マラキ書

マラキ書
この書は、神と民との対話という形式で進んでいきます。表題から始まり(1:1)、神の選びの愛が語られ、神「わたし」と神の民「あなた(がた)」の契約関係が確認されます(1:2-5)。その関係にも関わらず、イスラエルの罪の姿が指摘され、神に立ち返るように迫られます。その罪とは、祭司の不敬虔、結婚の問題、ささげものなどが語られます(1:6-3:18)。主は契約のゆえに、彼らを滅ぼし尽くしません。やがて訪れる主の日の預言(4:1-3)が語られ、もう一度、律法を記憶するように命じられ、最後に、救い主の先駆者として、預言者エリヤが遣わされると語られます。これが旧約聖書の最後のことばとなり、この後、約400年間、預言者は現れません。そして新約聖書の幕開けは、まさに道備えをするものとしてバプテスマのヨハネの誕生から開始されます。この書を通して、神との契約に連なる者とされた私と主との関係が生きたものとなっているかを思い巡らします。

マラキ書1章
神殿再建から時が経ち、民は形ばかりの信仰に陥ります。神はイスラエルを愛していると語ると民は「どのように」と反発します。主はヤコブ(イスラエル)を選び、愛したと、変わらない契約の愛を確認します(1-5)。神はイスラエルとの関係を親子関係、主従関係を例にして、いかに契約が守られていないかを責めます。特に、民を導くべき祭司たちの姿勢が責められます。祭司は「どのようにして」と反発します。それに対して神は、ささげものを蔑ろにする事によってと語られます(6-8)。マラキは神に嘆願してみよ、しかしあなた方を受け入れないと語ります。彼らは、偉大な主の御名を汚し、汚れた犠牲をささげます。しかし、やがて世界中の民が真の礼拝をささげる時がやって来ます。しかし、形式的な犠牲をささげる者、心の伴わないささげものをする者、ずるい者はのろわれると語られます(9-14)。私たちの礼拝、信仰生活はうわべだけになっていないだろうか。

マラキ書 2章
主は祭司たちに、主の声に聞き従うように語ります。しかし、もし従わないなら祝福をのろいに変えると語られます(1-2)。神は、レビ族に祭司としての契約を結びます。それはいのちと平安のため、神を恐れ、民に真理のみおしえを語り、平和と公正に生きるべきでした(3-7)。しかし、彼らは、その道をはずれ、レビの契約を破りました。それゆえ彼らは民からも軽んじられます(8-9)。マラキは罪人の一人として、神のみが、唯一の父であり、神であるにもかかわらず、私たちは契約を破り、偶像礼拝に陥り、異教徒と交わり、神を裏切ったと告白します(10-12)。どんなに叫んでも神は答えません。彼らは霊的姦淫だけでなく、妻を裏切り、契約を軽んじ、裏切ります(13-16)。宗教的姦淫、道徳的姦淫を責められても、彼らは「どのようにして」と鈍感な姿が描かれます(17)。神との契約を破り、その影響が実生活に及び、ますます罪に鈍感となっている姿が私にはないか。

マラキ書 3章
救い主、キリストの到来の預言です。その到来に先立ち「わたしの使い」が遣わされると語られます。これはバプテスマのヨハネにおいて実現します(1)。「契約の使者」、キリストは不義をきよめるために来られます。不義を行う者たちはさばかれます(2-5)。しかし変わることのない主は、決して完全に滅ぼさないとも語られます。それゆえ「わたしに帰れ」と招きます。すると彼らは「どのようにして」と答えます。神はささげものの不誠実さを責めます。彼らは「どのようにして」と答えます。神は十分の一をもって「試してみよ」と、律法に従い、神への信頼をささげものを通して示すように語ります(6-12)。しかし民は、神に仕えるのは無駄なこと、神の戒めを守ったところで何もなく、神を恐れなくても栄えているではないかとつぶやきます。しかし主は、主を信頼し、主に仕える者たちを宝とし、あわれみ、区別されます(13-18)。主に信頼する事を困難にしていることは何か。

マラキ書 4章
終わりの日の預言です。その日は、悪しき者が焼き尽くされる日です。その日は、主を恐れる者たちの救いの完成の日です。義の太陽が昇り、いやしがあり、喜びの完成の日です。悪しき者が完全に打ち砕かれる日です(1-3)。それゆえ、主を恐れる者たちよ、神の戒めを覚え、主の掟と定めに従うように語られます(4)。「主の大いなる恐るべき日」は、救い主の誕生によって開始された終わりの時が完成する日です。救い主の誕生に先立って、預言者エリヤが遣わされます。この預言は、バプテスマのヨハネにおいて成就します。その使命は、民の心を神に向け、悔い改めを迫ります。それにより、人々が滅びを逃れるためです(5-6)。キリストの誕生により、終わりの時が開始されました。義の太陽は昇り、癒しが行われ、喜びが溢れました。そして、もう一度、主は来られ、「終わりの日」で完成します。その間を生きる私たちは、神の戒めを覚え、主を待ち望みつつ、歩みましょう。