イザヤ書

イザヤ記
この書は旧約聖書中、最も多く新約聖書に引用され、救い主イエス様についての預言も語られます。預言者イザヤは王室との関わりもあった祭司で、ウジヤ王の死んだ年(前742年頃)から四人の南ユダの王の時代、およそ五十年の間活動しました。伝統的にはこのイザヤが、彼の時代を超えた将来にまで神によって預言したと理解されます。その時代、北王国は偶像礼拝に陥り、やがて滅亡に向かいます(前721年頃)。それは南王国も同じような状況でした。その内容は、イスラエルの罪とさばき、諸国の罪とさばき、新しい時代への待望、さらにアッシリア軍からの守りという歴史的記述が三十九章までに記録されます。四十章からはクロス王を通しての捕囚からの解放、新しい民の礼拝、新天新地に至るまでの預言が語られます。その前半と後半はまるで旧約と新約の内容のようです。インマヌエル預言、苦難のしもべといった預言などを通して主イエス様に目を向ける備えとしましょう。

イザヤ書 1章
アモツの子イザヤを通して主は、イスラエルはわたしによって育てられたのに、背を向けたと語られます(1-2)。民の深刻な罪のゆえに、土地は他国人によって荒らされましたが、しかし残りの民がいます(3-9)。主は民を、かつて滅ぼされたソドムとゴモラと皮肉り、わたしにいけにえをささげてもそれに目を留めないと言われます(10-12)。それは形ばかりのいけにえ、祭、祈りという偽善のゆえで、その弱い者たちを虐げている悪事をまず悔い改めよと語られます(13-17)。そして主は言われます。心から悔い改めるなら、羊の毛のように白く、罪を完全に赦す(18-20)。どうしてあなたは神を離れ、悪事を行うようになったのか(21-23)。主はさばきを下す。しかしそれはきよめ、立ち返らせるため、主は贖われると語ります(24-27)。しかしなお背くもの、偶像に頼るものはさばきを受ける(28-31)。悪事を捨て去り、心から悔い改めて、神に近づくなら、神は罪を赦されます。

イザヤ書 2章
主はイザヤを通して、四章まで続く「終わりの日」について語られました。その日、主の家すなわちエルサレムに人々の目が向けられ、諸国の民が集います。主の臨在があるところに真の平和が訪れます(1-4)。それゆえ主の光の内を歩もうと語られます(5)。しかし、イスラエルの民の姿は、他国のように富、武力、偶像により頼んでいました(6-9)。その日、主は高ぶるものを低くし、人間の思い上りを打ち砕き、偽りの神々は消し去り、主のみがあがめられます(10-18)。主が、立ち上がると身を隠すような鼻で息をする人間に頼るな、助けにならない偶像に頼るなと語られます。(19-22)。これらはイスラエルの民に、そして時代を超えて私たちに語られます。やがて主の臨在と主のことばをすべての人が見る日がやってきます。平和が訪れます。私たちは主の光のうちを歩み、主に背を向けた生き方を捨て去り、人ではなく、主を崇め、恐れ、信頼して歩んで参りましょう。

イザヤ書 3章
「終わりの日」の言葉が続きます。ユダが頼みとしたすべてのものが除かれます(1-3)。秩序は崩壊し、混乱状態に陥ります(4-7)。なぜそのようなことが起こるのかと言えば、それは背きのゆえです。悪人はその手の報いを受けます。しかし正しいものは自分の行いの実を食べます(8-12)。主は告発者として立ち、諸国民をさばき、また同様にイスラエルの指導者たちをさばきの座に立たせ、その責任を問われます(13-15)。そして女たちの虚栄に満ちた姿が通して、人間のおごり、高ぶりを示されます。欲望のままに男を物色する娘たち、贅を尽くす女たち、しかし、その着飾っていた装飾品は取り去られます。男たちは戦いに倒れ、その地は廃墟します(16-26)。神を認めない国の行く末です。その国において、民は自分の欲望のままに、高ぶり、朽ち行くものに身を委ねます。しかし、それらは主のさばきの前に耐えることができません。私たちの生き方はどうでしょうか。

イザヤ書 4章
「その日」と終わりの日の言葉が続きます。戦争で多くの男が失われ(3:25)、自分の事は自分でしますから、とにかくあなたの名で呼ばれるようにしてくださいと七人の女が一人の男に結婚を申し込むような悲惨な状況となる(1)。しかし、「その日」と希望が語れます。「主の若枝」すなわち救い主が現れ、神を畏れる者たちにとっては誇りとなり、輝きとなります。「残された民」は聖なるもの、神のものとされます。主はイスラエルの汚れをきよめ、暴虐は洗い流され、出エジプトを彷彿させる雲と火という主の臨在の象徴が現れ、その栄光が残りの民の陰、避け所、隠れ家、すなわち守りとなるという祝福が語られます(2-6)。終わりの日は祝福の日です。試練を通してきよめられ、残される民がいます。主の臨在が明らかにされる時です。正しいさばきがなされ、主の守りがあり、平和が実現します。その日を待ち望みつつ、主を見上げて今日を生きましょう。

イザヤ書 5章
イスラエルの家、ユダについて、ぶどう畑として描かれます。農夫が荒れた土地を耕し、手を入れ、収穫を待ち望むように、主が愛を注いだにもかかわらず酸いぶどうができてしまった。なぜ、不正や暴虐の実を結ぶのか。そのような畑は荒れ廃れるままにされると警告されます(1-7)。彼らが結んだ悪しき実は、貧しい者から奪い、酒に溺れ、主のわざに目を留めない。それゆえ捕囚と荒廃により、人の傲慢は打ち砕かれ、主の正義が輝き上ります(8-17)。嘘、真理をゆがめ、知識を誇り、酩酊、わいろ、主を侮るものたちはわざわいです。その上に主の怒りが臨みます(18-25)。主はその民を遠く離れた国、強靭で、強力な武器を備えたものたちによってさばきます。それはアッシリアやバビロンでした。それは彼らにとって闇と苦しみ、絶望でした(26―30)。悪い実を結んでいることを悔い改めなかった民の姿を通して、さばきの前に、自分の姿を省み、主に立ち返りましょう。

イザヤ書 6章
預言者イザヤがその働きに召された経緯は、ウジヤ王が死んだ年(前742)、万軍の王なる主の御前に引き上げられ、天的存在であるセラフィムによる賛美を耳にします。聖なる主の栄光の前に、自らの罪深さを見つめ、死を覚悟します(1-5)。するとセラフィムのひとりが燃える炭を唇に触れさせ、あなたの汚れはその犠牲により贖われたと言われます(6-7)。そこで「誰を遣わそう」と言われる主の声に、イザヤは「私がおります」と応答します(8)。しかし民の心は頑なで、あなたの声に耳を傾けないとも言われます。イザヤが「いつまで」ですか聞くと、やがて町や土地が荒らされ、一旦残ったものさえ焼き払われると語られます。しかし切り株、忠実な残りの民がいると語られます(8-13)。聖なる万軍の主なる神、その前に汚れた人間、汚れを取り除かれる神、主の働きに召し遣わされる神、失望せず語り続ける責任、残りの民、今日、心に語りかける主のことばは何でしょうか。

イザヤ書 7章
南ユダの王アハズの時、アラムと北イスラエルの連合軍が攻めてきます(前734年頃/Ⅱ列16:1-5)。アハズ王も民も動揺しますが、主は「残りの者が帰ってくる」という名の息子とともにイザヤをギホンの泉に遣わし、心を弱らせるな。主を信じなければ、堅く立てないと語られます(1-9)。主はアハズにしるし、すなわち神に信頼することを求めますが、アハズは拒みます。主は処女からインマヌエルと呼ばれる男子の誕生を語ります。神がともにおられることのしるしを与えます。この預言は究極的にはイエス様の誕生に向かいます。主はアラムと北王国はさばかれます。事実、二人の王は後に、殺されます。(10-17)。しかしそれはユダ王国も同じで、主に信頼せず、敵が蠅や蜂が飛び回るように国の隅々まで侵略し、髭を剃られる屈辱、凝乳と蜂蜜だけの生活、土地が荒れるという悲惨が語られます(18-25)。暗闇の中でも、インマヌエル、神がともにいることこそが希望です。

イザヤ書 8章
主はイザヤを通してアラム(ダマスコ)と北王国(サマリア)がアッシリアによって「速やかに分捕られる」と息子の名を通して語られます(1-4)。南ユダは、インマヌエル、神がともにおられると呼ばれるにもかかわらず、主を頼らず、アラム(レツィン)や北王国(レマルヤ)と手を結ぼうとしアッシリアに覆われます(5-8)。しかし、主はインマヌエルの約束のゆえにユダを守り、敵対する者をさばかれます(9―10)。イザヤは民の一人として、神殿があるからではなく、主ご自身が聖所であり、主のみを恐れよと語り続けます。しかし多くの民はこの方に躓きます(11-15)。神のことばは残されます(16)。イザヤは、自分とその子たちをしるしとして示された主を待ち望み、主に望みをおきます(17-18)。しかし霊媒者や死者に尋ねる人々には夜明けはありません。悲惨が待つのみです。まさに絶望です(19-22)。主のさばきの厳しさ、しかし主を恐れる者たちには希望があります。

イザヤ書 9章
苦難と暗やみについて語られた後の「しかし」です。アッシリアによって北イスラエルは蹂躙されますが、その地は大きな希望の光を見出します。やがてその地は解放されます。そして、この預言はその先にあるイエス様に目を向けます(1-5)。ひとりのみどりごとしての救い主、真の王の誕生が預言されます(6-7)。しかしおごり高ぶる民の上には、アッシリアだけでなく、アラムやペリシテさえもさばきに用いられます(8-12)。神に帰らず、神を求めることのない民を惑わした指導者たち、偽りを語る預言者たちは打たれ、高いものから低いものまであわれみを受けることはありません(13-17)。地は焼かれ、互いにいたわり合う余裕はなく、飢え、同胞同士で憎しみ合います。しかしなお、主のみ怒りは収まらず、御手は伸ばされ続けます(18-21)。愛する民に御手を伸ばし続けなければならない神の悲しみを覚えます。希望の光を覚え、主の懲らしめを軽んじてはなりません。

イザヤ書 10章
主のさばきの言葉が続きます。わざわい、それは不義、不正が行われ、弱い者が虐げられているからです(1-4)。アッシリアはさばきの器として、主の怒りのむち、憤りの杖として送られましたが、アッシリア自身はそう思わず、他の国々や神々を滅ぼしたと高ぶり、イスラエルの神さえも侮ります。道具として主が用いたにもかかわらず、己の力に思い上る彼らも、時が来れば(前612年滅亡)、主にさばかれます(5―19)。しかしその日、イスラエルには、真実をもって主に信頼する残りの者がいます。彼らは神に立ち返り、主がそのことを成し遂げます(20-23)。それゆえに、主はアッシリアを恐れるな。これまでのように(士7:25、出14:21以下)、主は助けてくださいます(24-27)。南ユダに迫るアッシリアの進軍の様子(28-32)、しかしすべては主の御手にあります(33-34)。私たちが滅び失せないのは主のあわれみです。主の御手のうちにあることを見失わずに歩みましょう。

イザヤ書 11章
イザヤはアッシリアの脅威のある中で、エッサイの根株、ダビデの子孫としての「インマヌエル」なる救い主の誕生を預言しました。主の霊に満たされ、知恵、力に満ち、主を恐れ、正義をもって治める王の到来が預言されます(1-5)。その支配は真の平和、狼と子羊が、乳飲み子とコブラがともに住み、創造のはじめのような姿が回復し、すべての者が主を知り、すべての者がこのお方を仰ぎ、このお方の旗を、御名を掲げます(6-10)。その日は、神の民の残された者たちが、世界中から集められます。南北王国の和解、諸国からの悩みは去り、往来を妨げるものはなくなります(11-16)。この預言は当時のイスラエルの残りの民にとっての大きな希望となりました。そして、この預言はもっと先にある救い主の誕生、さらにその先にあるこのお方による完成の希望に向かいます。やがて来る主の日、やがて来る新しい時代を待ち望みつつ、今の時代を精一杯主の仰ぎつつ歩んで参りましょう。

イザヤ書 12章
この章は十一章までの南北イスラエルに対するさばきと希望、そして「その日」に向かう締めくくりの賛美が語られています。「インマヌエル」なるお方による新しい時代、残りの民による賛美がささげられます。私は主のみ怒りを受けるべきものであったにもかかわらず、慰めが与えられたと感謝がささげられ(1)、主なる神は私の救い、力、ほめ歌、それゆえこのお方を信頼しますと賛美が続きます(2)。さらに、人々も主のみわざを全地に向かって高らかに宣言します。主は、主に信頼するもの、すなわちシオンに住む者の真中におられる大いなるお方です(3-6)。この希望は今の時代を生きる私たちにとって、すでに来られ、その預言を実現された救い主、そしてやがて完成のために再び来られるその方を待ち望む者たちにとって確かな希望です。私たちはその日を待ち望みつつ、悔い改めと回復、み怒りと憐れみを通して、信じるものとともにおられるお方を賛美します。ハレルヤ

イザヤ書 13章
この章からしばらくは諸国に対する宣告の言葉が続きます。まだ台頭していないバビロンに対する宣告が語られます。その預言の言葉は、さらにずっと先にある終末の時代に目を向けるようにして読むこともできます。バビロンは、その傲慢さのゆえに、主の憤りの器によって、激しく破壊されます(1-8)。その激しさは、月、星、太陽が光を失うかのような絶望の日です。悪しき者、不遜な者、横暴なものはさばかれます(9-12)。人々は追い立てられ、散り散りになり、女、子ども、容赦なく悲惨が訪れます(13-16)。この時、バビロンのさばきに用いられる器がメディア軍であるとすでに預言されました(17-19)。そのさばきの後には何も残されません(20-22)。将来を語られる主がおられます。歴史の中に大国が生まれては消えていきました。主のみこころのみが実現します。現代も同じです。神などまるで存在しないかのように人々は振舞いますが、真の支配者を恐れるべきです。

イザヤ書 14章
十三章に続いてバビロンへのさばき、さらに諸国へのさばきが宣告されます。まずはバビロンによって虐げられたイスラエルの家の回復が語られます。そこには終末の姿も重なります。主がそのことをなされます(1-6)。地には安らぎが訪れ、喜びがあふれます(7-8)。横暴を極めたバビロンには死とさばきが待っています(9-11)。主はバビロンの王に対して、主のさばきの器に過ぎなかったにもかかわらず、おごり、高ぶったと責められます。その姿はまるでサタンの姿のようでもあります(12-15)。暴虐と支配の限りを尽くしたバビロンでしたが、その最後は墓さえない悲惨さです(16-21)。なぜなら主が彼らに向かって立ち上がるからです(22-23)。続く宣告はイザヤの時代に趨勢を極めていたアッシリアへのさばきです。主は必ずご自身のご計画を成し遂げられます(24―27)。またペリシテへの宣告も成就します(28-32)。歴史を支配される主を覚え、主に身を避けます。

イザヤ書 15章
次の章まで、バビロン、アッシリア、ペリシテに続く、モアブへの宣告です。モアブはアブラハムの甥ロトの子孫(創19:37)で、イスラエルとは良し悪しの長い歴史を持つ国でした。その領地は死海の東側にありました。この国もアッシリア、後にバビロンによって侵略を受けます。この章にはモアブの主要な都市名が多数登場しますが、おおよその位置は、中央部のアル、キル、ディボン(ディモン)から、北にネボ、メデバ、ヘシュボン、エルアレ、ヤハツ、南にツォアル、エグラテ・シェリシヤ、ルヒテ、ホロナイムなどがありました。アラビム川はエドムとの国境にある川です。そのモアブの町々は荒らされ、泣き叫びます(1-4)。敵は北から攻めてきて、南の町へ逃げていきます(5-6)。さらには獅子さえもが送られ、徹底的に打たれます(7-9)。主は決してさばきを喜ばれるお方ではなく、愛の痛みを覚えて心は叫び、悔い改めを求めて罪をさばかれるお方です。

イザヤ書 16章
前章からのモアブへの宣告が続きます。牧畜の国(Ⅱ列3:4)モアブは貢物をもって、南方エドム(首都セラ)を経て、ユダに助けを求めます。彼らは死海の東アルノンで逃げ惑います。(1-2)。モアブはユダに助言と保護を願い、さらにダビデ王国は恵みにより、公正と義が行われ王座が確立すると語ります(3-5)。それに対して、モアブの高ぶりのゆえに(6)、モアブに下る神のさばきの宣告の言葉が続きます。特に農産物を通してのさばきのことばで、祭日にも食されたぶどう菓子もなく、ぶどうの産地で有名な北方の町々は荒れ果てます。それゆえ喜びの声は絶えます(6-10)。その悲惨さについてイザヤを通して、主の嘆きの声が聞こえてきます(11)。モアブがより頼む偶像は何の助けにもなりません(12)。モアブについては遠い昔にも語られました(民24:17)。そしてついに彼らへのさばきがそこまで迫っていました(13-14)。さばきをなされる主の痛みを覚えます。

イザヤ書 17章
ダマスコすなわちアラムと同盟を結んだ北イスラエル(エフライム)への宣告です。両国はアッシリアに対抗するために手を組みましたが、その両国の栄光が失われる時が迫っています(1-3)。北王国のさばきが、刈り入れの時に棒で実がたたき落とされるように表現されます。しかしそこに残りの実、残りの民がいる約束が語られます(4-6)。その日、残りの民は創造主に目を向け、主を知り、偶像のむなしさを知ります。しかしその日、主を捨て、救いの神を忘れ、その堅固なる力の主を覚えず、他の国と自分の好む偶像に頼るものにはさばきの時となります(7-11)。諸国の軍隊により構成されたアッシリアは神のさばきの器として国々を侵略しますが、彼らもまたやがて滅ぼされ、もみ殻のように、ちりのように吹き飛ばされます。その滅びは突然やってくる様子が宣告されます(12-14)。私たちが信じる神はどのようなお方でしょうか。もう一度、思い起こしましょう。

イザヤ書 18章
クシュ(エチオピア)がアッシリアの滅びを通して神を認める時が来るという宣告です。この背景には第二列王記十九章があるかもしれません。クシュは遠い国、強国として知られ、ナイル川の上流、幾多の支流が流れ、多くの生き物がいました。水辺に生えるパピルスは軽く船足の速い船を作るために用いられました。ユダに来た彼らに対して自分の国に帰るように、行けと言われます(1-2)。アッシリアへのさばきの知らせは世界中に知らされます(3)。主は収穫を待つ農夫のように、時が来るのを待ち、眺めておられます(4)。農夫が不要なものが除き去るように、主はアッシリアをさばかれます(5-6)。その日、万軍の主の名のある場所、シオンの山エルサレムにエチオピアから貢物が運ばれてくる預言です(7)。主は地の果てまで、ご存じであり、すべ治める王です。この約束は、さらに先の将来、主の御名が諸国であがめられ、諸国が主の前に立つ時ことにも思いを向けます。

イザヤ書 19章
エジプトへの宣告です。メソポタミアに並ぶ古くからの強大な国エジプト、そのさばきは速やかに、国内の内乱によって起こります。確かにイザヤの時代にも次々に王朝が替わりました。偽りの神々に伺いを立てるも解決はなく、諸外国によって支配も受けます(1-4)。ナイル川による恵みも失われ、農、畜、漁、織物が壊滅します(5-10)。首長たち、助言者たちといった指導者たちのことばは何の力もなく、むしろ混乱をもたらします。頭も尾も、すべての者が神の前になすすべがありません(11-15)。しかしエジプトの回復が語られます。その日、彼らは主に叫び、主の助けを得ます。主に誓いを立てる町々も起こされ、滅びの町という名の町さえ救われます。主による回復が与えられます(16-22)。この預言は、時代を超えて、当時の強国アッシリア、エジプトの名をもって、ユダを中心に世界が神に目を向け、祝福を受ける希望の時に目を向けます(23-25)。神は今も世界の支配者です。

イザヤ書 20章
前章と同様エジプトに関する宣告です。預言の出来事を確定することは難しいこともありますが、この章はアッシリアのサルゴン王(紀元722-705年の統治)が軍団長タルタンを地中海沿岸ペリシテの五大都市のひとつアシュドデに送り、そこを攻め取った時(紀元712年頃か)とはっきりしています(1)。イザヤは裸同然の姿となり、行動で主の預言を示します。それはエジプトとクシュ(エチオピア)がアッシリアに捕虜となる姿でした(2-4)。海辺の住民は彼らを拠り所にし、さらに南王国も同盟を結ぼうとしていたのでしょう。しかしそれは恥を見ると言われます(5-6)。イザヤの預言は実際の「時」を持つ預言で、近い将来に実現するもの、さらにずっと先の将来にまで及ぶ預言もありますが、時が来れば実現します。私たちは「時」をご支配なさる神に頼るのか、「拠り所がこの始末だ」となるような人間や他の何かに助けを求めるのか。私たちの頼りとするものは何でしょうか。

イザヤ書 21章
前半は海の荒野と呼ばれたバビロン(13―14章)への宣告です。ユダ南部の乾燥地ネゲブのつむじ風のような厳しいさばきです(1)。ペルシア湾の北エラムはバビロンを裏切り、メディアによってバビロンは滅ぼされます(2-9)。それゆえバビロンと手を結ぶ愚かさを南ユダに警告し続けます(10)。続いて死海の南方、ドマ、セイルとも呼ばれるエドムへの宣告です。エドムはエサウの子孫です。彼らは、夜回りとしての預言者に、苦しみはいつ終わるのかと問います。解放(朝)訪れるが、悔い改めないなら再び夜が来ると語られます(11-12)。さらにアラビアへの宣告です。デダン人(北西アラビア)やテマ(デダンより北東)の住民に逃れたものを助けるように語られます(13-15)。勇猛さで知られたゲダル人さえすぐに栄光を失います(16-17)。ここにはアッシリアの攻撃(紀元前710-712年頃)が背景にあるでしょうか。朝が来るか、夜が続くのか。主の前にどう生きるかが問われます。

イザヤ書 22章
三方を谷に囲まれたエルサレムへの預言です。神の民、神殿があることに甘んじ、高ぶる民への警告とイザヤの嘆きが響きます(1-4)。アッシリアの傭兵エラムやキルの攻撃、城壁が崩れ、谷が戦車で埋め尽くされ、防備は除かれる。レバノン杉でできたソロモンの宮殿にある武器、下の池(古い池)や貯水池シロアムの水の確保に躍起になり、それを与えられたお方には目を向けない。万軍の主の呼びかけに見向きもせず、快楽を求める彼らは取り返しのつかない罪を犯していると警告し続けます(12-14)。そのような状況をもたらした一人、アハズ王、ヒゼキヤ王に仕えた外国人執事シェブナは、その高ぶりのために、投げ捨てられます(16-19)。主は代わってエルヤキムが立てますが、その最初は杭となって良い働きをしますが、やがてその地位に高ぶり、彼も抜き去られる預言されます(20-25)。万軍の主の御手の内にあることを忘れてはなりません。主の前に高ぶるものは退けられます。

イザヤ書 23章
フェニキアの諸国に対する宣告が出てきます。ツロ(岩の意、砦)はイスラエルの北方の地中海沿岸の小島にあった港町、キティムはキプロス島、シドンも地中海沿岸にあったフェニキアの重要な海洋貿易都市です。タルシシュは現在のスペインの南端の港町です。まさに海洋貿易によって富を得ていたフェニキアの町ツロの滅亡により、キティムは嘆き、深い関わりをもっていたエジプト(シホルはナイル川の支流)も嘆く様子が描かれます。アッシリア帝国は、カルデヤ人の国バビロンだけでなく(前710年頃の事か、689年頃の事か)、ツロもシドンも荒らします。しかし、それは万軍の主がなされることです(1-14)。しかし回復の約束も語られます。主はツロの富を回復し、神と主の前にあるものたちのために用いられると語られます(15-18)。富を誇り、頼みとした諸国の姿です。何により頼むのかを問われます。またさばきと同時に回復もあります。正義と愛の両面を覚えます。

イザヤ書 24章
この章から三十五章まで全世界へのさばきのことばが語られます。見よ、その日、人の区別に関係なく、すべてのものが神の律法を破った罪のゆえにさばかれます(1-7)。その日は喜びが失われ、地は丸裸にされ、荒廃します。しかし、わずかなものが残されます(8-13)。その人々は海の向こう、地中海の向こうから主の威光を讃えます。しかしイザヤはその喜びよりも、あまりに厳しい神のさばきの前に心を痛め、嘆きます。その厳粛さは、まるでノアの洪水を思わせるかのような天の窓が開かれ、地が揺れ動き、裂けるような恐ろしさです(14-20)。その日は、地上だけでなく、天上における悪しき霊たちのさばきの時でもあります。彼らは一時閉じ込められ、やがてさばかれます。また宇宙的異変も起こります。そして主の栄光がエルサレムに輝きます。まるでヨハネの黙示録に重なるような預言です(21-23)。神は終末まですべての歴史を支配し、天と地の支配者、大いなるお方です。

イザヤ書 25章
正しいさばきをなさる神への賛美です。神のご計画は必ず成し遂げられます(1)。主は横暴な者たちを鎮め、弱っている者の砦、嵐や暑さの避け所、陰のように貧しい者を守られます(2-5)。主にある勝利を喜ぶ祝宴の様子です。主にある万民、万国に訪れる喜びです。その日には、死も飲み込まれ、目の涙が拭い取られ、主の民の恥辱も取り除かれます。その日は主の民にとって喜びの賛美の時です。このお方は、待ち望んだ主、救い主です。この希望はイザヤの時代を超えて、終末の希望にも向かいます(6-9)。最後にここではモアブに代表される敵対者へのさばきの預言が、神の民の救いの喜びと対照的に描き出されます。高ぶり、人の力でどんなに堅固な城塞を築いたとしても、それは打ち砕かれ、ちりとなります。人間的なものに頼り、高ぶるものは退けられます(10-12)。主のさばきの日は、主に敵対する者にとっては恐怖ですが、主を恐れる者にとっては喜びの日です。

イザヤ書 26章
前章に続いて、「その日」、ユダ(エルサレム)で賛美がささげられます(1)。主に信頼し、忠誠を尽くす者たちは救われ、その都に導かれ、平安の内に守られます(2-6)。主を待ち望む正しい人の道は躓くものがなく平らで、暗闇の夜にも主を待ち望み、主のさばきを通して義を学びます。しかし悪者は主の義を知ることも、見ることもないゆえに、さばきの火が逆らうものをなめ尽くしますようにと祈ります。滅びゆく君主ではなく、永遠の王なる神にのみ頼ります(7-14)。主は神の民を回復し、増し加え、地境を広げます。主は神の民を苦しみの中にも助け、時に懲らしめをもって訓練します。人は自分の力で救い出すことはできません。ただ主が生き返らせてくださいます(15-19)。後ろの戸を閉じよとは過ぎ越しを彷彿させ、主の民は主の憤りが過ぎ去るまでかくまわれます(20-21)。アッシリアの脅威の中で主への信頼が確認されます。私たちは終末を覚え、主に信頼します。

イザヤ書 27章
「その日」、神話的海獣レビヤタンにたとえてアッシリア、バビロン、エジプトのような強国あるいはまさに神に敵対するサタン的勢力のさばきとしても読むことができます(1)。それに対してぶどう畑(5章)として描かれるイスラエルまた主の民には救いの日です。主は彼らを見守り、養い、主という砦で保護し、彼らは根を張り、芽を出し、花を咲かせ、全世界にその実が満たされます(2-6)。イスラエルは彼らを形造られた方に背を向けた不義のゆえに打たれますが、悔い改めて、偶像礼拝を打ち砕くならば、主はその不義を赦されます(7-11)。二十四章からのまとめとして、「その日」主は大河ユーフラテス川やナイル川にある大国を打ち落とし、イスラエルの残りの民を連れ戻し(7:3)、彼らがエルサレムで主に礼拝をささげると語られます(12-13)。当時の背景を踏まえつつも、終末に向かう預言です。主はやがてすべてをさばかれ、主を恐れる者には回復と希望が訪れます。

イザヤ書 28章
三十三章まで南王国への警告です。冠の形をした北王国の首都サマリアはアッシリアに滅ぼされます。残りの民がいます(1-6)。北王国の滅亡を前にしても南王国の指導者たちは酒に酔い、幼児ことばでイザヤを嘲ります。主がここに憩いと休息があると語られるのに(12)、指導者は聴こうとしません(7-11)。彼らは霊媒で死者と交わり、傲慢で、まやかしに生きていました(14-15)。それゆえ神は彼らをさばかれます。しかし、神が据える要石に信頼するもの揺るぎません(16)。これは後にイエス様において完全に成就します(16-17)。神以外のものに頼るものは空しく、何の助けにもならず、恐怖があるのみです(18-20)。主はこれまでの歴史においても正しいさばきをなされ、やがて全世界に定められたさばきを行います(21-22)。種が蒔かれ実をつけるという手順があるように、主は摂理に内に事をなされます(23-29)。あなたは何を人生の要石、拠り所としているでしょうか。

イザヤ書 29章
祭壇の炉(アリエル)、神殿のあるエルサレムへの嘆きです。南王国はアッシリアに攻められ、囲まれ、炉のように焼かれます。しかし同時に主はその敵をもみ殻のように吹き飛ばされます(1-8)。主が預言者の目を閉ざされるゆえに、だれも主のみこころを知ることができません(9-12)。「わざわいだ」、民は口先では神を敬いますが、その心は遠く離れ、心の伴わない形式的な礼拝をささげ、神の律法を自分都合の規則や習慣に変え(13-14)、そして高ぶり、自分勝手に神を理解します(15-16)。やがて明暗がはっきりします。すなわち悪い者や高ぶるものは除かれ、主を恐れる者、貧しい者たちはあわれみを受けます(17-21)。なぜなら主はアブラハムと結ばれた約束に忠実であるからです。そして、主を恐れるヤコブの家の者たちは、主の名を聖とし、神をあがめます(22-24)。私たちは神を自分都合の神としていないでしょうか。神を神なるお方としてあがめているでしょうか。

イザヤ書 30章
「わざわいだ」と主の指示を仰がず、エジプトに頼るユダへの警告です。彼らはネゲブを通ってエジプトに向かい、恥を見ます(1-7)。主はイザヤにそれは主の計画である書き記せと語られます(8-11)。ユダの指導者たちはその不義のゆえにさばかれます(12-14)。立ち返れ、静まれ、主に頼れ(15)との主の招きを無視し、人間的なものに頼るゆえにさばかれます(15-17)。しかし主は恵みとあわれみを与えるために立ち上がられます(18)。その行くべき道を語られます(21)。主の回復の時がきます(18-22)。主は農畜産物を豊かに与え(23-24)、傷を癒し(25-26)、諸外国をさばかれます(27-28)。その日は、主の民にとっては喜び、祭の日となります(29-30)。主はアッシリアを打たれ、トフェテと呼ばれる焼き場でアッシリアの王がさばかれると語られます(31-33)。目に見える何かに頼りたくなります。しかし、主に信頼するものに、恵みとあわれみがあふれます。

イザヤ書 31章
前章に続き南ユダに対して、エジプトに頼るむなしさが語られます。主に目を向けず、主を求めないもの、すなわち、馬、戦車、騎兵といった人間的なものに頼るものは、それ自体も、また頼ろうとするものたちも、両方つまずき、倒れると語られます(1-3)。主のさばきにより、エルサレムは攻められますが、愛のゆえに万軍の主が立ち上がり、守り、救い、助けて解放します。具体的にはアッシリアによる攻撃を指しているかもしれません(4-5)。それゆえ、主は「帰れ」と招きます。「その日」、人々は偶像を捨て去り、自分の罪過を悔い改めます。それはイザヤの時代を超えて、終末にまで目を向けさせます。そして、アッシリアは人の手によらず、主の主権のもとに、主によってさばかれ、散らされます。これは主のことばであり、主の約束です(6-9)。今こそ、主に帰る時ではないでしょうか。あなたは何により頼んでいるでしょうか。捨てるべきものは何でしょうか。

イザヤ書 32章
「一人の王が義によって治め」(1)とは、究極的には救い主イエス・キリストにおいて成就する預言と考えられます。その治世は公平で、平和な世界であり、悪しき者の治世とは正反対です(1-8)。主は、イザヤを通して、再び、聖なる都エルサレムに胡坐をかいている民に対して、安逸をむさぼり、うぬぼれている女たちよと語られます。エルサレムの東の丘オフェルなどの荒廃が語られ、近づきつつある主のさばきと、それゆえに主の声を聞くように語られます(9-14)。「しかし」とさばきと同時に回復の預言も語られます。ここには、終末のことにまで目を向ける平和が語られます。神の霊が注がれ、土地が回復し、公正と義が回復します。それによりそこには平和が生み出され、民は平穏と安心の内に住まいます。しかし対照的に敵対する者たちの地は卑しめられます。そして、地は潤されます(15-20)。主の霊による回復によって、義と公正が行われ、そこに平和が実現します。

イザヤ書 33章
エルサレムの回復と敵であるアッシリアのさばきが対照的に語られます。アッシリアは和解の契約を裏切り、兵をおし進めました(Ⅱ列18章)。しかし裏切るものが裏切られると語られます(1)。主のあわれみを待ち望む者の祈り、主が立ち上がり諸国民は騒ぎ立つ様子(2―3)、イスラエルが分捕りものを得(4)、主が公正と義を行い、時を堅く支え、主を恐れることは財宝と語られます(5-6)。しかしさばきのゆえの地の荒廃の様子も描かれます(7-9)。しかし主が立ち上がり、敵をさばかれます(10-12)。主のみわざを知れとあります。主の恐れる者、残りの民は堅く立ちます(13-16)。この預言はさらに終末的色合いを濃くし、麗しい王を見る時、敵を見ることがない(17-19)。主がともにおられ、豊かな水の祝福、主がすべ治め、病気の癒し、咎が除かれると語られます(20-24)。いつの時代にあっても、主の素晴らしさ、主のさばき、主にある回復と幸いを味わいましょう。

イザヤ書 34章
二十四章からの預言の結論に向かって、諸国に向かって「聞け」と語られます。主のさばきは全世界に及びます。その時には天の万象にも異変が起こると終末に思いを向けます(1-4)。そのさばきについて、ここではエサウの子孫ソドムへの預言として示されます。主要な都市であるボツラをはじめ多くの血が流されます。それは身内でありながらシオンを苦しめたゆえの復讐の日です。(5-8)。その日には、川は燃える樹脂のように変わり、野獣が住み、地は茫漠となり(創世記1:2)、指導者たちもいなくなります(9-12)。力を誇ったその宮殿は、荒れ果て、野獣の住み家となります。主のことばは必ず実現します(14)。主が命じるゆえに鳥獣がそこを所有し、廃墟と化します(13-17)。主のさばきを決して軽く考えてはなりません。聖なる神の前に天地万物が揺れ動きます。しかしそれはすでに語られていることです。私たちは耳を開いて、主に目を向けて歩み続けましょう。

イザヤ書 35章
二十四章からの預言の最後の部分で、前章は終末における主のさばきについて、この章は回復が語られます。荒野や砂漠に花が咲き、喜びがあふれるように、主のさばきによって荒れ果てた地の回復と祝福が語られます。北のレバノンの杉、カルメルの森林、シャロンの花は有名で、そこに主の栄光が現わされます(1-2)。「弱った手を強め、よろめく膝をしっかりさせよ」と、主の救いが実現します(3-4)。目、耳、足、口の不自由な者たちが癒される様子は、人々の悔い改めと回復をも示しているかもしれません。荒野が潤され、野獣の住まいとされた地が豊かになるという回復の情景が描かれます(5-7)。エルサレムに向かう大路は聖なる道と呼ばれ、贖われた者たちは安心して歩み、喜び歌いながら礼拝に上り、楽しみ、喜びがあって、悲しみや嘆きは過ぎ去る時が訪れます(8-10)。なんと素晴らしい回復の日であり、希望の時でしょう。主が来られる日を待ち望みます。

イザヤ書 36章
三十六章から三十九章はヒゼキヤ王の時代に起きたアッシリア軍の侵攻に関する出来事で、第二列王記十八章以下の記録と並行します。時はヒゼキヤ王の第十四年(紀元前701年)です(1)。アッシリア軍の将ラブ・シャケは「おまえは何に拠り頼んでいるのか」と問います(4)。そしてエジプトにより頼んでも、自分たちの神により頼んでも無駄であり、これは主から出たことであるとさえ語って揺さぶります(1-10)。ラブ・シャケはヘブル語で一般の兵士たちに話しかけますが、高官たちは標準語であるアラム語で話すように願います。しかしなおもラブ・シャケは民に向かい、ヒゼキヤにまどわされるな。主なる神に頼っても無駄である。降伏すれば助かる。諸国、北の国々を見よ。と惑わします。しかし民は黙っていました(11-22)。絶体絶命の危機を前に、神へ不信仰、他の何かに拠り頼ませようとする誘惑が起こります。私たちは黙って、ただ主にのみ信頼すべきではないでしょうか。

イザヤ書 37章
ヒゼキヤ王は苦難と懲らしめと屈辱の中にあって、イザヤに祈りを求めます(1-4)。イザヤを通して主は「恐れるな」と語り、アッシリアの撤退とセンナケリブの最後を伝えます(5-7)。実際、アッシリア軍は知らせによって浮足立ち、しかし使者をヒゼキヤに遣わし、どんな神でもお前たちを守れることはできないと揺さぶり続けました(8-13)。ヒゼキヤは、天地万物の造り主、万軍の主である神に祈り求めました(14-20)。イザヤを通して主は語ります。アッシリアの王はイスラエルの聖なる方を侮り、エルサレムを攻めたが、それさえも主の御手の内にあり、主は高ぶる彼を連れ戻される(21-29)。ユダの残りの民は回復され、万軍の主が必ずそれを成し遂げる(30-32)。アッシリアの王はエルサレムに入ることはできない(33-35)。事実、アッシリア軍は壊滅し、センナケリブは息子たちに殺されます(36-38)。神への信頼、主のことばへの信頼、信仰への挑戦があります。

イザヤ書 38章
前の二つの章に先立つ出来事と考えられ、アッシリアの脅威が迫る中、四十代頃のヒゼキヤは重い病気となりました(Ⅱ列20章)。イザヤを通して神様はヒゼキヤの死を告げます。しかし、ヒゼキヤはひとり、神の前に祈ります。すると主はその祈りを聞き入れ、寿命を加え、またアッシリアから守られることを約束し、影を戻すという不思議なしるしをもって保証されました(1-8)。その時、主は干しいちじくを用いていやしを行い、またそのしるしはヒゼキヤが求めたことにより与えられたものでした(21-22)。後半はヒゼキヤの歌となっています。重い病の中で死を覚悟したこと、叫び続け、絶望し、泣き、うめき、主を仰ぎつつ、神に求めたこと、すると主は、苦しみから平安を、滅びの穴から救いを、罪をご自身のうしろに投げやってくださったと、主への賛美を歌います(20)。内憂外患の中で、主のなさることに委ねつつも、主に祈り求める者たちの願いを主は大切に扱われます。

イザヤ書 39章
ヒゼキヤの病が奇跡的にいやされると、力をつけつつあったバビロンの王が贈り物と共に使者を遣わしました(Ⅱ列20章)。ヒゼキヤは彼らとの同盟を結んだのかもしれません。そしてイザヤに相談もせず、宝や武器のすべてを見せました。(1-4)。しかしそのことは彼の大きな失敗でした。イザヤを通して、主はそのすべてがバビロンに運ばれると預言されます。さらに、あなたの子らもバビロンに連れ去れ、バビロンで仕える者になるという捕囚の預言が語られます。ヒゼキヤはその主のことばを受け止め、さばきが先延ばしにされたことを感謝しました(5-8)。たかが宝や武器を見せたということではなく、病がいやされた途端に気が緩んだのか、主に祈らず、主以外のものに頼ろうとする思い、宝や武器への誇りが出てきたのでしょうか。さばきが先延ばしにされたことへの感謝はその場しのぎの姿でしょうか。信仰的なヒゼキヤ王も人の子です。自分の心をもう一度見つめましょう。

イザヤ書 40章
全体の後半部に入りますが、メシアによる救いの預言であり、イザヤの晩年(前680年頃か)の預言とここでは受け止めてまいります。「慰めよ」との回復のことばから始まります。民の咎は償われたと「荒野で叫ぶ者の声」がします。これは新約聖書につながる預言です(1-5)。神のことばは永遠に立つ確かなものです(6-8)。主が来られ、羊飼いのように民を抱かれるという良い知らせがシオンに響きます(9-11)。主は天地をはかり、大いなる知恵をもち、このお方の前に国々は手桶の一滴にすぎません(12-17)。神は決して人が形作ることができるようなお方ではありません(18-20)。このお方は地上の権力者を無に帰すことができ、比べるうる者はなく、天地万物を創造されたお方です(21-26)。それゆえお方を待ち望む者は、力を得、鷲のように羽ばたくことができるのです(27-31)。どんな時代、どんな中にあっても、主に希望をおき、待ち望む者は、力を得ることができます。

イザヤ書 41章
「島々よ」と地中海を念頭に、全世界に呼びかける声が響きます。一人の者(2)はアブラハムとも考えられますが、ここではメディアのクロス王と理解しておきますが、誰であれ、主が初めから終わりまでご支配されるお方です(1-5)。しかし、偶像を作るものたちもいます(6-7)。神はイスラエルを選び、恐れるな、ともにいる、わたしが神だ、助け、守ると語られます(8-13)。そして、もう一度、恐れるな、虫けらのヤコブと語り、あなたは強く立つことができると、捕囚から贖われることも語られているかもしれません(14-16)。神は荒野に水を、花を、回復を与えられます。民は主こそ創造者であることを悟ります(17-20)。偶像の神々が後の事を語ることができるかと主は語られます(21-24)。神は将来のことを、クロス王、さらにはメシアに誕生、終末まで語ることのできるお方です(25-29)。神は後の事をご存じの上で、私たちたちを今も守り導かれるお方です。

イザヤ書 42章
「わたしのしもべ」とは誰か。神様が用いられるしもべを重ねながらも、やはりその究極のお方は救い主イエス様(マタイ12章)に目が向きます。柔和で、正義を確立するお方です(1-4)。主なる神はすべての創造者であり、暗闇から人々を救い出し、新しいことを告げます(5-9)。イザヤは全世界に対して、新しい歌を主に歌え、主をほめたたえよと叫びます(10-13)。神様は沈黙を破り、ついに新しいことを開始されます。回復を与え、偶像により頼む者を退けます(14-17)。見ず、聞かない不信仰な民、イスラエルは現実的にかすめ奪われ、略奪の憂き目にあいます(18-22)。それは彼らが主の前に罪あるものとなり、主の道に歩まず、悔い改めることをしなかったからでした(23-25)。イスラエルの現実からもっと大きな将来に至るまでの山々が遠くに重なり見えるような預言の中に、イスラエルの民の姿を覚えつつも、私たちの姿を重ね、そして救い主イエス様に思いを馳せます。

イザヤ書 43章
主なる神様はどんなに不信仰なイスラエルに対しても、あなたを形造り、贖い、名を呼び、私のもの、ともにいる、苦難の中でも守り、高価で尊い、あなたを愛していると語られます(1-4)。それゆえ「恐れるな」と言われ、やがて主の名で呼ばれるものたちを全世界から集められると語ります(5-7)。イスラエルは主の証人として召されました。主の他に救い主はおらず、主こそ神です(8-13)。主はイスラエルをバビロンから贖い出されます。主はその新しいことを必ずなされ、回復が与えられます。そして主の民は主の栄誉を宣べ伝えるようになります(16-21)。しかし主の民イスラエルは主に逆らい、主の望まれるようなものではなかったと言われます(22-24)。それでもなお主はこの背きの罪を拭い去り、罪を思い出さないと語られます(25-28)。主は憐れみ深いお方です。このイスラエルへの約束は、主を恐れるすべての者への約束でもあります。信じて受け取りましょう。

イザヤ書 44章
イスラエルの残りの民に主が形造ったと語り、回復が約束されます。また異邦の民の中に主のものと自らを語るものたちも現れます(1-5)。神は王であり、贖う方であり、初めであり、終わりであり、このお方以外に神はいません(6-8)。それゆえ偶像に頼るものは空しく、恥を見ます。なぜならそれらは人間が作り出しものに過ぎないからです。木で作られた偶像は、その一部を取って暖を取るための薪や食事を調理するために用いられ、残りの一部に向かって「私を救ってください」とひれ伏します。そんな偶像に知識があり、将来を告げることができるでしょうか(9-20)。主は「わたしがあなたを形造った」と語り、それゆえわたしに帰れと招かれます(21-22)。このお方への賛美に招かれます(23-24)。さらに将来イスラエルがペルシアのキュロス王によりバビロンから回復される預言も語られます(24-28)。主は創造主であり、将来をご存じであり、生きて働かれるお方です。

イザヤ書 45章
前章の最後に登場したペルシアの王キュロスについて語られます。主が、イスラエルのためにこの異邦の王を用います。彼は勝利を治め、イスラエルを解放します。彼も、人々も主が創造主であり、支配者であること知るためです(1-8)。イスラエルの姿に重ねて、粘土が形造るものに口答えするだろうかと問います。イスラエルを形造ったお方は、すべてを造られたお方です。そして捕囚からの再建と回復が語られます(9-13)。人々が主を礼拝するためにやってきます(14)。神はご自分を隠されるとあるように人間には理解を超えたお方です(15)。偶像に頼るものは空しく、イスラエルの神こそ永遠の救いを与えます(16-17)。天地を創造されたこの方以外に神はいません。このお方は正義を語り、公正を告げられます(18-19)。神は唯一です。地のすべての民はこのお方を仰ぎ見て救いを得るのです(20-25)。すべてを造られた主なる神こそ、すべての人の救い主であり、唯一の神です。

イザヤ書 46章
ベルはバビロンの主神(別名マルドゥク)で、ネボはその子とされる偶像です。それらは祭りの際に獣や家畜にのせられて荷物のように運ばれます。自ら何もできない偶像に人々は膝をかがめます(1-2)。しかしイスラエルの神は生まれる前から民を運び、年老いても背負い、救い出すと語られます(3-4)。神を偶像と並べることなどできません。人の手によって作られた偶像は動けず、叫んでも応えません。そんな偶像が救い出してくれるでしょうか(5-7)。よく考えなさい(8)。創造の昔から、この方以外に神はいません。この方は将来を告げ、計画は成就し、望むことをすべて成し遂げます。主に聞きなさい。救いが遅れることはありません。なお、ここには猛禽(11)にたとえて、キュロス王によりイスラエルの民がバビロンの捕囚から救い出されることも語られます(9-13)。まことの神により頼んでいるでしょうか。このお方こそ私たちを救い出すことのできるお方です。

イザヤ書 47章
バビロンへのさばきの宣告です。彼らはカルデア人とも呼ばれました。侵略されたことのないおとめバビロンは廃墟となり、粉を引く奴隷や連行される様子が描かれます。さばきはイスラエル贖う万軍の主によってなされます(1-4)。彼らはイスラエルを懲らしめるために用いられた器に過ぎなかったにもかかわらず、彼らをあわれまなかったからです(5-7)。さらに、自分たちは大丈夫と誇り高ぶるバビロンの王は討たれ、民や国土が失われることが女性にたとえて語られます(8-9)。自分は特別と思い、呪術による知恵があるとおごるその町にわざわいが訪れます(10-12)。バビロンの占星術や呪術の歴史は古く、そういった知恵者と言われるものたちに助言を受け、自分たちを救ってみよと主は言われます。それらは彼らを救出せず、むしろ迷い出るだけです(13-15)。神以外に頼る者たちの最後はすべて同じです。自分の使命を見失い、自分の力に誇り、神様を退けていませんか。

イザヤ書 48章
頑ななイスラエルに対して主は将来に起こることを前もって告げ、偶像によって知ったと言わせないと語られます(1-6)。また、自分たちは知っていたと言わせないために新しいことを語り、さらにイスラエルの民が裏切ることを知っているとも語ります(7-8)。しかし主は御名のために彼らを滅ぼすことをせず、彼らを苦しみで練ると語られます(9-11)。世界を創造されたお方は、異邦人のキュロス王を起こし、バビロンに向かわせます。ずっと先に起こることについてイザヤを通して語られました。神は初めであり、終わりであって、歴史の支配者です(12-16)。主は贖い主、益になること、歩むべき道を教え、導かれるお方です。このお方に聞き従うなら、平安を与え、正義を成し遂げ、滅ぼされることはありません(17-19)。バビロンからの解放(20-21)、バビロンの崩壊が語られます(22)。歴史の初めから終わりまで導く、永遠の神の御手にある今日を覚えて歩みましょう。

イザヤ書 49章
再び「しもべ」が登場し、母の胎にいる時から召され、名を呼ばれ、イスラエルを通して栄光を現すと語られましたが、それは無駄骨に見えます(1-4)。しかし主は民をご自分のもとに集め、国々の光とし、救いのために、しもべに力を与えます(5-6)。イスラエルを贖う方は弱いものを励まし、助け、回復を与えます(7-12)。主は民を慰め、苦しむ者をあわれむお方です。それゆえ賛美せよと呼びかけられます。しかし、シオンは、主は私を捨て、忘れたと答えます(13-14)。しかし、主はどうしてあなたを忘れるか。手のひらにあなたを刻んだ。主は生きている。敵を追い出し、あなたのところに民が帰ってくると、その回復が語られます(15-21)。神である主を通して、諸国さえもその帰還を助け、奪われたものも回復します。主は救い主、贖い主、力強き者であることが示されます(22-26)。捕囚からの回復だけでなく終末の回復に思いを寄せます。主は決して見捨てられません。

イザヤ書 50章
民は、神が母(エルサレム)を追い出し、私たちには離婚状を渡して捕囚の身に渡したと訴えます。しかし、主はあなたがたの咎がその事を引き起こしたと語ります。わたしはあなたがたを救い出すことができないとでもいうのかと責めます(1-3)。「主のしもべ」について三度目(42章、49章)の言及となりますが、それは直接的にはイザヤと思われますが、神から言葉を授けられ、耳を開かれ、そのままを聞き取り、そのままを語ったゆえに、人々から打たれ、辱められます。そして、その姿はキリストに姿に向かいます(4-6)。しかし主はしもべを助け、侮辱を覆い、神が義としてくださり、誰も不義に定めることはできません(7-9)。それゆえしもべは、主を恐れよ、主により頼め、光をもって歩め、と民に対して悔い改めを迫ります(10-11)。私たちは誰の前に義とされるべきでしょうか。人の前にではなく、神の前によしとされる声に聞き、語り、そのように歩みましょう。

イザヤ書 51章
主はアブラハムの子孫であるイスラエルに対してどこから切り出されたかを思い起こすように語り、主にある慰め、回復を語ります(1-3)。わたしの民よと語り、主のおしえ、さばき、諸国の光、義、救いに耳と目を開くように語ります。主の義と救いは永遠です(5-8)。主の力強いみわざがエジプト(ラハブや竜)から救い出したように、主に贖われた者たちの嘆きと悲しみは逃げ、楽しみと喜びが訪れます。(9-11)。主こそ慰めるお方であり、このお方を忘れたゆえに苦しみにおかれました。しかし、このお方は「あなたはわたしの民だ」と語り続けてくださいます(12-16)。エルサレムは主の怒りの杯のゆえに、主の憤りのもとにおかれます(17-20)。しかし主は、そのよろめく杯、憤りの大杯を取り除き、エルサレムを回復してくださいます(21-23)。主は、主に背を向けるものをさばかれます。しかし変わることのない愛で「目覚めよ」と悔い改めを迫り、回復を与えられます。

イザヤ書 52章
「目覚めよ」とエルサレムに語り、無割礼の「異邦人」を打ち、町を奪還し、その回復が語られます(1-2)。後にバビロンに渡されるイスラエルは買い戻されます。その歴史を見てもエジプト、今はアッシリアによる苦難があって、民は主の御名を崇め、主の臨在を知るようになります(3-6)。神の救いのみわざ、エルサレムに、平和を告げ、王の帰還、贖い、諸国に明らかにされるこの知らせは、喜びの良い知らせです。これらの預言は終末の救い主の到来と宣教(ローマ10:15等)に向かいます(7-10)。捕囚の地バビロンを「去れ」と語られますが、それ以上に汚れから離れ、身を清めよと呼びかけます。主は前に、しんがりになられます(11-12)。「主のしもべ」(42,49,50章)について、高められるお方は、同時に人の子とは思えないほどに苦しまれます。私たちを罪から解放される救い主イエス様に目を向けずにはおられません(13-15)。解放者、王、救い主イエス様を覚えます。

イザヤ書 53章
前章から続く「しもべ」の苦難の姿が描かれます。彼は人々が慕う姿もなく、捨てられ、悲しみの人です(1-3)。人々の病、痛み、背き、咎を負い、それにより人々に平安と神との関係に癒しを与えられます。しかし人々は理解しません(4-6)。自らその苦しみに服従し、贖いのいけにえとなり、死なれ、悪者と葬られます。しかし民は彼が私たちの背きの罪のために打たれたことを理解しません(7-9)。このことはすべて主のみこころです。その代償により新しい民、義とされた民が起こされます。そのとりなしにより、多くのものたちが彼のものとされます(10-12)。言わずと知れた苦難のしもべの預言であり、イエス様の受難、十字架の死と勝利の預言です。当時の人々にとってもメシアの姿をこのように描くことを受け入れがたいことだったでしょう。しかしそれは主のみこころであり、そこに主にある平安、神との関係の回復、罪咎の赦し、新しいいのち、義、そして勝利があります。

イザヤ書 54章
廃墟となったエルサレムの町を不妊の女、夫に捨てられた女と語り、しかし滅亡前(夫のある女)よりも多くの恵みを受け、天幕が広げられると語られます(1-3)。捕囚の恥は取り除かれ、夫である全地全能の贖い主である神は、永遠の真実の愛をもって、憐れんでくださるお方です(4-8)。ノアの出来事と重ね合わせ、再びそのようなことは起こらないという神の真実の愛、平和の契約が誠実に履行されることを約束します(9-10)。これから訪れるさばきとしての捕囚とその先にある回復、苦しみを経てエルサレムは高価な宝石で飾られ、栄光に輝く様が預言されます。主が教え、平和と義が訪れます。敵も武器も打ち砕かれ、責め立てる者は罪に定められます。ここには主のしもべたちと呼ばれるものが受ける恵みが語られます(11-17)。これはイザヤの時代を超えて、さらに救い主の到来と完成に向かう希望です。私たちはまさにその時代に生き、その先を目指して歩む途上にあります。

イザヤ書 55章
飢え渇く者に、永遠に真実な約束を果たされるお方のもとに来て、無条件に受け、生きるように語られます。物質的な必要を超えて、霊的な必要を満たされるお方が輝かせてくださいます(1-5)。お会いできる、今という時に主を呼び求め、近づくように招きます。悪を捨て、主に帰るならば、主はあわれみ、赦してくださると招き続けます(6-7)。神のご計画は、天が地よりも高いように私たちと異なり、自然の営みの様に、必ず意味があります。主の口から出ることばは、必ずことを成し、実現します(8-11)。主の約束に信頼し、主に従う者は、喜びをもって出て行き、平安の内に導かれ、喜びの歌声を上げます。罪やのろいが祝福に変わるという回復は、主の記念となり、永遠のしるしです(12-13)。ここには後のバビロン捕囚が念頭にありつつ、終末における希望のことばです。苦しみの中にあっても、神の招きに応じ、約束の実現を信じ、今日という日に希望をもって歩みましょう。

イザヤ書 56章
主の民の礼拝の姿が描かれます。そこには捕囚から帰還した民がどのように生きるべきか、また終末の時に主のしもべに贖われるすべての諸国民の姿でもあります。彼らは神の律法に基づく公正と正義を行うように語られます(1)。礼拝者として安息日を守り、聖なるものとして悪を行わないようと語られます。異邦人も、主の集会から除外された宦官さえ(申23:1)、幸いを受け(2―3)、主の民と呼ばれます。誰もがエルサレムの神殿で祈ることができ、そこは祈りの家となります。やがてすべての国民が主の名において集められる時がきます(4-8)。現実の姿はイスラエルの敵としての獣がやって来ても、見張り人である指導者たちはそれに気づかず、なすべき働きを怠る姿が描かれます。主を恐れない者はその生き方の責任を問われます(9-12)。主は、やがて主の名のものに諸国民を集められます。教会はすべての人の祈りの家として主の名で呼ばれる人々が集う場所です。

イザヤ書 57章
前章の後半部分から続く、神に心を向けないイスラエルの民の堕落と偶像礼拝の姿が責められます。義人は死に際しても平安があります(1-2)。しかし民は呪術を求め、偶像の神々と姦淫し、偶像礼拝が行われた木の下で身を焦がし、子どもを犠牲とするモレク礼拝を行い、石を神とあがめ、不道徳を行い、神ではなく、王(モレクか)により頼みます(3-10)。あなたは誰を恐れるのかと問われます。偶像の神々に頼る者は空しく、「しかし」主に頼る者は祝福を受け、エルサレムで真の王である主を礼拝すると語られます。それゆえ、悔い改めて、神のもとへ帰れと語られます(11-14)。いと高き主は語られます。主はへりくだったものとともにあり、主は赦し、主は癒し、主は導き、主は慰めてくださるお方です。誰であっても悔い改めの唇の実をもって近づくなら平安を得ます。しかし悪しき者はそうではありません(15-21)。主の前に悔い改めるべき生き方はないでしょうか。

イザヤ書 58章
前章の偶像礼拝の姿に続いて、偽善の断食と安息日に対する罪が告発され、神とのふさわしい関係(契約)の回復について語られる(1)。民の断食による祈りは形式的で、その思いは神から遠く離れ、その偽善こそが神を遠ざけます。またその態度も、弱いものを圧迫し、争いと喧嘩が満ちていました(2-5)。主の求める断食(祈り)は、社会において、家庭において、愛と真実を伴う行為です。虐げられているものに自由を、飢えた者には食物を、家族への愛を、その時に主は答え、主の栄光が現われ、主の祝福があり、破れを繕うものとして回復と平和が実現します(6-12)。さらに、安息日を自分勝手に過ごすことをやめ、主の聖日として、誠実をもって、主を喜びとして過ごすならば、主はあなたに安全な場所を与え、あなたは主によって養われると約束されます(13-14)。神の前にきよく汚れのない宗教は弱い者への愛を表す(ヤコブ1:27)ことによって示されるのではないでしょうか。

イザヤ書 59章
主の御手が短いのでも、主の耳が聞こえないのでもなく、あなたの罪咎が主を遠ざけ、御顔を隠させると語られます。彼らは悪を生み、その道筋には公正がなく、平和がありません(1-8)。公正も義もなく、それゆえに闇。闇の中を手探りしながら歩み、まるで死人。熊のようにうなり、鳩のようにうめき、救いは遠く離れ、罪、背き、咎、反逆、偽りが満ち溢れます(9-15)。その姿に主は心を痛められます。また主はとりなし手がいないことに唖然とされます。それゆえ、主ご自身の御腕が救いをもたらし、ご自身の義を支えとされます。主は激しく行動されます。主が贖い主となり、主がイスラエルを回復されるお方となられます(16-20)。これは主の変わることのない約束(契約)によります。主の約束は変わることがありません(21)。自分たちの罪の現実、神との関係、しかし主の約束は変わらず、主は贖い主であり、主に悔い改め、立ち返るものを回復してくださいます。

イザヤ書 60章
この章は終末の時における栄光の姿が描かれます。主の民とされた者たちに「起きよ、輝け」と語れます。それは「主の栄光」で輝くのであり、暗黒の中に、諸国の間で光となります(1-3)。諸国から人々が富を携えてシオンの山、新しいエルサレムに集められる様子が描かれます。南はミディアン、エファ、シェバ、西はスペインにあった港タルシシュなどの名が挙げられます。主の誉れ、主の名のためにやってきます(4-9)。さらに崩された城壁の回復が語られます。これは捕囚後、それ以上の祝福の約束は終末における神の国の確立(黙21章)に向かう壮大な預言です(10-16)。その国は平和と正義で治められ、救いと賛美が城壁となり、また門となります。主の栄光が町を照らし、夜がなく、嘆き悲しみは終わり、大小、強弱の違いなく祝福が「時が来れば」実現します(17-22)。素晴らしい終末の約束です。救い主御子の誕生に始まり、その完成の時(黙示21、22章)を待ち望みつつ。

イザヤ書 61章
前章に続いて終末における主の民の祝福の姿が描かれます。主の霊が上にあり、主に油注がれたものによる回復と解放、悲しみが喜びに変えられます。これはまさに救い主イエス様において(ルカ4章)完成していく預言です(1-3)。主の臨在があるエルサレムの町の回復が語られます。イスラエルの民は再び主の祭司と呼ばれ、回復と祝福が約束されます。これは終末の時代、主にある民の約束(Ⅰペテロ2:9-10)となります(4-7)。主は公正と真実を行い、永遠の契約を結び、主にある者たちを諸国の間で祝福されると語られます(8-9)。イザヤは、主の民は大いに喜ぶと語ります。それは救いの衣、正義の外套、主の栄冠を受けるからです。神の民は義と賛美の芽を出し、その栄光は諸国に明らかにされます(10-11)。以前は神の民ではなかった私たちが今は神の民とされた恵みはいかばかりでしょうか。その恵みに感謝して、今日もそれぞれのところに歩み出しましょう。

イザヤ書 62章
主あるいは預言者はエルサレムのあるシオンのために叫び、行動を起こされます。主の義と救いが、国々の間に光のようにはっきりと示されます。新しい名と冠が与えられ、主の手の内にある守りが約束されます。荒廃した地は回復し、主が夫となられ、主のものとしてあなたを喜ばれると約束されます(1-5)。主はエルサレムに見張り番を立て、彼らは叫び続けます。それは完成の時までの多くの預言者たち、そして主にある者たちが主のみ救いを語り続ける姿と重なります。ついにエルサレムは堅く立てられます(6-7)。その地を敵が征服し、収穫物を奪うことはありません(8-9)。エルサレムへの道は整えられ、全世界の人々にはっきりと宣言されます。救いの完成です。主に贖われた者たちは聖なる民として神の都に住むのです。この預言は新しいエルサレム、終末の新天新地(65:17)に向かっていきます(10-12)。私たちも主のみ救いを伝え続けてまいりましょう。

イザヤ書 63章
エサウの子孫エドム、その都市ボツラは死海南方にあり、彼らに代表される神の民に敵対する者たちへのさばき(参34章)の預言です。血で衣が染まります(1-6)。神の民に敵対するものへの復讐の日は、民の救いの時となります。神のあわれみと恵みが歌われます。主はイスラエルが苦しむ時、ともに苦しみ、臨在が彼らの救いであり、昔からずっと背負い、抱いてきました。しかし彼らは御霊を悲しませ、逆らい続けました(7-10)。主に逆らい、主が敵となられた時、民は、出エジプトの出来事を思い、奴隷から不思議なみわざをもって贖い出し、荒野を導き、御霊により憩いの場である約束の地を与えられたお方はどこにいるのかと歌います(11-14)。そしてイザヤは祈ります。あなたのあわれみを再びこの民に注いでください。主よ、あなたは父、贖い主です。民を迷わせないでください。民のもとにお帰り下さいととりなします(15-19)。イザヤの祈りが、私たちの祈りともなるように。

イザヤ書 64章
イザヤの祈りが続きます。神は偉大な力をもって地に臨み、御前に敵対するものは恐れおののきます(1-3)。このように人に関わる神がいるか。神は待ち望む者、正義を行う者に目を留められるが、罪人に対しては怒られます。イザヤは、聖なるお方の前に「私たちは救われるのか」と語り、民の一人として自分たちの罪を告白し、祈ります(4-7)。「しかし」と、主は私たちの父、陶器師、私たちは粘土で、あなたの御手のわざであると告白します。それゆえ、あなたの民に目を留めてくださいと、あわれみを求める祈りに変わります。やがて荒廃するエルサレム、祖父たちがあなたをほめたたえた場所、私たちが宝としたその場所をそのままにしないでくださいと回復を求めます(8-12)。その最後に「あなたはじっとこらえ」と民の苦しみは主の苦しみであることが語られます(63:9、15)。罪をさばかれるお方は、それ以上の愛をもって私たちの赦しを、回復を、悔い改めを願う神です。

イザヤ書 65章
イザヤの祈りに主は応えられます。異邦の民にも恵みが注がれます(1)。反逆の子らイスラエルはあわれみの手が述べられていたにもかかわらず、偶像礼拝、神の忌み嫌うべきことを行ったゆえに報いを受けます(2-7)。しかし民の中には主のしもべたちがおり、神は民を完全に滅ぼすことはなさいません。残りの民の祝福と回復も約束されています。何より支配者はユダから出るのです。のろいの谷アコル(ヨシ7章)も祝福の場所となります(8-10)。しかし誰であれ、偶像に従うものは滅びます(11-12)。主に従う者と、そうでない者の姿が対比して語られます。新しい名で呼ばれる恵みで分かたれます(13-15)。最後に新天新地の恵みが預言されます。完成の時、新しいエルサレムの姿です(黙21:1-4)。神の支配のもとにあって、恐れもなく、被造物の平和、まさに創造の回復、完全な完成が描かれます(16-25)。将来の姿を信仰の目をもって仰ぎ見つつ、今日を歩みましょう。

イザヤ書 66章
厳しい現実の中で、イザヤを通して至高なるお方の宣言が語られます。神が目を留めるのは、心打ち砕かれ、遜って主のことばに聴く者です(1-2)。形ばかりの礼拝者、偶像礼拝者を主は忌み嫌われます。彼らはまた主を恐れる者たちを嘲ります(3-5)。しかし神は敵するものへ報復し、陣痛前に出産が起こるように、速やかにエルサレムを回復します。主の民は増え、嘆きは大いなる喜びに変えられます(6-11)。主の手による大いなる祝福は、豊かな川、母の慰めのように満ち溢れます(12-14)。しかし、神に敵する者たちには主の憤り、激しいさばきが現わされます(15-17)。やがて主の栄光は全世界に示され、イスラエルの民が祭りに上るように諸国の民が集められます(18-21)。その主が造られる新天新地において、主の民は永遠に歩み、永遠に主を礼拝し続けます。しかし敵対するものに待つのは滅びです(22-24)。主を恐れるものにある慰め、喜び、祝福を覚えて、ハレルヤ。