ゼカリヤ書
預言者ゼカリヤは、ハガイ、マラキとともに捕囚後の預言者です。イドの子ベレクヤの子(1:1、参エズラ5:1等)で、祭司(ネヘミヤ12:4-7)と思われます。時は、ダレイオスの第二年(前520年)、ハガイとともに、神殿再建の妨害で意気消沈している民を励まします。内容は、大きく前半(1-8章)が、その時代の人々に語られ、悔い改めへの招きから始まり、八つの幻、そして最後にエルサレムの回復が語られます。後半(9-14章)は、将来に関する預言的な内容で、終末におけるメシアの到来、神の国の実現が語られます。この書は救い主の到来について多くの預言がなされています。それはキリストの誕生で実現し、再臨で完成します。この書に登場する大祭司ヨシュアや総督ゼルバベルは、そのメシアのひな型です。私たちは、未来のことを十分に知り得ません。しかし、神が支配しておられます。平和の主に信頼して歩みましょう(9:9-10、マタイ21:5)。
ゼカリヤ書 1章
ダレイオスの第二年(前520年)、神殿再建にあたり、主はイスラエルの民に「わたしに帰れ」、そうすれば「わたしも帰る」と約束されます。そして、同じ様に先祖たちに語られたが、彼らは立ち返らなかったと言われます(1-6)。しばらくして、ゼカリヤは第一の幻を見せられます。それは地を行き巡るみ使いと馬でした。彼らは、全地は安らかで、穏やかであると報告します。するとみ使いは、それなのに、なぜエルサレムはなおも荒れ果て、あなたはあわれみを施されないのですかと問います。すると主は、恵みと慰めの言葉で答えます。主はイスラエルをねたむほどを愛し、敵に怒ります。主は帰り、宮を建て直し、「再び」と回復を語られます(7-17)。第二の幻は角の幻で、イスラエルを散らした角(敵)は、続く四人の職人により散らされると語られます(18-21)。神とのふさわしい関係に帰ろう。神の愛、あわれみ、慰めは尽きない。確かに、神は神の民に敵対するものを滅ぼされる。
ゼカリヤ書2章
第三の幻は、量り綱をもった人が、エルサレム再建のために測りに出ていきます。ところがみ使いは、やがて城内に人と家畜があふれ、城壁は必要なく、なぜなら主が火の城壁となり、栄光となると、主の守りと臨在を宣言します(1-5)。主はバビロンにとどまり続ける者たちに帰還を呼びかけられます。主がどれほどイスラエルの民を大切に思っているかについて、あなたに触れる者は、わたしの瞳に触れるものとなると比喩で語られます。そして主の民に喜び楽しめと語られます。なぜなら主がそのただ中におられるからです。主は再びエルサレムを選ばれます。「その日」は終末の時に向かいます(6-12)。そして、主が立ち上がるゆえに、人はただ主の前に静まり、主に信頼するのみです(13)。神殿再建の葛藤の中、この幻はどれほどの励ましとなったことでしょうか。そして、今日、神の民とされた私たちにもこの約束は響き続けます。主が立ち上がられます。主の前に静まれ。
ゼカリヤ書3章
第四の幻は、大祭司ヨシュアが汚れた服をサタンから責められています。罪の姿、また異教の地にあって汚れた民の姿も重なります。しかし主は、責めるサタンをとがめます。み使いは、大祭司の服を着替えさせ、咎を除いたと宣言します。神様が罪を取り除き、義としてくださるのです(1-5)。主の使いは祭服を着せられたヨシュアに、主の道に歩み、戒めを守るなら、再び祭司として主の家に仕えると語ります。さらに、主は、若枝を来させるという約束を語ります。これは、真の大祭司、救い主の到来です。そのお方は、すべてをご覧になり、完全なる、主のものであるお方です。その方を通して、その地の咎が除かれます。その日には、喜びと平和がもたらされます(6-10)。若枝なるキリストが来られました。告発者であるサタンは罪を責め立てますが、主はその汚れを取り除き、きよめてくださるお方です。そしてきよめられた者たちは、主の道を歩み、主の戒めに歩みます。
ゼカリヤ書 4章
第五の幻は、金の燭台です。七つの灯皿をもち、各皿に七本の管がついており、それらは二本のオリーブの木から油を受けます(1-3)。ゼカリヤは、み使いに、その意味を問います。まずみ使いは、総督ゼルバベルに、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」という主のことばで励まします。神殿再建は、人の力ではなく、ただ主によって実現します。大きな山のように見える困難も主の前には何ものでもありません(4-7)。神殿は確かに完成します。その時、み使いを通して語られた主のことばが確かであると知ります。再建開始の日は小さな日と蔑まれたが、やがて喜びとなります。七つの灯皿が照らすように、確かに主が目をとめておられます(8-10)。そして、オリーブの木は、ここでは二人の油注がれた者、総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアを指します(11―14)。主は人を用います。しかし、すべての働きは主のわざきです。それゆえ主の霊に、力により頼みましょう。
ゼカリヤ書 5章
第六の幻は飛んでいる大きな巻物です。おそらく両面には律法と違反への罰が書かれ、特に、ここでは盗みと偽りが指摘され、そこに徹底したさばきが語られます(1-4)。第七の幻は、大きな升の幻で、その中に、「邪悪そのものを」代表する一人の女が座っていました。これは、十一節でバビロンの地にある神殿におかれることから、偶像礼拝を意味しているかもしれません。それは升に押し込められます(5-8)。それは二人の女、み使いと思われますが、シンアルの地、すなわちバビロンに運び去られます。まさに罪が取り除かれます。このシンアルの地は、偶像と悪の象徴で、そこに葬り去られます(9-11)。罪の指摘とともに、その罪が取り除かれ、罪が打ち滅ぼされる幻です。私たちの内から取り除かれるべき偶像、邪悪なものは何でしょうか。それは神によって取り除かれる必要があります。罪はやがて滅びという結果を招きます。主イエスの十字架の恵みを仰ぎ見ましょう。
ゼカリヤ書 6章
第八の幻は四台の戦車の幻です。赤、黒、白、まだら毛の馬が数頭ずつ繋がれた戦車が、二つの青銅の山、神の御前から出て来る幻でした。それらは、天の四方の風を表わし、世界を治める様子についてみ使いは語ります。特に黒馬は北のバビロンに出ていき、さばきを通して、主の怒りを鎮めます。主こそ、全地の支配者なるお方です(1-8)。そして、ゼカリヤは、捕囚から帰還した三人からささげものを受け、金細工人に渡し、冠を作らせ、大祭司ヨシュアの頭にかぶらせよとの主のことばを受けます。建設中の神殿を目前に、ゼカリヤは時代を越えて、若枝が芽を出し、真の神殿を建て直し、威光を帯び、王であり祭司であるお方、その働きを兼ねるお方の預言を受けます。これはまさに来るべき救い主イエス様のメシア預言です。民は従うように語られます(9-15)。真の支配者がやがて来られます。そのお方は確かにこの世に来られ、そして再び、完成のために来られるお方です。
ゼカリヤ書 7章
ダレイオス王の第四年(前518年)、ある人々が、神殿再建も始まっているので、神殿崩壊を覚える断食をやめてもよいか尋ねてきました(1-3)。するとゼカリヤを通して主は、その断食は本当に主のため、すなわち心からの主への悔い改めから出ていたかを問われます。自分のために飲食するように、自分の不幸を嘆くだけのものではなかったか、と厳しく問われます。主は捕囚の前から預言者を通して警告してきました(4-7)。主が求めることは、真実のさばき、互いに誠意とあわれみを示し、弱い者たちを助け、悪から遠ざかることです(9-10)。しかし、彼らはそれを拒み、聞かず、神に逆らい、頑なになり、御霊により預言者を通して語られたみおしえに聞かず、主の怒り、さばきを受けました。彼らが神に聞こうとしないので、神もまた、彼らに聞かないと言われます。そして彼らは散らされました(11―14)。形式的になっていることがないか。主のことばに聞いているだろうか。
ゼカリヤ書 8章
神様のイスラエルに対する激しい愛が語られ、回復の約束が語られます。主は彼らのもとに帰り、彼らの内に住まわれます。主は再建される神殿で栄光を再び現されます。その時、平和が訪れ、人々は喜びの声を上げます。人には不思議に見えても、神の約束は実現します。主の民が世界から集められ、神と民の関係が回復します(1-8)。それゆえに勇気を出せと、神殿再建に取り組む民を、主は励まされます。平安と祝福が回復されます(9-13)。主は不義に対して必ずさばきをなさいますが、主の決意は揺るがず、幸いをも実現させます。それゆえ、神の民は正義を行うように語られます(14-17)。嘆きの断食が喜びの祭りに変わります。それゆえ、真実と平和を愛するようにと語られます(18-19)。そして、やがて、諸国の民も、イスラエルの神を求めてやって来るという終末に向かう預言が語られます(20-23)。今日の箇所から示される御言葉、あなたに語られた御言葉は何か。
ゼカリヤ書 9章
9章以降はますます終末への預言が色濃くなります。すなわち救い主の到来とさばきの預言です。北のダマスコ、地中海岸のツロ、ペリシテの町など挙げられ、諸国はさばかれ、イスラエルは主が衛所となって守られると語られます(1-8)。そしてメシア預言が語られ、イエス様のエルサレム入城によって実現します(マタイ21:5)。その姿は、力による勝利でなく、義、柔和の王として、平和による勝利が告げ知らされ、神の国が実現します(9-10)。民の回復は、苦難からの解放、望みを持つ捕らわれ人、神という砦に守られ、十分な回復、そして勇士の剣とすると語られます(11-13)。主の臨在とさばきは、嵐のように前進しますが、主の民に対しては盾となって守られます。民は喜び、救われ、宝石のようにきらめきます(14-17)。その日、救い主が敵を完全に打ち破ります。すでにイエス様が柔和な王として来られ、十字架で勝利を取られ、義、解放、希望を与え、最後に完成のために再び来られます。
ゼカリヤ書 10章
神こそ祝福を与えるお方で、偶像に頼る者は空しく、さまよいます(1-2)。指導者たちは正しく行わず、そんな羊飼いや雄やぎは叱責されます(3)。しかし真の羊飼いなる主は、民を勇士とし、勝利を与えます(4-5)。主のあわれみはイスラエルを回復し、連れ戻します。捕囚(さばき)は、決して彼らを捨てるためではありません。主は彼らの神であり、答えられます。それゆえ彼らは主にあって喜び、楽しみます(6-7)。主は民を集め、解放と回復を与えます。ここにはイスラエルの捕囚からの帰還を描きながら、さらには終末の時の神の民の姿にも重ね合わせられます。主はエジプトやアッシリアなどの諸国に散らされた民を集め、その数は土地が足りなくなるほどの豊かさです(8-10)。主は、苦難の海を乗り越えさせ(参:出エジ14:22)、敵を打ち破られます。主ご自身が力を与え、主の御名によって、彼らは歩き続けます(11-12)。主に頼り、主の御名によって歩み続けましょう。
ゼカリヤ書 11章
名産品が荒れ果てる様子は、偽りの指導者(牧者、獅子)へのさばきです(1-3)。屠られる羊を誰もあわれまないように、イスラエルの民を襲うさばきの時にも、主は救い出さないと語られます(4-6)。主はゼカリヤの象徴的行為を通して、良い牧者が拒否される姿を示します。ゼカリヤは羊を飼い、二本の杖を「慈愛」と「結合」と名付け、ふさわしくない牧者を退けますが、それは嫌われます。「慈愛」が折られます。それは神の愛の契約が破棄されることを示します。さらに労働への賃金を求めますが、働きに見合わない奴隷一人分、銀貨三十枚で値積もりされました。これは、主ご自身への値積もりでもありました(参:マタイ26:15)。そして「結合」も折られ、南北分断、民同士の分断が示されます(7-14)。ゼカリヤは愚かな羊飼いを示し、そして羊を気に留めないひどい指導者が起こされることを語ります(15-17)。今日の指導者はどうか。主へのふさわしい敬意が払われているか。
ゼカリヤ書 12章
天地を造られ、人の霊を造られた力あるお方による全イスラエルへの宣告です(1)。エルサレムを攻める者たちは、神の怒りという報いを受けます。ユダの首長たちは、神の力により、敵を焼き尽くします。ダビデの家は救われ、弱い者もダビデのように力ある勇者とされると語られます(2-8)。エルサレムは霊的解放に導かれます。主からの「恵みと嘆願の霊」が注がれることにより、彼らは自分たちのしたことを嘆き、悔い改めに導かれます。10節の預言は、究極的にはイエス様の十字架において成就します。そして、民の嘆き、悔い改めはエルサレムから始まります。それは王から始まり、宗教的指導者、そしてすべての氏族に広がっていきます(9-14)。この章は、終末の日、「その日」の預言がますます色濃くなります。主の霊が、人々を悔い改めに導く事が語られます。悔い改めが王や祭司から始まるように、今日、悔い改めは、教会、そしてクリスチャンから始まるべきではないでしょうか。
ゼカリヤ書 13章
「その日」、前章の悔い改めに続いて、主が罪と汚れをきよめられます(1)。偶像は絶ち滅ぼされ、偽りの預言者、汚れの霊が取り除かれます。偽預言者は、父母からも突き刺され、預言は実現せず、偶像礼拝による傷を隠し、働きを恥じ、身分を隠そうとします(1-6)。羊飼いを拒否したゆえに(参11章)、羊は散らされます。この預言は、イエス様の十字架を前に弟子たちが散らされる預言ともなりました(マタ26:31、56)。しかし、主は様々な試練の中にも「三分の一がそこに残る」と約束され、必ず残りの民がいると語られます。彼らは、金銀が精錬されるように、試練を通して純化されます。彼らは、主の名を呼び、主は応えられます。主は、彼らを、私の民と呼び、民は私の神と答え、主との正しい関係に歩みます(7-9)。終末の「その日」、きよめが起こり、悪が滅ぼされ、偶像は取り除かれ、偽預言者は恥じ入ります。試練の中にも、主に信頼し続ける残りの民がいます。
ゼカリヤ書 14章
終末の「主の日」に、諸国がエルサレムを攻め、蹂躙しますが、主はその敵を打ち砕かれます。再臨の時、キリストはオリーブ山に立たれます(使1:11)。その日、神の民は逃れ、自然界に異変が起こります。その日、主の恵みが注がれ、地を潤し、主が全地を治めます(1-9)。エルサレムは高くそびえ、エルサレムに平和が訪れます。敵は疫病の内に倒れます。主による混乱が彼らを襲います。しかし残りの民は、主を礼拝し、喜びの祭りに集います(10-16)。出エジプトの出来事も重ね合わせながら、神の下に来ない者、神との関係に歩まない者に下る神の刑罰が語られます(17-19)。残りの民は、その生活のすべてが神の前にきよめられます。すべてが主の前にきよいものとされます(20-21)。預言の中には、理解の難しい部分もありますが、主の日は、必ず訪れます。その日は、神の前に整えられた神の民の礼拝の姿があります。私たちは、その日を待ち望みつつ歩んで参りましょう。