エゼキエル書
この書の著者は祭司エゼキエル(1:3)で、時代的には、エホヤキン王の捕囚の五年目(1:2 前592年頃)とあるのでエルサレムの陥落前、すでに多くの有力者がバビロンに捕囚され、祭司エゼキエルもバビロンで活動したと思われます。この書には幻も多く、非常に難解な書物でもあります。内容はエゼキエルの召命(1-3章)から始まり、第一にエルサレムがバビロンに包囲される前に、エルサレムの滅亡が預言されます。神に背いたゆえのさばきと悔い改めが迫られます。そして主の栄光が去ります(4-24章)。第二にエルサレが包囲された時の預言で、エルサレムの滅亡を喜ぶ諸国へのさばきが語られます(25-32章)。第三にエルサレムが陥落した後の預言で、イスラエルの回復が預言され(33-39章)、神殿の回復の幻が語られ、主の栄光が帰って来ることが約束されます(40-48章)。神は正しいさばきをなされるお方ですが、またあわれみをもって悔い改めるものを回復されるお方です。
エゼキエル 1章
祭司エゼキエルは捕囚の地バビロンの川のほとりで幻を見せられます(1-3)。彼は、人間・獅子・牛・鷲の四つの顔と、四つの翼を持つ不思議な四つの生き物の幻を見せられます。それらは霊の進ませるところに進みます(4-14)。そばには縁一面に目を持つ輪がそれぞれあって、ともに行動しました(15-21)。その頭上には水晶のような大空が広がり、さらに翼の音は大水のとどろき、全能者の声、陣営の騒音のようでした。そして頭上の大空から声があると彼らは翼を垂れて止まりました。さらに、その頭上の大空のはるか上方に、王座に似たものがあり、さらにその上方に人の姿に似た方がおられるのが見えました。腰から上も下もきらめき輝いています。それは虹のようで、まさに主の栄光の輝きです。そしてひれ伏すエゼキエルに声がかかります(22-28)。実に不思議な幻です。しかし、まさに筆舌に尽くし難い偉大なる神の栄光を覚えます。主はどんな中にも臨在を示されます。
エゼキエル 2章
前章の最後に出てきた大空におられたお方が、エゼキエルを「人の子」と呼んで、語られます。そして彼に主の霊が入り、彼は立ち上がらされます。彼は神に背く、頑なな民に遣わされます。彼らが聞く、聞かないにかかわらず、自分たちのうちに預言者がいること、すなわち主が語り続けておられることを知らせるためです。困難に遣わされるエゼキエルに、主は「恐れるな」と励まされます(1-7)。そのために、まずエゼキエルが主に従うように語られます。主のことばをしっかり受け止め、「口を大きく開けて」、食べるように命じられます。そして、表にも裏にも嘆きとうめきと悲痛が記されている巻物を見せられます。彼は民の対する厳しいことばを語るように遣わされるのです(8-10)。私たちも弱い人間に過ぎません。しかし主の霊が立ち上がらせてくださいます。私たちは人々が聞こうが、聞くまいが、まず主のことばを受けとめ、そして語り続けましょう(Ⅱテモテ4:2)。
エゼキエル 3章
天から語られるお方が、エゼキエルに巻物を食べよと命じます。それは口に蜜のように甘いものでした。その方は、エゼキエルに、バビロンにいることばの分かる同胞イスラエルの民に語れと命じます。彼らは非常に頑なですが、彼らが聞いても、聞かなくても語れと命じられます(1-11)。その後、エゼキエルは大きな音の中で、霊によって引き上げられますが、民の姿に心が重く沈みます。彼はケバル川のほとりテル・アビブで茫然とします。七日の終わりに、彼は見張人として警告を語れと命じられます。語らなければ、その責任は彼にあり、警告を聞かないなら、その責任は彼らのものとなります(12-21)。それから、彼は平地に導かれ、再び主の栄光を見せられます。今度は、家に閉じこもれ、あなたは話せなくなり、語るべき時に、口が開かれると語られます(22-27)。預言者は神に従うことが求められます。みことばを語れと言われたら語り、黙る時には黙って語るべき時を待ちます。
エゼキエル 4章
エゼキエルは預言者として象徴的行動を命じられます。粘土板にエルサレムが包囲される戦闘の様子を刻み、さらに、それと自分の間に鉄の板をつい立のように立てます。それはこれから起こるエルサレムに対する神のさばきの預言です(1-3)。また左わきを下にして横たわり、身動きできない苦痛を三百九十日間、さらに右わきを下に四十日間、過ごします。これは北イスラエル、そして南ユダの咎とそれを負う行為と思われます。その日数(年数)も何らかの象徴があるのでしょう。さらに縄をかけられるのは捕囚の象徴でしょうか(4-8)。その間、彼は雑穀で量を増やしたわずかなパン(約230g)と水(約0.6ℓ)で一日を過ごさなければなりません。しかもパンは乾燥した人の糞で焼くように命じられます。祭司エゼキエルは、汚れを避けるために、牛の糞に変えてもらいます。それは食糧難、異国の地で汚れたパンを食べる姿です(9-17)。預言者は苦難を共に味わい、身をもって語ります。
エゼキエル 5章
エゼキエルはさらなる象徴的行動を命じられます。髪とひげを剃り、三分の一ずつ、焼き、剣で打ち、風に散らします。また最後の三分の一からわずかにとって裾に包み、一部を焼きます(1-4)。エルサレムは諸国の中心に置かれたにもかかわらず、主の掟に従わず、反逆し、主が忌み嫌う偶像礼拝を行いました。それゆえ主は彼らをあわれまず、惜しみません。エルサレムの住民の三分の一は疫病に、三分の一は剣に、三分の一は散らされます(5-12)。主の怒りが出し尽くされ、憤りが終わる時、民は主が民をねたむほど愛するゆえに行ったことを知ります。諸国の民もまた、その厳しいさばきに教訓と恐怖を覚えます。主が放つ飢饉という矢、悪い獣、疫病、流血をとどめることのできるものはありません(13-17)。聖なる主は愛するものさえもさばかれます。それは、ねたむほどの愛をもって彼らを立ち返らせるためです。そして彼らのへのさばきは諸国の民の心を神に向けさせます。
エゼキエル 6章
エゼキエル(人の子)にイスラエルの山々に向かって預言せよと語られます(1)。山々の偶像の礼拝の場とされた高き所、その祭壇や香の台は破壊され、その周りには死体がまき散らされます。人々はその時、主こそ神であると知ります(3-7)。しかし残される者たちがいると約束されます。彼らは捕囚の地で、自分たちの罪、すなわち、主から離れ、霊的姦淫を犯し、主がどれほど傷ついたかを思い起こします。その時、彼らは主を知るのです(8-10)。彼らの罪は剣と飢饉と疫病でさばかれます。それは主の激しい憤りです。民は「ああ」と嘆きます。そして打ち殺された者たちが祭壇の周りに横たわるのを見る時、彼らは主を知ります。そして地が南の荒野から北のリブラまで荒廃する時、主を知ります(11-14)。義なる主の厳しいさばき、罪に対する憤り、それは民が主こそ神であり、主に立ち返ることを願われるゆえの行動です。今、経験して痛みは主を知るためことではないでしょうか。
エゼキエル 7章
主の怒りとさばきが南ユダの隅々に臨みます。事実それは前五八六年に起こります。しかしその日は、主を知る時です(1-4)。類のないわざわい、その終わりの時の厳しさが語られ、その日が来ると警告されます。その時、主があなたを打つ方だと知ります(5-9)。それは彼らの高ぶりや悪のためです。富は失われ、生き延びても土地を取り返せません(10-13)。戦いの備えをしても誰も出ていけません。なぜなら敵に囲まれ、さらに疫病や飢饉が襲うからです。みな気力を失います。金銀も、またそれで作った偶像も助けになりません。彼らは自らを汚したゆえに、彼らが他国によって汚されます。主は彼らから顔を背けます(14-22)。彼らはバビロンに鎖で引いて行かれ、家々は占領され、聖所を汚されます。恐怖が襲い、平安は奪われます。幻も、律法も、助言も、有力者も失われ、民衆はわななきます。その時、民は主を知るのです(23-27)。さばきの日は、主を知る日でもあります。
エゼキエル 8章
エホヤキン王の捕囚から六年目、第六年(前591年)のこと、神である主の御手がエゼキエルに臨み、幻でエルサレム神殿に連れて行かれ、イスラエルの罪の姿が見せられます(1-4)。神殿の内庭に入る北門の入口に偶像が置かれています。神の「ねたみ」を引き起こして当然です(5-6)。次にエゼキルは壁に穴をあけて通り抜けるようにと象徴的行動を命じられます。内壁には偶像が彫られ、異教の偶像があふれ、そこにイスラエルの指導者たちの姿を見ます。彼らは「神は見ていない、主はこの地を見捨てた」とつぶやいています(7-13)。さらに神殿に入る北門の入口では、女たちがバビロンの神タンムズの儀式をしている姿を見ます(14-15)。宮の内庭では、人々が神殿に背を向け、東を向いて太陽を拝み、さらに異教の風習をまねて礼拝していました。それゆえ主は激しい憤りをもって応じると語られます(16-18)。礼拝の場のひどい有様です。私たちの礼拝の姿はどうでしょうか。
エゼキエル 9章
エゼキエルは主の語られる大声を聞きます。破壊する者、都を罰する六人のみ使いによるさばきの幻です。そこに、もう一人、書記の筆入れを持つ人が加わり、七人が北からやってきます(1-2)。主は、祭服を着て、筆入れを持つ者に、エルサレムを行き巡り、エルサレムの現状を嘆き悲しむ者の額にはしるしをつけるように命じます。しかし、しるしのない者たちについては、老若男女を問わず、あわれむことなく打ち滅ぼすように、命じられます。それは聖所から始まります(3-6)。庭は死体で満たされ、汚れ、神の臨在は去ります。エゼキエルは、捕囚されず、都に残ったものたちを完全に滅ぼされるのですか、と叫びます。主は、彼ら自分自身の行いに報いると答えます。その時、亜麻布の人が、しるしをつけて戻ってきます(7-11)。前章の偶像礼拝の現実と神のさばき、しるしを受ける者の存在、主の宮からさばきが開始される姿(Ⅰペテ4:17)、ここに私たちの姿を顧みましょう。
エゼキエル 10章
エゼキエルは、天的存在である「ケルビム(ケルブの複数形)」の頭上にサファイアのような、王座に似たものがある幻を見せられます。主は、祭司の服である亜麻布をまとった者に、炭火を手に満たし、エルサレムにまき散らせと語られます。これはさばきの宣告です。神殿は主の栄光に満ちていました(1-8)。一章に登場した四つの顔を持つ生き物が再登場します。四つの輪は「車輪」(13)と呼ばれ、牛の顔(1:10)はケルビムの顔(10:14)となっています。また一つの輪の中にもう一つの輪があり、それらが「ケルビム」(9)の両脇にあって、さらに目は全体(1:18、10:12)についています(9-17)。主の栄光が神殿を去り、ケバル川のあるバビロンに向かいます(18-22)。不思議な幻ですが、主の栄光がエルサレムを去り、バビロンに向かう幻で、神殿があるから滅びないと高を括る者への強烈な警告です。私たちも自分は今のままで大丈夫だとうそぶく姿がないでしょうか。
エゼキエル 11章
霊に引き上げられたエゼキエルは、ユダの指導者たちのところに行くと、エルサレムは難攻不落(鍋)、自分たちは特別な存在(肉)で、ゆっくり家を建てようと彼らは臆面もなく話していました。主は彼らを剣が襲い、バビロンに連れ去られると、彼らの言葉を真っ向から否定します。さらに「主は逃れさせる」という意味を持つ指導者ペラテヤの突然の死が起こります。エゼキエルは、残りの民をみな滅ぼすのですかと叫びます(5-13)。エルサレムに残された民は、先に捕囚された者たちをあざけりますが、その捕囚の民こそが残りの民となり、主は散らされたところで彼らの聖所となり、彼らを集め、そして連れ戻すと語られます。そして彼らは「新しい霊」「肉の心」を与えられます。彼らは主の掟、定めに従うようになります(14-21)。主の霊は都からオリーブ山に、エゼキエルは捕囚の民のところに戻され、民に告げます(22-25)。うわべではなく、主の臨在と心の刷新こそが重要です。
エゼキエル 12章
主は、エゼキエルに象徴的行動を命じます。荷物をまとめ、城壁が崩れるように壁に穴をあけ、悲しみながら下を向いて出ていき、捕囚の姿を示します(1-7)そして、君主ゼデキヤ(前597年にエホヤキン王やエゼキエルらは捕囚)と民に告げよと言われます。やがて君主は目をつぶされ、バビロンを目で見ることができず死に、助ける者も散らされます。これは少し後の前586年に実現します(参:Ⅱ列25)。残された民がこのことを語り告げ、人々は、主こそ神であることを知ります(8-16)。さらにエゼキエルは恐れながら食べ、飲むように命じられます。それは、恐れおののく民の姿の象徴です(17-20)。主は、さばきの日は先のことで、預言者の幻は実現しないということばはむなしく、主のことばは引き延ばされることなく、はるか遠い将来ではなく、必ず成就すると語ります(21-25)。主のことばを真剣に聞かない民。しかし、主のことばは主の時に、人の都合によらず、必ず実現します。
エゼキエル 13章
この章からは、直接、主のことばによるエルサレム滅亡が預言されます。まずは偽りの預言者を責めます。彼らは自分の心のままに語るにもかかわらず、それを主のことばと言っています。廃虚の狐のように獲物を捜します。そして、むなしい幻、まやかしの占い、平安がないのに平安と、民の罪を責めず、それはまるで漆喰で上塗りし誤魔化すようです。それゆえ、主は激しい雨や風でそのうわべを取り去り、土台まであらわにすると言われます。その時、主を知ります(1-16)。後半は女預言者への警告です。彼女たちはただの占い師で、呪法の紐を結び、占ったようです。わずかなパンを得るためにまやかしを行い、人の生死を願いました。主は、占いの罠にかかった人々を解放し、救い出すと語られます。その時、民は主を知ると語られます(17-22)。自分都合のことばを主のことばのように語る者、占いに頼るような者となっていないだろうか。主をのみ信頼し、恐れているだろうか。
エゼキエル 14章
捕囚の地で長老たち(8章)がエゼキエルの前に来ます。主は、彼らが心のうちに偶像を、顔の前に不義を置いていると責めます(1-5)。そして民に、偶像から身をひるがえし、主が忌み嫌うべきものを遠ざけよと語られ、民を惑わす偽預言者を責めます。捕囚の民の回復が、イスラエルの回復につながります(6-11)。エルサレムの住民に対して、飢饉、獣、剣、疫病が襲い、たとえ義人の代表としてのノアとダニエルとヨブがとりなしをしても自分のいのちを救い出すだけで、誰も救い出せないと厳しい言葉が繰り返されます(12-20)。しかし、そこに逃れの者が残され、彼らはエルサレムからバビロンに逃れ(第三回の捕囚のことか)、彼らの生き方を聞き、主が不信仰をさばかれたことを知り、あなたがたは慰めを得ると語られます。主がなされることには意味があることを知らされるからです(21―23)。心に隠している偶像はないか。主のなさることには意味があることを覚えます。
エゼキエル 15章
エゼキエルを通して、主はイスラエルをぶどうの木にたとえて語ります。特に野生のぶどうの木は実もつけず、細く曲がりくねって、他の木々に比べてどこが優れているのかと問われます。木材にもならず、木工細工にも使えず、焚き火用にするにも、すでに焦げてしまっているなら何の役に立つのか、と語られます。彼らは周りの国々と比べてどこが勝っていたでしょうか。北イスラエルは滅亡し、南ユダは、すでに一部が捕囚の憂き目にあっていました。それは主が彼らに敵対されたからです(1-5)。そのようにして、主なる神はエルサレムに火を投げ込み、さばきを下すと語られます。主は彼らから顔を背けます。その時に、民は主を知ると語られます。イスラエルの民が主への信頼を裏切ったゆえに、イスラエルの地は荒れ果てるのです(6-8)。主はぶどうの木であるイスラエルを手入れしたにもかかわらず、彼らは、実を結びませんでした。私たちはどうでしょうか(ヨハネ15:4)。
エゼキエル 16章
エルサレムが主の花嫁として描かれています。もともとエルサレムはカナン人のたちが住んでいた異教の町でしたが、主が「生きよ」と救い出し、育て上げました(1-7)。主は契約を結び、美しく飾り、その名声は高まりました(8-14)。ところがその町は、他国に頼り、偶像に心を寄せ、貢物をおさめながら、姦淫を犯し続けました。(15-34)。それゆえに主はねたみと憤りで、花嫁エルサレムをさばくと言われます。エルサレムは他国に蹂躙されます。彼らの忌み嫌うべきわざと淫らな行いの報いが頭上に帰されます(35-43)。彼女の両親は偶像礼拝のカナン人であり、姉妹は堕落したサマリヤやソドムであって、それ以上の罪を犯していると責められます(44-52)。しかし、彼女には、さばきの後、回復される約束が語られます。主は契約を忘れることなく、罪を赦し、永遠の契約を立てるといわれます。その時、彼女は罪を悔い改めます(59-63)。主のさばきと憐れみ、回復を覚えます。
エゼキエル 17章
エルサレム滅亡(前586年)前に、エゼキエルを通して、たとえとその解説が語られます。バビロン(大鷲)が来て、エホヤキン王(若枝の先)を商業都市バビロンに連れ去ります(前597年)。そして、ゼデキヤ(種)がイスラエルに立てられ(Ⅱ列24:10-17)、バビロンの庇護の下、イスラエルは成長します。しかし、ゼデキヤは、エジプト(もう一匹の大鷲)に頼り、一時は栄えますが、バビロン(東風)によって滅ぼされます(7-10)。その謎かけの解説は、特にバビロンとの契約は、神がイスラエルをへりくだらせ、存続させるためのものでありましたが、ゼデキヤ王は、その契約を軽んじ、エジプトに頼り、結果的に、神への裏切りとなりました。主は、契約を蔑む者へのさばきを語られます(11-21)。しかし主のあわれみは尽きず、主、自らがイスラエルを回復してくださいます。この約束は、救い主(若枝)の到来にまで向かいます(22-24)。約束(契約)に誠実を尽くしましょう。
エゼキエル 18章
「熟していない酸っぱいぶどうを父が食べると子の歯が浮く」とは、親の行為が子に結果を及ぼすということわざで、それを盾に、現在の苦難を先祖だけのせいにし、自分の生き方を顧みようとしない人々に、罪を犯した人が死に、公正と義を行う正しい人は生きると語られます(1-9)。そして、正しい人の子が無法者となるなら、その責任は彼自身に(10-13)、逆に無法者の子が父の罪を見て反省し、そのように行わないなら必ず生きると語られます。主は、その人自身が自分の罪の罰を負うと語られます(14-20)。そして悪しき者が罪から立ち返るならばその人は必ず生き、主が喜ぶことは、その人が立ち返って生きることです(21-29)。主はそれぞれの生き方に従って、公正にさばかれます。それゆえ、立ち返り、背きから身を翻し、背きを放り出し、新しい心と新しい霊を得よと語られます。立ち返って、生きよと語られます(30-32)。人のせいではなく自分の姿を顧みましょう。
エゼキエル 19章
イスラエル(ユダ)の君主たち、すなわちエホアハズ王、(エホヤキム王)、エホヤキン王、ゼデキヤ王のために哀歌を歌えと言われます。ここではイスラエルの滅びの経緯が、たとえをもって歌われます。時は、エホヤキン王の捕囚以後、エルサレム滅亡前のゼデキヤ王の時代と思われます(8:1)。雌獅子(ユダ)は、雄獅子・若い獅子(諸国)の間で、子獅子たちを育て、彼らは強くなります。しかしその子獅子の凶暴さが伺えます。やがてその一頭(エホアハズ)はエジプトに、もう一頭はバビロン(エホヤキン)に引いて行かれます(1-10)。また母であるぶどうの木(ユダ)は繫栄し、そこに強い枝(ゼデキヤ)が成長します。それはひときわ高く、際立ちますが、引き抜かれ、東風(バビロン)によって焼き尽くされ、もう強い枝がなくなると預言されます。彼も先の王たち同様に高慢な態度で、やがてその結果を刈り取ります(11-14)。自らの力におごり高ぶる者は実を刈り取ります。
エゼキエル 20章
八章から十一カ月後(第七の第五の月の十日:エホヤキン王が捕囚となって七年目の前590年頃)、長老たちがエゼキエルを訪ねてきます。彼らに対する主のことばが語られます(1-2)。まずは、イスラエルの反逆の歴史が回顧されます。エジプトから救い出され、荒野で守られ、律法が与えられ、約束の地に導かれたにもかかわらず、彼らは偶像から離れませんでした。そして彼らの背信は今の時代にまで続きます(3-29)。神に背き続ける彼らにさばきが下ります。さばきを通して反逆者をより分けると語られます(30-38)。しかし神は、さばきの後に、彼らを回復(帰還)されるとも約束されます。決して滅ぼし尽くされません。その時、彼らは悔い改め、主こそ神であることを知るようになります(39-44)。主はイスラエルを南のネゲブから北まで、すべてが焼かれると語られます(45-49)。主は反逆の民をさばかれます。しかし愛をもって回復し、民を立ち返らせます。
エゼキエル 21章
エルサレムへのさばきの預言です。「剣をさやから抜き」と、さばきが下ろうとしています。それはさやに収められず、取り消されることがありません(1-7)。エゼキエルに対して、激しく嘆くように語られます。「杖」とは時の王ゼデキヤです。主による激しいさばきが起こりますが、再び、手が打ち鳴らされ、主の憤りは収められます(8-17)。バビロンの王は、アンモンの首都ラバとエルサレムへの二つの道の分岐点において占いをし、エルサレムへの攻撃を決めたと語られます。しかし、エルサレムの民はそれを侮ります。そして、神の前にエルサレム民の罪は明らかにされ、君主ゼデキヤから権威あるかぶり物は外され、すべてが変わります。エルサレムに荒廃が訪れます。ここに、やがて、さばきを執行するもの、メシア預言が語られます(18-27)。最後に、エルサレムは滅びないと空しい幻を見せたアンモン人へのさばきが語られます(28-32)。今も、主のさばきが迫っています。
エゼキエル 22章
エルサレムへのさばきの宣言が続きます。その宗教的腐敗、社会的腐敗が暴露されます。偶像礼拝が行われ、君主たちは横暴に振舞い、両親は軽んじられ、弱者は踏みにじられ、安息日は軽んじられ、不品行が横行し、賄賂、高利貸し、不正な利得が横行しています。それゆえに、主は手を打ち鳴らし、怒りをもって、彼らをさばき、諸国に散らされます(1-17)。エルサレムは炉にたとえられ、主の激しい怒りの火で溶かされます。彼らは何の役にも立たない金かすにたとえられます(18-22)。指導者たちの責任が問われます。預言者たちの陰謀、彼らはむなしい幻を語ります。祭司たちは主の教えを冒涜し、主の御名を汚します。高官は血を流し、利得を貪ります。そして、民衆もまた不正を行い、弱者を苦しめます。このような状況の中に、「石垣を築き、破れ口に立つ者」が見出せないと主は言われます。主は彼らの生き方に報いられます(23―31)。今の時代に破れ口に立つ者はいるでしょうか。
エゼキエル 23章
南北イスラエルの反逆の歴史が、オホラ(サマリア)とオホリバ(エルサレム)の姉妹でたとえられます。神以外のものに頼るその姿は、「姦淫」として描かれます。イスラエルは、かつてエジプトから救い出されたにも関わらず、神を捨て、他国や偶像により頼み続けました(1-5)。姉のオホラは、アッシリアに頼り、滅ぼされます(6-10)。妹のオホリバは姉の姿を知りながら、よりひどい淫行をバビロンと行いました(11-21)。それゆえ妹オホリバに激しいさばきが下ります。異邦の民を慕い、偶像で身を汚した姿を、主は淫行、淫乱、姦淫の恥と厳しく責めます。しかしそのさばきは彼らを立ち返らせるためでもありました(22-35)。主はさらにエゼキエルを通して、聖所で行われている忌み嫌うべきわざを告げ知らせ、彼らを責めるように語られます。彼らはその行いの報いを、罪責を負わなければなりません(36-49)。今、私たちは、神との関係が正しいものとなっているでしょうか。
エゼキエル 24章
バビロンに包囲された日(Ⅱ列25章、前588年頃)、そしてエルサレム滅亡預言の最後の部分です。前半はエルサレムが鍋に、その民が肉や骨にたとえられ、それが火にかけられ、さばきが宣告されます。主は、薪を増し、彼らの罪を徹底して除こうとしますが、民はきよくなろうとせず、それは無駄に終わります。主の最終的なさばきがエルサレムに下されます(1-14)。後半はエゼキエルの象徴的な行動によって語られます。主は彼の妻を突然に取り去ります。しかし主は、彼に「嘆くな、泣くな」と語り、悲しみの行動もするなと命じられます。それはバビロンに住む民に、エルサレムの滅亡は、その罪ゆえの当然の結果であって、嘆く必要がないことを示すための行動でした。彼らは罪をこそ嘆くべきでした。それから数年後、エルサレム陥落の知らせがバビロンの彼らのもとに届きます。その時、彼らは主こそ神であると知らされます(15-27)。エゼキエルを通して主の苦しみを覚えます。
エゼキエル 25章
ここから三十二章まで、諸国民に対する主のさばきが語られます。主はこの世界を支配しておられるお方です。まずアンモン人(ロトの子孫、ヨルダン川東側)へのさばき語られます。彼らはイスラエルの遠い親類であったにもかかわらず、イスラエルの苦難をあざけり、助けませんでした。彼らは東から来る人々に滅ぼされます(1-7)。続いてモアブ(ロトの子孫、アンモンの南)も、アンモン同様にさばきを受けます(8-11)。そしてエドム人(エサウの子孫、セイル(8)、イスラエルの南方)へのさばきが語られます。彼らは復讐を企て、それを果たしたと言われます。主は、イスラエルの民を通して、彼らを復讐すると語られます(12-14)。さらにペリシテ人(イスラエルの西方、クレタ人(16))へのさばきが語られます。主は彼らに手を伸ばし、彼らを懲らしめます(15-17)。主は世界の王、さばき主です。まさに「人の振り見て我が振り直せ」です。また隣人に対する愛を覚えます。
エゼキエル 26章
続けて諸国民に対する主のさばきが語られます。ここからはツロについての宣告がしばらく続きます。時は捕囚の十一年目(前586年)と思われ、エルサレム滅亡の直前と考えられます。ツロはエルサレムの破滅を横目にあざ笑います。ツロは地中海岸に位置する海運貿易で栄えた町で、海岸から少し離れた小島にある要塞堅固の町は難攻不落と言われていました。しかしやがてバビロンによって滅ぼされ、栄華を極めた要塞都市は漁村と化します(1-14)。ツロと取引のあった島々や他の地中海沿岸の都市は衝撃を受け、海で最も強かったあの町が、と哀歌を歌います(15-18)。「大水(深淵)」など、死の世界を想起させる言葉で、徹底的な破壊が預言され、まさに彼らは永久に見られなくなります。事実、ツロは、アレキサンドロス大王によって徹底的に破壊(前322年)されました(19-21)。どんなに経済が発展し、栄え、力を持った国も、神様のご計画の下、そのさばきの前には立ちえません。
エゼキエル 27章
引き続きツロに対する宣告で、哀歌となっています。海運貿易で栄えたその町は豪華商船にたとえられ、いかに美しく、栄華を極めた町であったかが歌われます。諸国と商いをし、富を得、自分たちこそ「美の極み」と自賛し、高ぶっていました(1-10)。ツロの町と貿易していた諸国、その商品が記録されます。西は今日のスペイン、北はギリシャやトルコ、東はアラビア、南はアフリカに及びます。鉱物、家畜、人、装飾品、穀物、宝石、織物に満ち溢れ、町は栄えます(11-24)。船にたとえられたこの町は、突然の東風、すなわちバビロンという暴風によって難破します。ツロとの交易でもうけを得ていた諸国も、ともに沈み、この惨事に大きな嘆きが起こります(25-36)。神の前には、富も、取引のあった諸国も何の助けにもなりませんでした。栄華を極め、おごり高ぶったこの町は、主のさばきの前に滅び失せました。まさに、神の前に富まない者(ルカ12:21)はこのようなものです。
エゼキエル 28章
引き続きツロに対する宣告で、そのさばきの原因が語られます。すなわち、ツロの君主の心は高ぶり「私は神だ。海の真ん中で神の座についている」と豪語します。ツロはその知恵によって、富を築きましたが、そのおごり高ぶりのために横暴なバビロンにより攻められます(1-10)。哀歌を通して、かつては栄え、完全なもの、美の極みとまで言われたツロの滅びが嘆かれます。エデンの園のような祝福を与えられていながら、それを与えたお方を忘れ、高ぶり、暴虐に陥りました。ここに悪魔の堕落に関する示唆を見出す解釈もあります(11-19)。次に、ツロの北方の都市シドンに対する宣告が始まります。シドンもまた繫栄していましたが、剣と疫病によってさばきを受けます(20-23)。イスラエルを侮る諸国へのさばきは、イスラエルの回復の時でもあり、主は散らされたイスラエルの家を集め、彼らを安らかに住まわせ、主ご自身の聖を、栄光を現わされます(24-26)。神のみに栄光を。
エゼキエル 29章
第十年(前587年)、エジプトへの宣告が語られます。彼らはナイル川を自分が造り、自らのものと誇ります。しかし、巨獣のエジプトも、その同盟国も、荒野に投げ捨てられると預言されます。エジプトは葦のように頼りにならず、寄りかかったイスラエルも立ちゆきません(1-7)。主は、北のデルタ地帯のミグドルから南のセベネやクシュまで水を干上がらせます。イスラエルの荒野の苦難を引き合いに、エジプトへの厳しいさばきが預言されます(8-12)。それでも、エジプトはやがて回復を与えられます。ただし、彼らはかつてのような繁栄を誇ることはできません。パテロスは、下流のデルタ地帯に比べて南部の貧弱な地でした(13-16)。先の預言から十七年後です。バビロンのネブカドネツァル王によるツロ包囲は長期に渡ります。主は、彼を通してエジプトをさばかれます。そして、ここにもイスラエルの希望が語られます(17-21)。高ぶりを捨て、歴史の背後におられる神を覚えます。
エゼキエル 30章
引き続き、エジプトへの預言が続きます。前章と同じように、二つの預言が記録されています。前半の預言には日付がありませんが、第十年(29:1)頃のものと思われます。主は、エジプトへの主のさばき、その日が来ると語られます。エジプトも、その同盟国も剣によって滅ぼされます。安穏としていた同盟国クシュ(エチオピア)にも戦慄が走ります(1-9)。主はバビロンのネブカドネツァル王を用いて、その事をなされます(10-12)。北から南まで、エジプトの主要な都市や偶像礼拝の中心地が挙げられ、主のさばきが全土に及ぶことが語られます(13-19)。もう一つの預言は、第十一年(前586年)のもので、徹底的なエジプトへのさばきが、腕(力や権威)を砕くことで語られます。主はファラオの腕を砕き、バビロンの王の腕を強くすると語られます。主こそ神であり、歴史を支配しておられるお方です(20-26)。今の世界も、主こそ神であることを知る必要があります。
エゼキエル 31章
前章に続き、第十一年(前586年)にあったエジプトへのさばきのことばです。前半は、繁栄を築いたエジプトの姿を現すため、それ以前の比類なき繁栄を築いたアッシリアの姿が描かれています。アッシリアは栄華を極め、「鳥や獣」すなわち同盟国は恩恵を受け、全世界がうらやむ国でした。「エデンの木」という表現が何度かこの章では用いられますが、ここでは、神の創造のもとにある諸国、また全世界と理解しておきます(1-9)。しかし、アッシリアはその傲慢さと横暴さのゆえにさばかれます。すなわち「最も横暴な他国人」と言われるバビロンによって切り倒されました。恩恵を受けていた「鳥や獣」、同盟国もともに滅びました(10-14)。そのアッシリアの姿とエジプトが重なります。エジプトも高慢のゆえにさばかれ、同盟国はそのさばきにおののきます。しかし、圧政に苦しめられていた「木々たち」、諸国はむしろ慰められます(15-18)。今、私たちの国の姿はどうでしょうか。
エゼキエル 32章
エルサレム陥落の知らせから2カ月後(33:21)の第十二年(前586年)第十二の月、エジプトへのさばきの哀歌です。若獅子と誇った国は、ワニのように暴れ、バビロンにより激しく打たれます。諸国は大国エジプトの出来事におののきます(1-16)。自分たちの地上での生き方の報いを、死者の行く所(地下)で負う様子が描かれます。「穴」「地下の国」「よみ」は同義で、死者の行く場所と考えられます。「無割礼」の者とは神との契約の外にあって、神から離れている者たちです。その場所には、アッシリア、エラム(ティグリス川東部の国でアッシリアを助けた)、メシェクとトバル(小アジアの地方都市でアッシリアの同盟国)、エドム(死海南部に住むエサウの子孫たち)、シドン(地中海岸のフェニキヤの代表的な町)など、諸国の民も同じ様に審判を受けています。ファラオは自分だけではないと空しい慰めを得ます(17-32)。神は必ず審判を下され、そのさばきの厳しさを覚えます。
エゼキエル 33章
この章からこの書の後半部で、イスラエルの回復と希望に向かいます。見張人は警告を与える責任があります。そして、その警告を聞かないなら、その血の責任は聞かない人に、聞くならいのちを救うと語られます(3章)。エゼキエルは、捕囚の地のイスラエルの民の見張人とされました(1-9)。神は、エルサレムを滅ぼされましたが、悪しき者、すなわちイスラエルの家の死ではなく、彼らがその道から立ち返り、生きることを願われます(18章)。そして悔い改めに招き続けます(10-20)。第十二年(前586年)の第十の月、陥落したエルサレムから、逃れた者たちがやってきます。主はエゼキエルの口を通して、エルサレムで生き残った者が、なおも神が忌み嫌うべき行い、廃墟となった地を自分たちの所有だと高ぶるなら、主は剣と獣と疫病に渡すと宣言します。また、捕囚の地の民も、主の言葉を聞くだけで実行しない、と責められます(21-33)。私たちは主の御声に耳を閉ざしていないか。
エゼキエル 34章
牧者のたとえを通して、イスラエルの指導者たちの姿と主が求めておられる姿が対比されます。偽りの牧者は主から羊を委ねられ、養う使命を与えられていながら、身を肥やし、弱った羊を癒やさず、散らし、獣の餌食としました。これはイスラエルの歴史でもあります(1-8)。まことの牧者として、主はご自身の羊を取り返し、探し求め、救い出されます。主は、羊を導き出し、養われ、憩わせます。失われた者を捜し、連れ戻し、癒されます。これは捕囚となった民の回復の姿でもあります(9-16)。まことの牧者は、肥えた羊と痩せた羊、羊と山羊の間をさばかれます。ここに、一人の牧者、わたしのしもべダビデを起こすとメシアなる牧者の姿が描かれます。この牧者は羊を養い、彼らの神となり、君主となり、平和の契約を結び、悪い獣を取り除き、羊は安らかに住み、祝福を与えられ、地も回復します(17-31)。イエス様はまことの羊飼いです。また指導者のあるべき姿も教えられます。
エゼキエル 35章
イスラエルの回復(36章)が語られていく大きな流れの中で、再び(25:12-14)、エドムに対するさばきの預言が語られます。セイル山は死海の南からアカバ湾に延びる山地で、エドムの領域です。エドムは、エサウの子孫で、イスラエル(ヤコブ)と兄弟関係にありましたが、敵対し続け、エルサレム陥落の時も、避難してきたイスラエルの民を剣で刺し殺したと責められます。それゆえにさばきが下り、地は荒廃すると語られます(1-9)。さらにエドムは、南ユダと北イスラエルの二つの国が滅びた時に、その機に乗じて、それを占領しようとしました。しかし、主はそこにおられました。彼らは豪語し、高ぶりますが、それは主への傲慢でした(10-13)。それゆえに、今度はエドムが荒廃し、全地(諸国)がそれを喜ぶと語られます。その時、彼らは「わたしが主であることを知る」と繰り返し語られます(14-15)。他人の不幸を喜ぶ姿が私にもないか。主は神の民とともにおられます。
エゼキエル 36章
前章のエドムの山々と対比するようにして、イスラエルをあざ笑うエドムや諸国に主はさばきをくだされると語られます(1-7)。イスラエルの地は回復されます。なぜなら主が来られるからです(8-15)。イスラエルの民がさばかれたのは、彼らの生き方と行いが、主なる神の聖なる御名を汚したからです(16-21)。それゆえ、主はご自身の御名が聖であることを示されるために彼らのさばきが下ったのです。しかし、主はその聖なる御名の回復のために、散らされたイスラエルの民を再び集め、きよい水を注ぎ、汚れからきよめます。新しい心と霊を授け、石の心を取り除き、肉の心を与えられます。そして、主の霊が彼らに臨み、主の掟に従い、主の定めを守り行うようにしてくださると語られます。彼らは約束の地に住み、主の民となり、主はあなたがたの神となると語られます。ここには、私たちの霊的再生の姿も覚えます(22-32)。そして荒地はエデンの園のように回復されます(33-38)。
エゼキエル 37章
エゼキエルは主の霊によって、非常に多くの干からびた骨がある平地に連れ出され、幻を見せられます。主は彼に、骨に預言せよと語れます。骨がつながり、筋、肉、皮膚が覆います。また主は、息に預言せよと語られます。すると、それらは生き返りました(1-10)。この骨はイスラエルのことで、彼らは預言のことばと主の霊によって生き返ります(11-14)。主はエゼキエルに、二本の杖を取り、ユダの杖とエフライムの杖と書くように命じられ、その両方をつなぎ一本の杖とするように語られます。一つの国、一人の王、二つの王国に分かれることはないと語られます。背信から救い出され、きよめられ、主の民となり、主が彼らの神となると語られます(15-23)。そして、ダビデが彼らの王となり、ただ一人の牧者となり、永遠の君主となり、平和の契約を結び、永遠の契約となると語られます。そして諸国の民も、主こそ神と知ります。これは救い主イエス様によって実現します(24-28)
エゼキエル 38章
次の章とあわせて、メシェクとトバルの大首長マゴグの地のゴグについての預言です。この外国の王が誰か、その場所がどこかには諸説ありますが、この北から来る王のもとに、東のペルシャ、南のクシュ、北の果てベテ・トガルマなどが連合し、立ち直ったイスラエルを攻撃し、略奪します。これは終わり日に、主が全世界をさばかれる時に起こります(参 黙20:8)。これは、主なる神のご計画であり、主こそ、聖なるお方であることを示すためであり、それは昔からの主の預言の成就です(14-17)。しかし、そのゴグもまた主のさばきに服します。すなわち、その日、ゴグへの主の怒りが燃え上がり、地震、同士討ち、疫病、豪雨などの天変地異によって彼らは打たれます。その影響は被造物全体にまで及びます。そのさばきは、主こそ大いなる方、聖なる方であることを知らせるためです(18-23)。終わりの日には、世界規模の苦難の時が来る事を覚えつつ、しかし主の勝利に心を向けます。
エゼキエル 39章
前章に続いて、ゴグについての預言です。ゴグと連合軍は徹底的に打倒され、主の聖なる御名が知らされます。イスラエルの民は彼らの武器を薪とし、略奪されたものを奪い返します(1-10)。彼らの死体は死海の東の谷に埋められ、その谷は「ゴグの群衆」と呼ばれ、埋葬には七か月を要し、鳥や獣がそれを食らうと言われるまでに、多くの死者を出す悲惨な最後の戦いが「その日」、終末の時に預言されています。そのようにして、その地はきよめられると主は語られます(11-20)。その日、イスラエルの回復が実現します。主は諸国の間にご自身の栄光を現わされます。諸国はイスラエルが主の信頼を裏切ったゆえに、敵に捕らえられ、主が御顔を隠されたこと、しかし、主は今、あわれみによって彼らを回復させたことを知ります。そして主は、もう二度と、ご自身の顔を彼らから隠すことはないと言われます(21-29)。終末における、イスラエルの回復、敵の滅び、それは主の栄光のためです。
エゼキエル 40章
紀元前五七二年頃、エゼキエルはエルサレムの新しい神殿の幻を見せられ、聞き、そして心に留めます(1-4)。その神殿は、厚さと高さがそれぞれ一竿(約3m)ほどの外壁で囲まれています。東側に門があり、その七段の階段を上ると、その門の両側には控室が三室ずつ備えられていました(5-16)。そして門を抜けると、そこには外庭があります。その外庭は三十の部屋と石畳で囲まれており、外壁には、先ほどの東門と同様の構造を持つ門が、さらに北側と南側にもありました(17-27)。さらにその中央に内庭が置かれます。その内庭に入るためには、外壁の門と同じように、南、北、東側に門が設けられ、八段の階段が備えられます。内庭は正方形で、そこにはささげ物を屠る台や道具をおく台、奉仕者たちの部屋もあり、その中央に祭壇が置かれます(28-47)。最後に、その内庭の西側に神殿への入口があり、まず「玄関の間」がありました(48-49)。神の前に近づく備えを覚えます。
エゼキエル 41章
前章に続いて、エルサレムの新しい神殿の本殿の幻が記録されます。エゼキエルは、捕囚前、祭司として奉仕しており、神殿の構造を知っていたことでしょう。「神殿の間」の先には「本殿」と言われる聖所があり、その奥に「最も聖なる場所」、至聖所が置かれます。それらの周りに脇間が設けられ、それは、三階建てで、各階に三十ありました。その構造はソロモンの神殿(Ⅰ列16章)とほぼ同じで、
回復を覚えます(1-11)。さらに、用途は不明ですが、神殿の西側、すなわち裏側に大きな建物が設けられます。これはソロモンの時には存在していません(12)。最後に、神殿の大きさ、内外に用いられた、ケルビム(ケルブの複数、ここでは二つの顔。参:1章)、なつめ椰子の彫刻など説明されます。それは神の臨在や豊かさの象徴とも考えられます。その他、至聖所の前の木の祭壇、本殿と至聖所の折り畳み式扉などの説明です(13-36)。神を礼拝する場、神の前に立つことを心に留めます。
エゼキエル 42章
引き続き、神殿の幻になります。まずは神殿本体と外庭の間に、神殿を挟むようにして南北に対照的に設けられた建物があります。これはソロモンの神殿にはありませんでした。それは三階建てで、それぞれ、外庭から入れる出入り口がありました(1-9)。その建物の部屋は、聖なる部屋で祭司たちが最も聖なるものを食する所で、ささげものが置かれました。奉仕を終えた祭司は、そこで祭服を着替えてから外に出て、民に接しなければなりませんでした。なぜなら奉仕に用いられた服もまた聖なるものとされたからです(13-14)。エゼキエルは再び外壁の東門に連れ出され、外壁の周囲を測ります。東西南北すべてが五百竿、すなわち六キュビト(40:5)の測り竿なら、六百キュビト(参:45:2、五百キュビト)の正方形となっております。外壁は、聖なるものと俗なるものを分けるためのものでした(15-20)。私たちは、神が聖なるお方である事を忘れることなく、このお方に近づきます。
エゼキエル 43章
東の山へ去った主の栄光(11章)が東向きの門を通って、神殿に入ります。その幻はケバル川のほとりで見た(1章)幻のようでした。霊がエゼキエルを引き上げ、内庭に入ると、神殿は、主の栄光で満ちていました(1-5)。神殿から、ここはわたしの玉座のある場所、民は二度とわたしの聖なる御名を汚さない事、私は永遠に彼らの中に住むこと、神殿の模型を作りそのすべての構造と掟を守りそれらを行うことなどが語られます(6-12)。さらに、内庭の中心にあった祭壇について、その寸法が記録されます。土台の上に低い台座と高い台座、その上に炉があり、東側に階段がありました(13―17)。祭壇を造る日、まず雄牛がささげられ、その血による贖いがなされます。その後、七日間に渡って雄やぎと雄牛と雄羊がささげられ、八日目以降は祭司が全焼のささげ物と交わりのいけにえをささげるように規定されます(18-27)。神の前に進み出る時には、備えが、血の贖いが必要です。
エゼキエル 44章
エゼキエルが東門に立つと門は閉じられています。主がそこから入り、主の栄光は去らないことを示されます(1-3)。彼が北門から入ると主の栄光が宮に満ちていました。掟や神殿の構造に心を留めるように語られます。神殿で奉仕できない者について語られます。異国人は奉仕できず、また、偶像礼拝を犯したレビ人は、外庭の雑務のみで、祭司として神殿で仕えることはできず、聖なるものに触れることができません(4-14)。ツァドクの子孫のレビ人は、主に従い通したゆえに、祭司の務めを果たすことができます。その奉仕の際の様々な規定が語られます。彼らを通して聖と俗、きよいものと汚れたものが区別され、主の聖さが指し示されます(15-27)。祭司たちの相続地は、主ご自身です。主こそ、彼らの所有であると語られます。彼らの食物は、民が、主にささげたものの中から受けることになります(28-31)。祭司の祝福と聖さに生きる姿はクリスチャンの姿と重なります。
エゼキエル 45章
回復された土地の分配(47-48章)において、神殿こそがその中心におかれます。この章も前章に続いて、神殿に関する部分です。まずは、神殿の敷地が取り分けられ、その中心に神殿が置かれます。周辺には祭司たちの家が取り分けられます。さらにレビ人のため、そしてイスラエル全家のため、さらに君主のための所有地が示されます(1-9)。君主に対しての命令が語らます。彼らは公正と正義を行わなければなりません。そのために、正しいはかりの基準が確立されます。君主は民を代表して奉納物といけにえをささげます。各種の祭りごとに供え、献げる義務について語られます。それは民から君主へ、君主から祭司へ、そして神にささげられます。すべてのものが主からのものであり、主のものであることを告白することになります(10-17)。祭りについて、第一の月の一日、七日の聖所のきよめ、十四日には過越の祭り、第七の月の十五日の仮庵の祭りについて語られます。