哀歌

哀歌
哀歌の著者は伝統的にはエレミヤとされています。エレミヤは、南王国ヨシヤ王の第十三年(前627年)からエルサレムの崩壊(前586年)の間に活動しました(エレミヤ1:2-3)。哀歌は、そのエルサレム崩壊の悲劇を、文学的技巧をこらし描きます。すなわち、各章が二十二節で構成され(3章は66節)、各節の文頭はヘブル語のアルファベット二十二文字から始まります(5章は除く)。その内容は、美しい都エルサレムの荒廃、それは神のさばきのゆえ、それは自分たちの罪のゆえでした。その哀しみの中にあって、罪を悔い、神のあわれみを求めて叫び、祈ります。神のあわれみと恵みを期待します(3:22-45)。そして切実な神への訴えで歌が閉じられます(5:19-22)。確かに哀歌は、悲哀が溢れています。しかし、そこに、悔い改めの先にある回復の希望、神様の尽きることのないあわれみを覚えます(Ⅱコリ7:10)。そして、七十年の時が満ちる頃、彼らの帰還が起こりました(エレ29:10)。

哀歌 1章
エルサレム(彼女)の栄光は失われ、慰める者もなく、民は捕囚となり、祭りの喜びは消え、敵が栄えます。それは彼女の背き、偶像礼拝、不道徳、諸国に拠り頼んだゆえのさばきです(1-5)。エルサレム(娘シオン)は輝きを失い、財宝は奪われます。それは罪に罪を重ね、汚れたからです(6-8)。エルサレム(彼女)は落ちぶれ、聖所は汚され、食べることにも窮します。「主よ」という声が悲しく響きます(9-11)。エルサレム(私)のさばきは諸国にとって他人事でなく、主のさばきは徹底的で、背きのくびきは重く、強者の力も役に立ちません(12-15)。エルサレム(私)は涙し、助けを求めても慰められず、主のさばきは正しく、指導者も息絶えます(16-19)。それでもなお、主に叫びます。うめきます。あわれみを請い求めます(20-22)。苦しみの中にあっても主にあるものは賛美できます。また祈りの声を上げることができます。そしてなおも信頼し、期待することができます。

哀歌 2章
エルサレム(娘シオン、娘ユダ)の上に主のみ怒りが襲い、容赦されません。燃える怒りの炎は焼き尽し、愛しいものに注がれます。町は飲み込まれ、主の礼拝の場所さえ荒れ果て、城壁と城門は崩され、律法も主の幻も見えず、長老たちは座して黙すだけです(1-10)。町を極度の悲しみ、食べるものもなく、誰も慰めることができません。それは、偽預言者たちの空しい言葉のゆえであり、娘エルサレムは、諸国からもあざけられます(11-16)。それは主の計画であり、主は自らのことばを成し遂げられるのです(17)。民は、心の底から主に叫びます。悔い改めの涙を流せ。大声で叫び、水が流れ出るように主の前に心を注ぎ出せ。主に向かって手を挙げて祈れ。「主よ、よくご覧ください。」と娘エルサレムの現状を訴え、主のあわれみを求めます(20-22)。愛する者をさばかなければならない神様の痛みに心をとめつつ、主のさばきと主のあわれみを祈り続けるものとされましょう。

哀歌 3章
三節単位で、アルファベット順に並ぶ技巧が凝らされます。主の激しい怒り、さばきの苦悩が語られます(1-18)。しかしその嘆きは突如として、主への希望の言葉に変わります。主を待ち望む、主の恵み、あわれみは尽きず、朝ごとに新しく、真実は偉大、主こそ割り当て、主に望みを置き、求める者に慈しみ深く、主の救いを静まって待ち望むのは良い。若い時にくびきを負うのは良い。くびきを負わされたら一人静まり、悔い改めるならば希望が期待でき、打たれても耐え忍ぶ。なぜなら主はいつまでも見放しておられず、悲しみを変えて、豊かな恵みを与え、主は意味なく苦しめ悩ませないからです(19-33)。主に心を向けて、告白し、祈ります。主は不正を見逃さず、主のなされることは正しく、それゆえ自らを顧みて、主に立ち返り、心を向け、悔い改め、涙を流し、主の顧みを待ち、敵のあざけりに耐え、主に叫び求める。主はいのちを贖い、主が敵に報復してくださいます(34-66)。

哀歌 4章
アルファベット詩が続きます。神の目に尊い宝石のようなイスラエルは捨てられます。彼らは無慈悲となり、高貴な者も惨めなものとなり、その咎はソドムのように、その麗しさは見るところなく、すすより黒く、乾いた木のようになります。極度の飢餓が襲い、あわれみは失われ、難攻不落と信じられた町は陥落します(1-12)。それは祭司や預言者の罪、正しい人の血を流し、彼らは汚れた者となり散らされます。また長老たちも尊敬を失います。作者は民の一員として、神ではなく、救いをもたらされない国に期待をかけたと告白します。それゆえ、敵から攻撃され、終わりが来ます。また王も捕らえられます(13-20)。そして、最後に、エドムへのさばきが語られますが、そこに、イスラエルへの慰め、すなわち刑罰は果たされ、それ以上苦しめられないと語られます(21-22)。主は、不義を見逃さず、神の民をもさばかれますが、完全に滅ぼしません。そして、その苦しみは限られた時です。

哀歌 5章
五章はアルファベット詩にはなっていませんが、節の前半と後半が並行的に表現される技法なども見られます。自分たちの厳しい現状の告白と悔い改めてです。主に頼らなかったゆえに(6-7)、土地は他国の手に渡り、みなしごとなり、敵国に支配され、苦労して食料を得、灼熱の中で労し、女性たちは辱められ、指導者たちは殺され、若者たちも奴隷となり、喜びは消え、悲しみが覆います。神の栄光と祝福の冠は落ち、心は病み、心が暗くなり、神の都エルサレムは荒れ果てました(1-18)。しかし「主よ」と祈りが続きます。目を現状から主に向けます。主はとこしえの支配者、その方に向かって、いつまでお忘れになるのですか、捕囚のままに、捨ておかれるのですか、あなたのみもとに帰らせてください、日々を新たにしてくださいと叫びます。主は決して自分たちを見捨てないという期待とあわれみを告白します(19-22)。希望を失わず、主のあわれみを信じて、期待して祈ります。