ホセア書

ホセア書
預言者ホセアは、預言者イザヤと同時代(紀元前8世紀)の人物で、主に北王国について預言し、数十年間、活躍しました。ヤロブアム二世(前786年頃から746年頃、若干のずれあり)の時に、北イスラエルはかつてないほどに繁栄しますが、民の信仰は退廃の一途をたどります。やがてヤロブアムの死後、王は次々に代わり、国は混乱し、ついにアッシリアによる首都サマリア陥落が起こります(前721年)。その時代に、ホセアは神様から姦淫の女を妻にするように命じられ、彼女に裏切られながらも、彼女を愛し続けます。その姿は神様がイスラエルの民を愛する姿を体現します(1-3章)。四章以降では、まさに神様とイスラエルの民の関係について、神に背を向ける民へのさばきと、しかしなおも愛し続ける神様の変わることのない愛が描かれ、それゆえ、民に対して悔い改めて、神に立ち返るようにと語り続けます(3:1,6:1、11:8、14:1)。私たちはこの書の中に神様の変わらない愛を覚えます。

ホセア書 1章
ホセアは北イスラエルのヤロブアム二世の終わり頃から北イスラエル崩壊の頃まで活動しました(1)。主は、ホセアに、姦淫の女ゴメルを妻とするように命じます。姦淫は結婚前か、結婚後か、とにかくホセアの結婚は喜ばしいものではありませんでした。そのことは、それより悲惨な神とイスラエルの関係を象徴し、体現するものでした(2―3)。ホセアは、自分の子(あるいは姦淫の子か)、三人の子が与えられます。かつて流血のあった地「イズレエル」(Ⅱ列9-10章)は王家のさばきを、「ロ・ルハマ」は北イスラエルからあわれみが取り去られることを、そしてわたしの民ではない「ロ・アンミ」と、厳しいさばきの預言が子の名を通して語られます。しかし南ユダは人の手によらず救い出されます。(4-9)。しかし、なおも神様はイスラエルの民を愛し、のろいが祝福に変わる回復の預言を語られます(10-11)。そして、その祝福は異邦人にまで及びます(ロマ9:25-26、Ⅰペテ2:10)。

ホセア書 2章
姦淫の女ゴメルをめとったホセアを通して、主はイスラエルの民に「言え」と語ります。一節は前章の続きで回復のことばです(1)。イスラエルの姿は、愛人の後を追うゴメルの姿と重ね合わされ、わたし(主)を離れ、偶像の神々を追いかけたと主が告訴します(2-7)。主は豊かな実りをもって民を養いました。しかし民は豊穣の神バアルを慕ったゆえに、主は産物をのろい、さばかれます。それは主を忘れた民を連れ戻すためでした(8-13)。主は真実なお方で、さばきの後に民を立ち返らせます。わざわいの谷アコル(参ヨシ7章)が望みの門に、出エジプトの荒野が恵みとされたように主は赦しと回復を与えられます。その時、偶像の名は取り除かれ、安息が訪れ、義とさばきと恵みとあわれみと真実をもって契約が結ばれ、主を知る時がきます。そして、その最後は、救い主の到来と完成にまで目を向けます(14-23)。主を忘れていませんか。「主のみ」との純潔な関係がありますか。

ホセア書 3章
ホセアは、再び、自分を裏切った姦淫の妻ゴメルを愛し、彼女を買い戻すように命じられます。彼女は奴隷あるいは神殿娼婦となっていたのかもしれません。自分を裏切り続ける妻を、犠牲を払って連れ戻すホセアの痛みはどれほどのものだったでしょうか。それはイスラエルの民を愛し続け、犠牲を払う神の愛を表すものでもありました。干しぶどうの菓子とは偶像にささげられるもので、偶像礼拝に陥っている民の姿であり、神を裏切る姦淫の姿を示しています。ホセアはゴメルを家にとどめ、他の男たちから遠ざけ、誠実な応答を求めました(1-3)。それはイスラエルの民を捕囚にとどめ、王や神殿、また偶像から遠ざけ、主なる神に帰ってくることを求めた神の姿と重なります。そこには神の愛が貫かれます。さらにこの回復の預言は、終末の時、ダビデの子孫として来られる救い主、王なるお方にも向かいます(4-5)。神の愛は王なる御子を犠牲にする愛を通してはっきりと示されました。

ホセア書 4章
この章から北王国の罪が法廷で訴えられるように列挙されます。罪の結果、農作物も生き物ものろわれます(1-3)。祭司や預言者は主の教えによって民を導く責任がありながら昼も夜もつまずき、国を滅ぼします(4-6)。祭司たちは罪のいけにえに伴う取り分を求め、民の咎を期待する始末です。その栄誉ある働きは恥となり、報いを受けます(7-10)。祭司も民も、酒に酔い、木の偶像に伺い、山や丘で偶像礼拝を行い、不品行が横行し、自ら滅びに落ちます(11-14)。北王国にならわないように南ユダに警告が語られます。聖所の町は偶像礼拝の場となり、「主は生きている」と口先では言いながら、偶像にいそしみます。主は彼らをなすがままにさせ、その結果、他国の風によって吹き飛ばされます。(15-19)。真実、誠実、神を知ることもなく罪に身を焦がし、自ら滅びに落ちていく姿が自分やこの世と重なります。祭司とされたキリスト者として真のとりなし手となっているだろうか。

ホセア書 5章
北王国イスラエル(エフライム)の祭司や王に「聞け」とさばきの宣告が語られます。礼拝の町であったミツパやタボルは偶像礼拝の場所になり下がり、姦淫の霊によって、彼らは身も霊的にも姦淫を犯し、神から離れているゆえに、どんなに、いけにえをささげ、祭りを祝っても、主を知ることはできません。しかし主は彼らをご存じです(1-7)。それゆえ北王国へのさばきの宣告です。事実、アッシリアによる侵略が起こります(参:Ⅱ列16章、Ⅱ歴28章)。シミや腐れのように主のさばきが広がっていきます。それは南ユダも例外ではありません。彼らは人の決め事に頼り、人に救いを求めます。しかし、そこに助けはありません。なぜなら主なる神が獅子のようにさばきを行われるからです。しかし主は、彼らがその苦しみの中で神を慕い、探し求めることを望まれます(8-15)。主のさばきは厳しいものです。しかし回復の時でもあります。「聞け」と語られる主の声に聞き続けましょう。

ホセア書 6章
ホセアを通して主は「さあ、主に立ち返ろう」と招きます。「主は…引き裂いたが…癒やし…打ったが…包んでくださる…主は生き返らせ…立ち上がらせ…御前に生きる」と。それゆえ私たちは「知ろう」「主を知ることを切に追い求めよう」と語られ、そうするならば、主は確かに現れてくださり、雨のように地を潤されます(1-3)。そして主は語ります。イスラエルの愛は朝もや、露のようにすぐに消え失せ、それゆえ主のさばきが速やかに訪れます。主が求められるのは形式的な礼拝ではなく、真実の愛で生きることです(4-6)。民はアダムのように契約を破り、町には不法と暴力があふれ、祭司たちさえも悪に手を染め、不品行に陥り、まさにおぞましい姿、汚れた姿をさらします。それは南ユダも同じです。刈り入れすなわちさばきは必ず起こります。しかし「民を元どおりに」とは一筋の光です(7-11)。主は罪をさばき、引き裂かれますが、いやされるお方です。なお深く主を知ろう。

ホセア書 7章
この章には、北イスラエル(エフライム、サマリア)の罪の現実とそのさばきが描かれます。主が民を癒そうする時、その罪があらわにされます。神は民の罪をご存じです。民は偽りと欺きで指導者を喜ばせ、指導者も同じで、罪が弱まったかと思うと、鳴りを潜め、またかまどのように燃え上がります。誰一人主に心を向けません(1-7)。片焼きのパンのように中途半端で、一方に神、一方で他国に頼り、高慢となるゆえに、神は彼らをさばかれます(8-12)。神との契約を自ら破ったゆえに苦難を招きます。主は彼らをあわれみにより贖い、強めたにもかかわらず、困った時の神頼み、上っ面の礼拝で応えます。決して、心から神に立ち返ろうとはしません。彼らは役に立たない弓で、それゆえ剣に倒れ、他国によって恥を受けます(13-16)。神様との契約に生きるとは、神だけに人生の拠り所を見出し、信頼して生きることではないでしょうか。私たちの人生の土台はどこにあるのでしょうか。

ホセア書 8章
神との契約を破った彼らに待っているのは敵の来襲、死体に群がる鳥です。民は主を知っていると叫びますが、口先ばかりで、偶像礼拝者です(1-3)。彼らは自分勝手に王を立て、子牛の偶像を作ります。神はそれを砕かれます。麦は穂をつけず、たとえ実をつけても敵に奪われます。むなしいもので蒔く者は、すべてを無に帰すのです(4-7)。誰もイスラエルに目を留めず、他国にへつらっても何の役にも立ちません。指導者たちは連れ去られます(8-10)。どんなに形式の礼拝をささげても、それは罪を重ねるだけです。主の教えは、自分たちとは無関係とばかりに彼らの耳に響きません。見せかけのいけにえは主を喜ばせず、不義となります。そのさばきはエジプトの苦難の時のようです。それは、北イスラエルだけでなく、南ユダも人の作った城壁の町に安住し、造り主を忘れるので、主はさばかれます(11-14)。私たちのくちびる、耳、思い、行動、礼拝、信仰は主の前に純粋だろうか。

ホセア書 9章
繁栄を謳歌する民に、喜び楽しむなと語られます。偶像により頼み、それで収穫を得たと喜ぶ民に、やがて捕囚というさばきが訪れます。彼らは異国の地で偶像にささげられたものしか食べられず、主への礼拝もできません。エジプトに逃れるものも葬られます。預言者や霊の人まで堕落し、ギブア(士19-20章)のような状態です。ホセアは、その日が必ず来ると見張り人として警告します(1-9)。神がかつてイスラエルをどのように見出し、大切なものとして扱われたかを語ります。しかし彼らは異教の神々に身を委ね、自らが忌まわしいものになりました。多産の偶像に頼りながら、その子孫が失われる現実が訪れます(10―13)。ホセアはその悲惨を嘆きます(14)。主は「もはや彼らを愛さない」とまで厳しい言葉で語られます(15―16)。彼らは聞き従わなかったゆえに、「さすらい人」として諸国に散らされます(17)。それでも愛している。「だから」と根底に流れる声を聞き続けましょう(11:8)。

ホセア書 10章
イスラエルは神の愛を受け、繁栄するほど、ますます神を離れ、偶像礼拝に陥ります。王は次々に変わり頼りになりません。彼らが頼りにしたベテルの子牛はアッシリアに持ち去られ、その場所は荒廃します。その悲惨は、山に埋められる方がまし、隠してくれと叫ぶほどです(1-8)。ギブアでの出来事を思い起こしつつ(参9:9)、彼らの罪深さ、また偶像や他国に頼る不義のゆえに、牛が脱穀の楽な仕事から耕作の重労働につくように、厳しいさばきが臨みます。ホセアは正義を蒔き、誠実を刈り取れと悔い改めを迫り、「今」こそ、主を求める時、主の救いを受けよと叫び続けます(9-12)。しかし、不正と不義に身を委ね、自分の力により頼むゆえに、彼らは厳しいさばきを受け、王もすぐに滅ぼされます(13-15)。罪の現実とさばきのきびしさ(ルカ23:30、黙6:16)が語られるのは、「今」こそ、主を求め、救いのための愛の招きです。聞きましょう。叫び続けましょう。

ホセア書 11章
神は親が子を愛するように、イスラエルを愛し、エジプトから救い出し、彼らを教え、いやし、むちでなく愛の絆で導き、くつこを外して食べさせたにもかかわらず、彼らは呼べば呼ぶほど偶像に仕えました(1-4)。人間のはかりごとむなしく、町の城門は打ち破られ、アッシリアに引いていかれます。彼らは頑な民です(5-7)。しかし主は彼らを見捨てることができないとその思いを吐露されます。かつて滅ぼされた死海南端の町々(申29:23)のようにはできないと主はあわれみで胸を焦がします。主は彼らを完全には滅ぼし尽くさないと約束されます(8-9)。やがて彼らは、捕囚の地から、主の前に恐れおののきながら、罪を嘆き、震えながら帰ってきます。そして主の家に住みます(10-11)。この時、北王国に比べるなら南ユダはまだ忠実でした(12)。主は愛と正義の葛藤の中でイスラエルを、そして私たちを待っておられます。その愛を覚えつつ、私たちもその愛に生きましょう。

ホセア書 12章
ヘブル語聖書では前の節から始まりますが、この章は北王国の現状と父祖ヤコブの姿を思い起こさせ、背を向ける彼らへのさばきが語られます。彼らはむなしく、危険を伴う外国に頼りました(1)。ユダもイスラエルも告発され、その行いに応じて報いられます。彼らの父祖ヤコブは兄を押しのけるようなものでしたが(創25、27章)、神と格闘し(32章)、ベテルで語られ(28章)変えられたように、あなたがたも神に立ち返り、誠実を行い、神を待ち臨めと語られます(2-6)。さらに、富を得るため弱者を虐げ、偽り、高ぶる姿が描かれます(7-8)。神は、預言者を通して語ってきたにもかかわらず、仮庵の祭りで覚える荒野の天幕生活のように、アッシリアで捕囚となります(9-10)。偶像礼拝を行う民、しかし主はヤコブが妻を迎えるため羊の番をしたように(創29章)、モーセを通して守られました(11-13)。北王国には主の怒り、報いが返されます(14)。わたし(主)に帰れ。

ホセア書 13章
北王国へのさばきが近づいて来ます。エフライムは主を恐れ敬っていたにもかかわらず、偶像礼拝に陥り、露のようにさばかれます(1-3)。主はイスラエルをエジプトから救い、荒野で守り、約束の地に導きましたが、民は高ぶり、主を忘れました。それゆえ主は獅子のように彼らをさばかれます(4-8)。彼らの父祖は神でなく、他国のように人間の王を求めました(Ⅰサム8章)。しかし彼らは助けにも、救いにもなりません。罪を増し加え、生まれ変わろうとしない彼らは、難産の子のようです(9-13)。十四節は祝福とも、さばきの宣告とも解釈されます。神はよみと死を支配されるお方で、民へのあわれみが「変わらない」、あるいは逆に「もうない」と語られます(14)。彼らがどんなに繁栄を誇っても、神への背きの中にあって、やがて東風、アッシリアによって滅びを刈り取ります(15-16)。助け手、救い主、死に打ち勝った主(Ⅰコリント15:55-56)に背を向け続けるのは誰でしょうか。

ホセア書 14章
ホセアは「主に立ち返れ」と繰り返し語り、罪の告白をもって主の赦しを求め、主への賛美を唇の果実としてささげ、他国や偶像に頼ったことを悔い改めるように語ります(1-3)。そうするならば、主は「彼らの背信を癒やし、喜びをもって彼らを愛する」と語られます。主は草木にいのちを与える露のように民を生かし、保護し、生き返らせ、芽を吹かせ、さらに諸国からの名声も回復されます。イスラエルは神のもとにある時、そのような祝福を受けるのです。主が世話をされるのです(4-8)。それゆえ、これらのことばを悟り、知り、主の平らな道を歩むようにと語ります。正しい者はこの道を歩む者、背く者はこれにつまずくと語られ、預言のことばは閉じられます(9)。神様は変わることなく民を愛し、喜び、赦し、民が御許に帰ることを待っておられます。その姿はホセアの結婚によっても示されました。正しい者は主に立ち返り、主の道を歩む者です。私たちはどうでしょうか。