ハバクク書

ハバクク
預言者ハバククについてはほとんど知ることはできません。ヨシヤ王の死(前609年)の前後以降、バビロンによる南ユダ侵攻前(1:6、前597年頃)、預言者エレミヤと同時代と思われます。ヨシヤ王の宗教改革後の退廃、アッシリアの滅亡、バビロン、エジプトの間に南ユダは揺れ動きます。一章と二章は預言者ハバククと神の問答です。ハバククは南ユダの現状を嘆き、なぜ不正を見逃しておられるのですかと訴えます。神はカルデア人(バビロン)を通してさばくと語られます。ハバククは、悪しき国によってさばきがなされることに疑問を禁じ得ません。しかし神はその国をもやがてさばかれます。そして正しい人は信仰によって生きるのです(2:4)。三章はハバククの祈りです。神に背を向ける世界と人々の姿は現代にも通じます。しかし、やがてすべての人に神のさばきが及びます。正しい人は信仰によって生きるところに救いがあります(3:13、18、ローマ1:17)。

ハバクク 1章
「主よ」と叫んでも応えがなく、暴虐が満ち、不法がはびこり、主のみ教えはないかのように無視され、正しいさばきが行われないとハバククは南ユダの現状を主に訴えます。(1-4)。しかし主は黙っておられるお方ではありません。主はカルデア人(バビロン)を用いて、南ユダへの厳しいさばきを下されます。そしてバビロンもまた、自分が神であるかのように高ぶったゆえに、風のように過ぎ去り、罰せられます(5-11)。ハバククは、神の真実を信じながらも、なぜさばきのために、自分たちよりも悪い国を用い、民を容赦なく打たれるのかと訴えます。バビロンは人々を魚のように釣り上げ、高ぶり、容赦なく打ち滅ぼすような国であると訴えます(12-17)。「いつまでですか、主よ」との叫びたくなることがあるでしょうか。私たちに必要なものは忍耐です。時に、神は悪しき者さえも用い、すべて治め、そして必ず正義を行われます。主を信じて祈り求め、待ち望みましょう。

ハバクク 2章
ハバククは神に問い(1章)、その応答を注意深く待ち望みます。主の定めの時、終わりが必ず来るゆえに待てと語られます。うぬぼれ(己惚れ)るものは、神に向かいません。しかし正しい人は神への信仰(信頼)によって生きると告げられます(1-4)。そしてうぬぼれるものたちへの厳しい宣告が語られます。それはバビロンでありますが、さらには南王国、自己中心な人の姿にも重なります。彼らに審判が下ります。彼らは略奪者であり(5-8)、不正な利得で築いた家に住み(9-11)、血と不正で都を築き(12-14)、裏切りと暴虐を行い(15-17)、役に立たず、物言わず、息のない偶像を作り上げます(18-19)。しかし生ける神は御座から正しいさばきをなされます。「全地よ、主の前に静まれ」と語られます(20)。主の時を待ち望み、神を信じて生きましょう。主は、必ず主の時に正義を行い、主の栄光が全地を覆います。正しい人よ、主に信頼し、主の前に静まり、主を拝せよ。

ハバクク 3章
ハバククの祈り、それは信仰によって生きる者の祈りです(2:4)。信仰者は、主の厳しさの中にも、あわれみを求め続けます(1-2)。民をエジプトから北上させた主の栄光の輝き、さばきの厳しさ、その力強さに自然界も揺れ動き、諸国の民はおののきます(3-7)。川や海は神の敵を象徴的に示しているかもしれません。神はそれらに怒りを燃やし、打ち滅ぼされます。自然界も震えますが、主は民を救うために出て来られ、諸国を砕かれ、戦士たちを打ち砕き、勝利を取られます。ハバククは「私は静かに待ちます」と告白します。ハバククにとって、それはバビロンのさばきであり、それは少し先のことです(8-16)。信仰に生きる者は、たとえ農産物、家畜といった物質的なものが失われるような困窮の中にあっても、主にあって喜び踊り、救いの神にあって楽しみ、主が力強く歩ませてくださると祈り、賛美し、告白します(17-19)。ハバククの祈りの中に、信仰者の姿を覚えます。