ゼパニヤ書

ゼパニヤ書
預言者ゼパニヤは、南ユダ王国の善王ヒゼキヤ(前729-687年)の子孫(1:1)と考えられ、宗教改革を進めたヨシヤ王(前640-609年)の時代の南王国の預言者です。預言者エレミヤやナホムと重なると考えられます。時は、マナセやアモンの悪政のために国が腐敗し、それゆえにヨシヤ王の宗教改革(前622年頃、Ⅱ歴34:3-5)につながる時代です。その内容は、前半がさばきの宣告で、まずエルサレムに対する宣告(1:1-2:3)、諸国に対する宣告(2:4-3:8)があり、特に、その間に悔い改めが迫られます(2:1―3)。後半は、回復、救いの約束が語られます(3:9-20)。ゼパニヤは神のさばきと救い、正義と愛の両面を語り、それゆえに主に立ち返ることを求めます。私たちもその両面に聞き続ける必要があります。さばきは、民をきよめるためです(3:9)。そしてきよめられた民は、そのあわれみと赦し、救いのゆえに、主の喜びに生かされます(3:14-17)。

ゼパニヤ書 1章
ヨシヤ王(前640-609年)の時代、ゼパニヤは神のさばきを宣告します。南ユダへのさばきは被造物全体に及びます。主を礼拝しつつ偶像礼拝を行う者、異教の習慣にならう者、神殿を汚す者たちには、主のさばきの日が近くにあります。しかし、それは同時に聖別の日です(1-9)。その日、エルサレムのあらゆる場所で泣き叫びが響きます。主は、神のさばきはないとうそぶくものを罰し、財産も土地も打たれます(10-13)。主の大いなる審判の日は近く、すぐに来ます。その日は激しい怒り、苦難と苦悩、荒廃と滅亡、闇と暗黒、雲と暗闇の日です。それは主がなされることであり、それは主に対する罪のゆえです。金銀も偶像も彼らを救いません。主はねたむほどに民を愛するゆえに事を起こされます(14-18)。主のさばきは、民をきよめるためでもあります。主は必ずさばきをなされるお方です。そして、今もまた主の厳しいさばきの日が近づいていることを覚えて歩みます。

ゼパニヤ書 2章
南王国に対するさばきの宣告に続き、二章は悔い改めの招きから始まります。主の怒りの日が襲わないうちに、主を、義と柔和さを求めるなら、あわれみを受けられるかもしれない。へりくだり、主を求めるように招かれます(1-3)。四節以降は諸国に対するさばきの宣告です。西の地中海岸のペリシテ人(クレタ人は別称か)の五大都市の内、(ガテを除く)四つの名が登場します。彼らへのさばきは、主がユダの残りの民を顧み、元通りにされる時となります(4-7)。さらに死海の東のモアブ人や、その北に住むアンモン人へのさばきが、ソドムとゴモラ(創19章)になぞらえます。ここにも残りの民がその地を受け継ぐという回復が語られます。(8-11)。そして南のクシュ人(エチオピア)、北のアッシリアのさばきが語られます。「おごれる者久しからず」です(12-15)。私たちのうちにある高ぶりはどのように表れるでしょうか。終末のさばきに向かう時代、主の招きに応えましょう。

ゼパニヤ書 3章
反逆、汚れ、暴虐の町エルサレムが責められます。主の呼びかけに聞かず、戒めを受け入れず、政治家は弱い者を踏みにじり、宗教家は責任を果たさない。それゆえ主は正義をもって公正なさばきを行われます(1-5)。再び諸国のさばきが語られ、しかし主はエルサレムに、主を恐れ、戒めを受け入れるなら、完全には断ち切られない。主を待て、と語られます(6-8)。回復の時は、汚れが清められ、人々が一つとなり、主の御名を呼び、主に仕える時です。へりくだり、主に身を避け、不正や偽りを行わない残りの民は、主の牧場で安らぎます(9-13)。彼らには、喜び歌え、叫べ、心の底から喜び踊れ、わざわいを恐れるな、気力を失うなと語られます。救いの勇士、王なる主がただ中におられます。主は愛をもって安らぎを与え、あなたを喜びます。敵へのさばきは、民の回復です(14-20)。この希望の約束はイスラエル民族を超えて、すべて主を恐れる残りの民の終末への約束です。