆らうものは誰でしょうか。
エレミヤ書 14章
干ばつがユダを襲い、町も、野山も、動植物も哀れな叫びをあげます(1-6)。エレミヤは民の一人として罪を認め、さばきを受けとめながらも、なお望みの主、苦難の中の救い主である主に、あなたの民をあわれんでくださいと叫びます(7-9)。主とエレミヤの対話が続きます。主は民のためにとりなすなと語られると、エレミヤは預言者たちが平安を約束していると答えます。すると主は、彼らは偽預言者で、わたしが遣わしたのではなく、偽りの平安を語っていると答えられます。そして滅びが訪れるゆえに、悲しみの涙を流すことを語られます。それは主の嘆きでもあります(10-18)。しかしなおも、エレミヤは民のために祈ります。あなたはユダを完全に退け、嫌われたのですか。確かに私たちは罪人です。しかしあなたの栄光のため、契約のゆえに、あなたを待ち望みますと(19-22)。私たちはどれほど同胞を思い、世界を思い、涙を流し、とりなしの手を挙げているでしょうか。
エレミヤ書 15章
前章に続き主は、モーセ、サムエルがとりなしても変わらないと語ります。民は剣、飢饉、捕囚といった厳しいさばきに定められています。それはマナセ王(前7世紀)より続く偶像礼拝の罪によると言われます。主を捨てた民は忘れ去られ、捨てられます。彼らは生き方を変えなかったからです(1-9)。主の宣告を語るエレミヤは民から非難され、痛んでいました(10)。主は、あなたを解き放つと約束し、バビロンでの捕囚について語られます(11―14)。エレミヤは、思い起こし、顧みてください。御言葉が楽しみ喜びとなりました。聞こうとしない民の姿に傷ついています、と祈ります(15-18)。主は、もう一度、働きに帰り、神の口として民に語り、民がその言葉に帰ってくるようにせよと語られます。そしてエレミヤを堅固な城壁のように決して誰も打ち破ることができないものとし、彼を救い、助けると約束されます(19-21)。主のことばを語り続けるものを主は必ず守り、支えます。
エレミヤ書 16章
主は妻子を得ること、葬儀、宴会に集うなと言われます。それは、主の厳しいさばきが襲い、すべての家に死者が出て、それを悼むこともできず、楽しみが絶えるからです。それは主の平安、恵み、あわれみが去ったからです(1-9)。民が、なぜこのようなことが起きたのかと問うなら、それは先祖が偶像礼拝、主を捨て、主の律法を守らなかったこと、いや先祖以上にあなたがたが悪い心で歩んだからだと答えられます。それゆえ彼らは他国へ散らされます(10-13)。しかし、やがて、彼らは出エジプトの出来事に代わって、バビロン捕囚からの帰還を経験することにより生ける神を知り、そのことを語り継ぐようになるとの回復も語られます(14-15)。しかし民は捕囚を通して徹底したさばきを通されます(16-18)。最後の部分は、諸国の民も罪を告白し、力、砦、逃れ場なる生ける神を知る日が来ると語られます(19-21)。主によるさばき、痛みは自らの罪と生ける神、主を知らせます。
エレミヤ書 17章
ユダの罪は心の板に刻まれ、明確であると語られます。それは偶像礼拝の罪であり、彼らは捕囚というさばきを受けます(1-4)。主は語られます。人に頼る者はのろわれ、主に頼る者は水のほとりに植えられた木のように祝福を得る(5-8)。人の心はねじ曲がり、神はその心を見極め、その行いに報います(9-10)。エレミヤは、主なる神は正しいさばきをなし、栄光の王、いのちの泉なる神を捨てる者は恥を見ると語ります(11-13)。そして、私を癒やし、お救いください。人々があなたのことばを蔑み、私を責めてもあなたに従ったことを祈ります。主の正しいさばきを祈ります(14-18)。主はエレミヤを指導者たちのもとに遣わし、主が命じられた安息日を聖なる日として守るならば、エルサレムは祝福を受け、そうしないならさばきを受けると語られます(19-27)。主は人の心をご存じです。また聖日を誠実に過ごしているか。主を離れた現実がないかを主に前に問われます。
エレミヤ書 18章
エレミヤは陶器師が粘土の器を壊し、再び作り替える様子を見せられ、神もまたイスラエルをそのように民を扱うと語られます。しかし神は悔い改めるなら思い直されるお方です。それゆえ、悪の道から立ち返り、生き方を悔い改めるように語られます(1-11)。しかし彼らは立ち返ろうとしないゆえに主は語られます。レバノンにあるヘルモン山の雪は消えないが、彼らは忘恩の民であり、契約を破る民にはさばきが告げられます(12-17)。民は自分たちに都合の良いことを語る者たちを盾に神のことばを告げたエレミヤを亡き者にしようとします(18)。心痛めながらエレミヤは主に祈ります。その祈りは、一見すると個人的な恨みつらみ、復讐の祈りのようですが、それは神に対して不信仰な民への主の痛みの代弁となり、それゆえの民への厳しいさばきのことばとなります(19-23)。主は陶器師、主と心を一つにして痛み、人の反応を恐れず、神のことばを真っすぐに語っているだろうか。
エレミヤ書 19章
エレミヤは高価な焼き物の瓶を買い、数人の証人を伴いエルサレム南西のベン・ヒノムの谷に向かいます。そこは神が忌み嫌うことが行われた場所でした(Ⅱ歴33章など)。そのトフェテとも呼ばれる谷は虐殺の谷とも呼ばれるようになり、そこでの罪深い行為は打ち砕かれ、人々は敵や獣に襲われ、恐怖、あざけり、窮乏が都を覆うとエレミヤは叫びます(1-9)。さらにエレミヤは瓶を打ち砕くという象徴的な行為を示しながら、主が民と都を打ち砕き、そして死体が溢れると宣言します。それは、ヨシヤ王がトフェテを汚し、偶像礼拝をできないようにしたにもかかわらず(Ⅱ列23章)、なおも民も、指導者も態度を変えなかったからです(10-13)。エレミヤはトフェテから戻り、神殿の庭で、民が頑なで、主のことばに聴かなかったゆえにわざわいが訪れると宣言します(14-15)。砕かれた瓶は戻りません。神の悔い改めへの招きを拒み続けるならば、やがて厳しいさばきが訪れます。
エレミヤ書 20章
前章のエレミヤの預言を受け、祭司パシュフルはエレミヤを打ち、留置します。エレミヤは彼に恐怖が取り囲み、バビロンによる捕囚をはっきりと語ります(1-6)。エレミヤの祈りは、主のことばを語ったゆえに苦しみを受けている自らの境遇を神に訴えます。それでもなお、主のことばは心の内に燃える火のようであってしまっておくことはできないと告白します(7-9)。人々はエレミヤがつまずくことを待ち構えていますが、エレミヤは主がともにいるゆえに、それは成功せず、主のさばきに委ねます。エレミヤは主の前にへりくだる者を主は救い出されると告白します(10-13)。その後も、憂き目に会いながら、何度もエレミヤは自らの境遇を訴えたのでしょう。時には労苦の多い自らの人生を嘆き、この世に生を受けたことをのろうほどでした(14-18)。迫害の中、嘆いては、賛美に変わり、また嘆きます。私たちも神様に嘆きをぶつけることができます。主は聞いてくださいます。
エレミヤ書 21章
バビロン侵攻が起こり(前605年)、前王の捕囚(前597年)の後に即位したゼデキヤ王が、かつての奇跡的なみわざ(参:Ⅱ列19章)を求めて、エレミヤに使者を遣わした時の預言です(1-2)。主はエレミヤを通して、外に向けている武具が内側に、すなわち敵が侵入することを語られ、さらに主の激しい怒りのために、城内では人から家畜に至るまで疫病が流行すると語られます。そしてそれを逃れた者たちも敵の手に渡されるという神による徹底的なさばきが語られます(3-7)。それゆえに二つの道が迫られます。エルサレムにとどまり死に向かうか、主のことばに従いバビロンに捕囚となって生きるかです。南ユダの王たちは正義を行わなかったゆえに、主の憤りの火が襲い(8-12)、また、この難攻不落の町に誰が上ってこようとの高ぶりとその行いのゆえに彼らは罰せられ、都エルサレムも火で焼かれると語られます(13-14)。私たちは何を誇り、何に聞いているでしょうか。
エレミヤ書 22章
三代に渡る南ユダの王の名が登場します。エレミヤはエルサレムの王宮で、公正と正義を行うように語り、主のことばを忠実に行うならば祝福が、聞き従わないならさばきが起こると語ります。ユダはレバノンの杉のような価値ある存在でありながら、不従順の刈り取る実は廃墟、破壊です。他国はそれを見て、主に仕えなかったからだと語ります(1-9)。王エホアハズ(シャルム)はエジプトに連れて行かれ、引いて行かれた者たちは帰ることができません(10-12)。弱者を踏みにじり、贅を尽くし、不義を行う者たちにはわざわいが訪れます。王エホヤキムはバビロンに引いて行かれ、悲惨な最後が預言されます。神の声に聞き従わないユダ王国の姿、その悪のゆえに彼らは苦しみます(13-23)。王は神に代理人のような存在ですが、王エホヤキン(エコンヤ)取り外され、バビロンの手に渡され、ダビデ王家は彼で断絶します(24-30)。何がそのような結果を招いたのでしょうか。
エレミヤ書 23章
群れを牧さなかった指導者たちへの叱責、しかし残りの者たちに真の牧者が起こされます。それは捕囚からの回復を超えて、終末の時代のダビデの若枝、救い主の誕生と回復の預言に向かいます。出エジプトの出来事を超えて記憶されます(1-8)。エレミヤを通して預言者や祭司に対する主の激しい怒りが語られます(9-14)。預言たちは汚れを広め、勝手な幻を語り、偽りの平安を告げ、神のことばに聴きません。それゆえ主の憤りが彼らに臨みます(15-20)。主は彼らを遣わさなかったにもかかわらず走り続け、主との交わりを持ちません。しかし神は天にも地にも満ちておられるお方です(21-24)。さらに偽預言者たちは夢を見たと偽りの夢を語ります。しかし主のことばは火、岩を砕く金槌のように偽りを打ち砕きます。主の宣告【マサ】と言って、偽り、都合よく曲げて語る者たちは、主の重荷【マサ】であり、罰せられます(25-40)。主のことばを真っすぐに語り、聞いているか。
エレミヤ書 24章
ユダの王エコンヤ(エホヤキン)たちがバビロンに捕囚されたのは前五九七年頃(第二回の捕囚)と考えられます。エレミヤは神殿の前で二かごのいちじくの幻を見せられます(1-3)。一方の良いいちじくはバビロン捕囚となった民を表していました。主は彼らに目をかけ、彼らはやがて帰還し、建て直されます。それは捕囚を通して、心のすべてをもって立ち返り、主を知る心を与えられ、神の民とされるからです(5-7)。しかし、もう一方の悪いいちじくは、ゼデキヤ王たち、捕囚を逃れ、ユダに残ったり、エジプトに逃げたりした者たちです。一見賢く見えた彼らは恥を見、剣や飢饉、疫病で滅ぼされます(8-10)。普通に考えればバビロンへ捕囚となったものたちの方がさばきを受け、残った者たちが神のあわれみを受けた者のように思えます。しかしそうではありませんでした。それは神に立ち返るための機会でした。目に見える状況はどうであれ、主に従う者に神の目は注がれます。
エレミヤ書 25章
ユダの王エホヤキムの第四年(前605)に、エレミヤはここまでの二十三年を振り返り、主のことばを語ります(1-2)。悪の道から立ち返り、偶像礼拝から離れるように語り続けたにもかかわらず聞き従わない民(3-7)、それゆえ万軍の主は、バビロンを用いて彼らを攻め、ユダの地は廃墟となり、彼らはバビロンに仕えることになります(8-11)。しかし七十年が満ちる時、そのバビロンも罰せられます。主のことばは実現します(12-16)。さらに、主の怒りの杯はすべての国民を襲い、西のエジプトから始まり東のバビロンまで、東西南北にある様々な国々の名が挙げられます(17-26)。その杯を全世界の住民が必ず飲むことになります。そのさばきを免れる者は誰もいません(27-29)。主の声は全地に響き渡り、羊、牧者が若獅子によって荒らされるように主のさばきが襲います(30-38)。誰も主の怒りの杯から逃れられません。しかし、主は私たちのためにその杯を飲み干されました。
エレミヤ書 26章
この書の後半に入ります。七章と関連してエレミヤ逮捕の記録です。時は、ユダの王エホヤキムの第一年(前609)、主はエレミヤに神殿の庭で一言も省くことなく語るように命じます。律法に従わないならこの場所もサムエル時代に滅びたシロのようになります(1-6)。宗教的指導者はそのようなことを語るエレミヤは死ななければならないと彼を捕らえます(7-11)。エレミヤは裁判の席で、主が私を遣わし、悔い改めと主の声に従うことを求め、私の血の責任はあなたがたに帰ると語ります(12-15)。長老たちは、百年ほど前、預言者ミカを通してヒゼキヤ王が悔いたことに思いを重ねます(16-19)。ところで、ウリヤという人物もエレミヤと全く同じこと預言し、エジプトに逃亡しましたが、彼は殺されます。しかし、エレミヤはアヒカムによって助け出されることが記録されています(20-24)。いつの時代も、主のことばを語るのは容易ではありません。そして、各々の召しがあります。
エレミヤ書 27章
この章は二十八章とあわせて、エホヤキムの次々王ゼデキヤの治世の時とも考えられますが、エレミヤは象徴的行動をとります。首に縄とかせをつけて、イスラエルと反バビロン同盟を組もうとする五人の周辺諸国の王に、バビロンに服することが主のみこころであると告げます。しかしそんなことはありえないという預言者たちの声が響きます(1-11)。同じことばは南ユダの最後の王ヒゼキヤにも語られますが、彼は聞かず、偽預言者と共に追い散らされ、滅びと言われます(12-15)。また祭司や民に向かって、先に運ばれた(前597年頃のエホヤキン王の時)主の宮の器は、すぐに戻ると語る預言は偽りで、免れた器もバビロンに持ち去られ、主が顧みる日までそこにとどまると語られます。しかしやがて主ご自身が、それを元に戻されます(16-22)。主のことばは、どんなに厳しく、耳あたりが良くなくても語られなければなりません。そこにはさばきと共に主にある回復の約束もあります。
エレミヤ書 28章
前章に続いて、ゼデキヤ王の第四年(前593頃)、エルサレムの北にある祭司の町ギブオン出身の預言者ハナンヤは二年の内にバビロンに運ばれた(前597頃)神殿の器は戻され、捕らわれたエコンヤ(エホヤキン)王をはじめ捕囚の民は帰ってくると希望のメッセージを語ります(1-4)。それに対してエレミヤは私もそれを願うが、預言者の言葉は実現してこそ主が遣わされたことが分かる(申18:22)と答えます(5-9)。それに対してハナンヤはエレミヤが象徴的につけていた首の木のかせを砕き、解放とバビロンの滅びを宣言します(10-11)。主はエレミヤを通して、木でなく鉄のかせに、野の生きものさえもバビロンに仕えるといっそう厳しい状況を語ります。そしてハナンヤは偽りを語ったゆえに死が宣告され、それが起こります(12-17)。人が喜ぶことを語りたいと願います。しかし、神に聞き、たとえ厳しい言葉であっても主のことばを語り、そして聞かなければなりません。
エレミヤ書 29章
エレミヤはエホヤキン王らバビロンに捕囚となった人々に手紙を送り、そこで家を建て、落ち着いて生活し、その町の平安を祈り(1-7)、捕囚はすぐ終わるという言葉に惑わされず(8-9)、主の計画はわざわいではなく平安を与える計画、将来と希望を与えるもの、主を求めるなら見出し、七十年の時が満ちる時に帰ることができると伝えます(10-14)。むしろ、捕囚を逃れ、エルサレムに残ったものたちには剣、飢饉、疫病が襲い(15-19)、偽りの預言者はさばかれます(20-23)。時に、シェマヤはエルサレムにいる祭司ゼパニヤらに、捕囚の地にとどまるように語るエレミヤをなぜ捕らえないのかと手紙を送ります。それに対して、主のことばがエレミヤに臨み、シェマヤと彼に属する者は厳しくさばかれると語られます(24-32)。私たちの目には問題のように見えても、神様の平安の計画、将来と希望あることを信じ、待ち望み、その所の祝福を祈り、落ち着いて生活しましょう。
エレミヤ書 30章
主はエレミヤに、南北王国の回復の約束を書き記すように語られます。そしてこの預言は捕囚からの解放という近い将来を超え、遠い終末の時代の回復にまで目を向けます(1-3)。実に苦難の日は救いの日となります。やがて、捕囚は終わり、帰って、平穏に住みます。主がともにいて救われます。さばきは懲らしめのためのものです。「彼らの王ダビデ」(9)は真の王に向かいます(4-11)。さばきは罪のゆえであり、確かにその傷は痛むが、それは懲らしめのためです。かつて同盟を結んでいた国々も離れます。しかし神は、彼らの傷をいやし、彼らを傷つけた者たちから救い出され、町は再建されます(12-18)。彼らは感謝の歌を歌い、喜びの笑い声が湧き上がります。民の数は増え、彼らは神の民となり、主が彼らの神となられます。一人の人が立てられ、契約が回復します。主の憤りは悪者の上にくだり、それを成し遂げます(19-24)。さばきの日は、同時に回復と慰めの時です。
エレミヤ書 31章
三十章に続き、慰めの預言です。残りの民は休息を得ます(1-2)。神の永遠の愛(3)、誠実さ、イスラエルの回復、残りの民が喜びの涙を流し、帰ってきます(4-9)。主は、回復を与え、悲しみを喜びに、嘆きを慰めに変えられます(10-14)。捕囚で子を奪われた母の悲しみ(15)がイエス誕生の時の出来事に重なります(マタ2:17-18)。やがて涙が報われ、将来へ希望、主のあわれみの深さ(20)、さらに神は民の悔い改め待ち、すべてを新しくされます(15-22)。南ユダの回復、疲れた魂が潤されます。両王国の地の産物は祝福され、民が増え、正しいさばきがなされます(23-30)。新しい契約が結ばれ、それは心に刻まれ、主が彼らの神、彼らはその民、民は主を知るようになり、咎を赦され、罪は思い出されません(31-34)。神の約束は必ず実現し、神は民に誠実を尽くされます(35-40)回復の預言は、歴史の内に、そしてやがて完成を見ることを待ち望みつつ、主の愛と誠実を覚えます。
エレミヤ書 32章
ユダの王ゼデキヤの治世第十年(前587年頃)、エルサレムがバビロンに包囲された時、エレミヤは、町の滅びを語り、町を出ようとしたため(37章)、監禁されていました(1-5)。その中で、エレミヤは故郷アナトテの土地を買い戻すという象徴的行為を通して、奪われた土地がやがて再興されることを確証します(6-15)。エレミヤは、主がどのようなお方で、そのお方がイスラエルに注がれた恵み、しかし民の不従順のゆえに、捕囚となったこと覚えて祈ります(16-25)。それに対して主が応えられます。神にとって不可能なことはなく、イスラエルの全国民の悪ゆえに町はバビロンに攻められ、さばかれます(26-35)。しかし、後に彼らは帰って来て、安らかに住まいます。主は彼らの神、彼らはその民となり、永遠の契約を結びます。主の真実がそれを実現します(36-41)。主はわざわいとともに、幸いをもたらされます。地が回復します(42-44)。さばきさえも祝福のためです。神様の真実は変わりません。
エレミヤ書 33章
三十章から始まった慰めの預言の最後の部分で、なおもエレミヤが監視の庭にある時に、主は語られます(1)。創造主なる神を呼ぶ時、理解を超えた大いなることが民に告げられます(2)。その罪ゆえに破壊されたエルサレムは、回復し、癒やされ、平安と契約への真実が示されます(3-9)。主は咎を赦し、その都はすべての国の間で喜びとなり、廃墟となった場所は感謝と喜びに溢れます。町々の家畜もまた回復されます(10-13)。この預言は、終末のメシアによる統治の預言ともなります。主はイスラエルをあわれみ、契約を果されます。義の若枝なるお方が芽生え、公正と義が行われます。ふさわしい礼拝がささげられ、いけにえは絶たれません(14―17)。自然の秩序が破られないように、ダビデの契約は破られないと契約に対する主の誠実さが強調されます。そして、南北両王国が一つとされ、その契約にあずかります(19-26)。主の語られることばは実現し、将来を約束するものです。
エレミヤ書 34章
この章から三九章までエルサレム陥落の経過が記録されます。バビロン軍が南王国を攻めた時、主はエレミヤに語られます(前588年頃)。王ゼデキヤは捕囚となりますが、平安の内に死を迎え、エルサレムに葬られます。エレミヤはそれを王に伝えます(1-7)。王は律法に従い奴隷の解放を宣言し、民もそれに同意し約束します。しかし、一息つくと、その心を翻しました(8-11)。それゆえ、主のことばがエレミヤを通して語られます。七年の終わりに同胞を自由の身にするというのは律法の規定であり、それを破っている上に、ここではその契約を一旦は約束しながら、その心を翻しました(12-16)。それゆえ、主はさばきを下されます。契約の時に裂かれた動物の間を通り、契約を破るならそのようになると誓うように、一旦は退却したバビロン軍が再び攻め込み、ユダの町は荒れ果てます(17-22)。誰かを支配し続けていないか。約束を交わしたことに誠実に生きているか。
エレミヤ書 35章
エルサレム陥落の少し前のエホヤキム王の時代(前589年頃)、エレミヤは、エルサレムに避難していたケニ人の子孫のレカブ人の下に行って、主の宮で酒を勧めるように神から命じられます。しかしレカブ人たちは先祖ヨナダブ(Ⅱ列10:15、Ⅰ歴2:55)の教えに従い酒を飲むことを拒否します(1-11)。主はそのレカブ人たちの姿を象徴的行為として語られます。すなわち彼らが約二百五十年前の先祖ヨナダブの教えに聞き従って歩んでいるのに、ユダの民は、何度も預言者を通して、悪の道から立ち返り、悔い改めて、偶像礼拝から離れるように神に語られたのに聞かなかった。それゆえに、ユダの全住民にはわざわいが降る(12-17)。しかし、レカブ人の家の者たちは、神に用いられる人がいつまでも絶えることがない(18-19)。誰かのことばによって、神への信仰、信念、生き方を揺るがしていないだろうか。私にとって揺るがしてはならない神からのゆずり、約束はなんだろうか。
エレミヤ書 36章
二十五章に続き、ユダの王エホヤキムの第四年(前605年頃)に主はエレミヤを通してユダの民の姿を書き記し、それによって民が悪から立ち返るならば彼らの咎と罪を赦すと語られます。エレミヤの言葉をバルクは巻物に記録し、軟禁状態にあったエレミヤに代わりバルクが民に読み聞かせました(1-8)。ミカヤ及び首長はそのことばを恐れ、王に報告しますが、エレミヤとバルクには身を隠すように伝えます(9-20)。王はその巻物の言葉を聴きますが、読み終えるごとに、その部分を暖炉でももやし、すべてを焼き尽くします。王も、その家来も主のことばを恐れず、悔い改めようとしませんでした。それどころか、エレミヤとバルクを捕えようとしました(21-26)。主はエレミヤに同じことに加えて、更なることばを巻物に書くように命じ、王にはさばきが訪れ、子孫が絶えると語られます(27-32)。神の語られることばに対して、私たちはどのような態度で臨んでいるだろうか。
エレミヤ書 37章
この章は三十四章に続く出来事で、ゼデキヤ王はバビロンを裏切り、エジプトと手を組みます。その結果、バビロンから攻撃を受けますが、エジプトの北上により一時的にバビロンが撤退した頃(前588年頃)です(1-2)。第一にゼデキヤ王はエレミヤに祈りを要請し使者を遣わします。主は、バビロン軍は引き返して来て、エジプト軍は退却し、都は火で焼かれると語られます(3-10)。第二の出来事は三十二章のアナトテの土地購入と関連するのかもしれませんが、エレミヤがエルサレムの外に出ようとすると、バビロン軍に降伏すると間違えられ、捕まり、地下牢に入れられました(11-16)。しばらくして、バビロン軍が、事実、引き返してきたためか、ゼデキヤ王はエレミヤに人を送ります。エレミヤは「そんなことはない」と語った偽預言者たちを糾弾し、王はエレミヤを安全な監視の庭に移しました(17-21)。神を都合よく利用し、主のことばを自分都合で聞く態度がないだろうか。
エレミヤ書 38章
首長たちは、監視の庭におかれたエレミヤが語る主の厳しいさばきのことばによって、民の士気がくじかれたゆえに、彼を死刑にするようにゼデキヤ王に願います。エレミヤは水ための穴に投げ入れられました(1-6)。しかし、エベデ・メレクのとりなしにより、エレミヤは助け出されます(7-13)。王は決断がつかず、再びエレミヤに尋ねますが、エレミヤのことばは変わらず、バビロンに降伏するなら、エルサレムは守られ、あなたも生きながらえる。しかし、そうしないなら、都は滅び、あなたも生きながらえないと語ります。それでもなおも自分の身を案じる王に、エレミヤは、主の御声に聴き従うなら幸いを得、生きながらえるが、拒むなら、厳しいさばき、捕囚について語ります。結局、王はこの対話のことを口止めし、エレミヤを監視の庭に留め置きました(14-28)。自分に都合の悪いことには耳を閉ざし、従おうとはしない姿がないでしょうか。主の御声に聴き従いましょう。
エレミヤ書 39章
ゼデキヤの第九年(前588年)、バビロンのネブカドネツァルはエルサレムを攻め、二年後、都は陥落します。都にとどまらず闇夜に乗じて逃亡したゼデキヤ王は捕らえられ、ダマスコに近いリブラに連行され、目の前で子たちは殺され、目をつぶされ、バビロンに連行されました。その後、エルサレムは火で焼かれ、民もバビロンに連れていかれ、一部のものだけがエルサレムに残されました(1-10)。ネブカドネツァルは、エレミヤに目をかけ、監視の庭から連れ出し、後にユダの総督となるゲダルヤ(40:7)に委ねます(11―14)。ゲダルヤの父も、かつてエレミヤを助けた人でした(26:24)。前にエレミヤを助けたエベデ・メレク(38:7-13)も、主に信頼し、エルサレムにとどまり、助けを得ます。それはすでに預言されたことで、主はエルサレムにわざわいをくだすが、主に信頼する彼を助け出されます(15-18)。主のことばは必ず実現し、主と主のことばに信頼する者は救いを得ます。
エレミヤ書 40章
エレミヤはゲダルヤのもとに送られるはずでしたが(39:14)、はっきりした理由は分かりませんが捕囚民が集められるラマに移送されていました。それに気づいたバビロンの親衛隊の長ネブザルアダンはエレミヤに選択肢を与えます。エレミヤはミツパのゲダルヤのもとに向かい、そこで民と住むことを選びます(1-6)。その地の総督に任命されたゲダルヤのもとにモアブ、アンモン、エドムなど各地からも民や将校たちが集まってきました。ゲダルヤはバビロンに仕え、生きるようと、新バビロン政策を掲げます(7-12)。ゲダルヤは、反バビロンのアンモン人の王が、ダビデの王族の一人イシュマエル(41:1)を通してクーデターを計画しているとの知らせを受けますが、彼はそのことを真剣に取り合いませんでした(13-16)。選択の難しさがあります。どんなに助言や情報を得ても、その判断を誤れば意味をなしません。どうすれば、主の御声に聴き、正しい判断ができるでしょうか。
エレミヤ書 41章
バビロンによりユダの総督に任じられた王族でないゲダルヤは、ヨハナンの助言を軽んじ、僅か三カ月で、アンモン人と結託したダビデの王族のイシュマエルによって、ミツパで殺されます。さらにイシュマエルはカルデヤ人(バビロン)の兵士を殺しました(1-3)。イシュマエルは、エルサレムの崩壊を嘆き、巡礼に来た礼拝者たちも、一部を残して殺害し、穴に投げ込みました。そして、ミツパにいたゲダルヤのもとに集まった残りの民を捕らえ、アンモン人のところに連行するため出発しました(4-10)。この知らせを聞いたヨハナンは、ギブオンでイシュマエルと戦い、捕らえられた民の反乱もあって、イシュマエルは僅かな者たちと逃れました(11-15)。ヨハナンは、バビロンからの報復を恐れて、エジプトへ逃れるため、ミツパからベツレヘムの近くへ向かいました(16-18)。昔も、今も、指導者たちの行動は民に大きな影響を与えます。リーダーのために祈りましょう。
エレミヤ書 42章
イシュマエルのクーデターの後、バビロンの報復を恐れたヨハナンらはエジプトに向かおうとします。そこで、預言者エレミヤにとりなしの祈りを求め、主のみこころを求めます。彼らは、それが良くても悪くても、幸せを得るために、主の御声に従いますと告白します(1-7)。十日後、主の御声がエレミヤに臨みます。この地にとどまれ、バビロンを恐れるな、主があなたがたを救い、あわれみ、あなたがたを、あなたがたの地に帰らせる。しかしエジプトに下るなら、その地で、剣と飢饉と疫病であなたがたは死ぬと語られました(8-18)。しかし、主の答えを待ちきれなかったのか、ヨハナンらはすでにエジプトに下ることを決めていました。それゆえ、主は、彼らがエジプトで、その語られた通りにさばきを受けると語られました(19-22)。主の答えを待てず、一時の安定に向かうのか。困難の中にもとどまり、主の声を待つのか。主のみこころを求め、聞き従うことができますように。
エレミヤ書 43章
エレミヤが「エジプトに行ってはならない」と主のことばを告げた時、主のことばを求めたヨハナンをはじめ高ぶった者たちは、エレミヤは書記バルク(36:4)にそそのかされたのだと、その言葉を否定し、主の御声に聞き従いませんでした。エレミヤを含む、殺されたユダの総督ゲダルヤのもとに集まってきた人々はエジプトに向かうことになりました(1-7)。エジプト東部のタフパンヘスで主はエレミヤに、象徴的な行為を命じられます。エレミヤは、石を取り、ファラオの宮殿の入り口の敷石の漆喰の中に隠します。その上に、バビロンのネブカドネツァル王が陣営を張る時(前567年)、主のことばは必ず実現することが知らされます。その時、主によって、死に、捕囚に、剣に定められた者たちはそのようにされ、エジプトの神々は打ちのめされます(8-13)。主の定められたことは必ず成就します。主のことばは真実です。私たちはそのことばにどのように応答するかが問われます。
エレミヤ書 44章
エジプトに逃れた民にエレミヤを通して主は語られます。彼らは偶像礼拝、預言者に聞かず、悪から立ち返らなかったゆえに、エルサレムは廃墟となりました(1-6)。そして、エジプトに下った者たちも、偶像礼拝を続けるゆえに、ユダの地に帰る者はわずかしかいないと告げられます。特にこの章では女たちの偶像礼拝の姿が強調されます(7-14)。すると民は、エレミヤに逆らって、自分たちの言葉に従い、偶像に仕えている時の方が幸いだったと答えます(15-19)。しかしエレミヤは、あなたがたにわざわいが起きたのは偶像礼拝をやめたからではなく、そもそも、主のことばに聞き従わず、神を離れて、偶像礼拝に陥ったからだと語りました(20-23)。さらに主は、あなたがたは自分がしたいようにせよと語り、主は、わざわいが起こることを見ており、彼らは滅び、主のことばが成就することを知ると語ります(24-30)。自分の言葉に従う結果、本末転倒となる人の姿を覚えます。
エレミヤ書 45章
時間的には三六章に続くものと思われ、おそらくエレミヤに仕えたバルクが回顧し、記録しました。この章で一つの区切りを迎えます。ユダの王エホヤキムの第四年(前605年、36:1)、バルクがエレミヤの口述筆記をしていた時のこと(1)、バルクは、痛みに悲しみが加わり、嘆き疲れ、憩いを見出せないと告白します(2-3)。その時、彼らは王から逃れ、身を隠さなければなりませんでした(36:26)。そんなバルクに対して、主が建て、植えたイスラエルは、主によって壊され、引き抜かれる。バルクはエレミヤのことばで民が悔い改め、さらに自分の立場もよくなることを夢見ていたかもしれません。しかし、大いなることを求めるなと言われました。なぜなら、わざわいが訪れるからです。しかし、あなたのいのちは戦利品として与えられると、戦いでいのちを落とさないと約束されました(4-5)。語っても聞かれない時に苦しくなります。しかし主の悲しみはそれ以上です。
エレミヤ書 46章
この章からしばらく諸国に対する主のことばが続きます。まずはエジプトについての預言です。エホヤキムの第四年(前605年、25:1)に起こるエジプトとバビロンのカルケミシュの戦いの預言です。エジプト軍はユーフラテスまで攻めますが、退却します。クシュ人らの援軍を受けて再び攻めますが、それもつまずき、倒れます。なぜなら、万軍の主がさばかれるからです(1-12)。戦いに勝利したバビロンは、さらにエジプトにまで攻めます。逃げ惑うエジプトの様子が預言されます(13-24)。主は、エジプトの神々とそれに従う者を罰します。エジプトはバビロンに服従しますが、それは一時のことと預言されます(25-26)。その中にあって、主の民、イスラエルは、やがて救われ、帰って来て、平穏に生きると語られます。それは主がともにおられ、敵は滅ぼされるからです。しかしイスラエルは滅ぼし尽くされません(27-28)。主の民は、懲らしめられても、滅ぼし尽くされません。
エレミヤ書 47章
前章に続く周辺諸国への預言の第二はペリシテ人に対するさばきです。時は、エジプトのファラオがパレスチナに進軍した際、ガザの一部を攻撃した出来事(前609年頃)の前と思われます(1)。預言の内容は、それより後の、ペリシテがバビロン軍によって打たれた出来事(前604年頃)の預言と思われます。その進軍の様子は川の氾濫にたとえられ、父は気力を失い、子どもたちは顧みられません。ツロ、シドンはもちろん、地中海のカフトルの島(クレテ島)の彼らの同胞にも破滅が及びます。ガザ、アシュケロンといった主要都市には悲しみが襲います(2-5)。ペリシテ人は、バビロンを通してなされる主のさばきの剣が収まることを願いますが、そのさばきはやむことがないと語られます(6-7)。ペリシテのさばきに用いられたバビロンは主の剣に過ぎません。すべての国々は主の御手の内にあります。主のさばきは厳しいものです。私たちも主のさばきに備えましょう。
エレミヤ書 48章
周辺諸国への預言の第三は死海の東、ロトの子孫モアブに対するさばきです。モアブはバビロンに破壊されます(前581年頃)。モアブの町々から嘆きが起こります。彼らはケモシュなどの「偶像」に頼り、また「富」を誇りました。主のみわざは誰にもとめられません(1-10)。モアブが平和であった様子が、寝かされた酒にたとえられます。しかし、それは空にされます。イスラエルがベテルで偶像礼拝のゆえにさばかれたのと同様です(11-13)。彼らの誇りとする「力」は役に立ちません。さばきが次々と町々に及びます(14-25)。彼らのさばきは、彼らの「高ぶり」のゆえです。彼らはイスラエルの滅びを他人ごとの様にあざ笑いました。そんなモアブのためにもエレミヤは嘆きますが、神の厳しいさばきがモアブに臨みます(26-39)。バビロンは鷲のようにモアブを襲います。偶像の民は滅びますが、回復の希望が約束されます(40-47)モアブの罪は、私たちの内にも存在しないだろうか。
エレミヤ書 49章
周辺諸国への預言が続きます。ここには五つの諸国が語られます。第四はヨルダン川の東、ロトの子孫アンモン人に対するさばきです。首都ラバをはじめ、町々の破壊が語られます。彼らは水源を誇り、財宝により頼んでいました。しかし、やがて回復するとも語られます(1-6)。第五は、エサウの子孫、死海の南にあったエドムへのさばきです。町々に恐怖が襲います。彼らは岩山の要害に住み、高慢となっていましたが引きずりおろされます。それは主の計画です(7-22)。第六は、シリアのダマスコへの宣告です。かつてはイスラエルの領土でもありました。この町もバビロンの手に落ちます(23-27)。第七は、アブラハムの子イシュマエルの子孫で、イスラエルのはるか東のケダルとハツォルへのさばきです(28-33)。第八は、ペルシャ湾の北のエラムに対するさばきです。エラムも、モアブやアンモン同様に、終わりの日の回復が語られます(34-39)。主は世界の歴史を支配する神です。
エレミヤ書 50章
諸国への預言の第九、最後にカルデヤ人すなわちバビロンへのさばきが次章まで続きます。諸国のさばきの器として用いられたバビロンもまた主によってさばかれます。偶像ベル(別名メロダク)は打ち壊されます。バビロンのさばきはイスラエルの悔い改めにつながります。バビロンは北からペルシャに攻められます(1-13)。主はバビロンを攻撃する者に呼びかけます。主の復讐です(14-16)。そして、散らされたイスラエルの残りの民は回復され、その罪が赦されます(17-20)。バビロンへの刑罰は、その高ぶりのゆえです。そしてイスラエルを贖う方は力強い、万軍の主です(21-34)。バビロンは剣によって、徹底的に滅ぼされます(35-40)。そして南ユダ王国(6:22-24)やエドム(49;19-21)に語られたようにバビロンの娘たちへのさばきが語られます。これはすべて、主の練られた策、計画です(41-46)。神こそまことの支配者です。このお方の前にへりくだりましょう。
エレミヤ書 51章
前章に続いてバビロンへのさばきが語られます。バビロンのさばきは、主の民の希望となり、万軍の主は彼らを見捨てません。バビロンを癒やすものはありません(1-10)。さばきの器はメディア(またペルシャ)です。主は万物を造られたお方であり、主の計画は確かで、人間が作った偶像はむなしいものです(11-19)。バビロンは主の道具に過ぎずません。しかし、彼らはイスラエルに行った悪のゆえに、その報いを受けます。バビロンは徹底的に、必ず倒されます(20-44)。しかし、主の民はそこから救われ、出立せよと命じられます。主を思い出し、神に立ち返れと語られます。バビロンがどんなに高い建造物で力を誇っても、主の報復の前に立ちえません。万軍の主こそ、まことの王です(45-58)。この預言はゼデキヤ王の第四年(エルサレム陥落前)に語られ、その巻物を水に沈め、バビロンの姿を象徴しました(59-64)。主のことばは確か、兵どもが夢の跡。真の王、主を見上げよう。
エレミヤ書 52章
前章まででエレミヤの預言が終わり、この章は付録のようなとして、エレミヤの預言が実現した事が記録されます(参:Ⅱ列24-25章)。南ユダ最後の王ゼデキヤについて、神への姿勢(1-3)、バビロンに反逆し、包囲され、捕らえられ(4-9)、息子たちが目の前で虐殺され、目をつぶされ、バビロンへ捕囚されました(10-11)。エルサレムは焼かれ、陥落し(前586年)、技術者たちは連行され(12-16)、主の宮にあった祭儀の道具も運び出されました(17-23)。バビロンの親衛隊長ネブザルアダンにより、指導者たちは捕えられ、バビロンの王ネブカドネツァルのもとで打ち殺されました(24-27)。ネブカドネツァルの第七年(前597年)から三回にわたってバビロンに捕囚となった者たちの数が記録されます(28-30)。即位後、すぐに捕囚となった前王エホヤキンは、ゼデキヤ王と違い、後にバビロンの獄中から出され、特別に扱われました(31-34)。神の言葉は真実で、確かです。