アモス書

アモス書
この書の著者アモスは、エルサレムの南にあるテコアの出身で、預言者イザヤよりも少し前(前八世紀中頃)に活動したと考えられます。彼は、預言者集団の一人ではなく、南王国に住む、羊飼いであり農夫でしたが、北王国に遣わされ、主のことばを語りました(7:14-15)。アモスは、まず周辺諸国に対する神のさばきを語り(1-2章)、続いて、北王国へのさばき、特に上流階級の不正と不義の姿を責めました(3-6章)。七章以降には、五つの幻などを通して北イスラエルの滅亡が象徴的に描かれます。しかし、その最後はイスラエルの回復、「破れが繕われる」ことで締めくくられます(7-9章)。この書は、他の預言書同様、罪に対するさばき、それゆえ悔い改めへの招きが語られます。また一農夫であったアモスが、北王国の上流階級の人々に公正と義を求めます。アモス書を通して、神様は今日も、私たちに、この地で「公正と義」(5:24)を流れさせるようにと迫ってきます。

アモス書 1章
アモスは地震(ゼカ14:5)の前に北王国に遣わされ預言します(1)。まずは「三つの背き、四つの背き」と、罪に罪を重ねている北王国の周辺諸国に対する主のさばきを宣告します。最初の宣告は北東にあたるアラムの首都ダマスコへのさばきです。特にかつて北王国の一部であったギルアデ(Ⅱ列10:32-33)を攻めた出来事が語られます(3-5)。次に南西のペリシテの町々に対しての宣告で、特にエドムに北王国の民を引き渡したことが語られます(6-8)。次に北西の地中海岸の港町ツロへの宣告で、どこかの国との契約を破り、人々をエドムに引き渡しました(9-10)。次に、南東のエドム(エサウの子孫)への宣告で、兄弟関係にあったイスラエルへあわれみを示さなかったことが責められます(11-12)。そして、東のアンモン(ロトの子孫)は、領土拡大のための残忍な行為に対するさばきが語られます(13-15)。神様はすべての国々に対して罪のさばきをなされるお方です。

アモス書 2章
一章に続いて、周辺諸国に対するさばきとして、死海の東、アンモンとエドムの間のモアブが取り上げられます。モアブも、アンモンと同じくアブラハムの甥ロトの子孫にあたります。詳細が知り得ませんが、エドム人への非道が挙げられます(1-3)。続いて、南ユダへのさばきが語られます。主の教えを捨て、偶像に従ったことが責められます(4-5)。そしていよいよ、北イスラエルについて、不正、弱者への虐げ、神殿が汚されていました(6-8)。アモリ人は、かつてカナンの地にいた民族ですが、イスラエルの民は、主によって、エジプトから救い出され、約束の地を与えられました。また預言者、ナジル人と呼ばれる人々の模範によって、神の民として生きるように召されました(9-11)。しかし、彼らは神に反抗し続けるゆえに、徹底的な主のさばきが訪れます(12-16)。主はすべての民をさばかれます。他人の罪を責めながら、自分の罪に目を閉じてしまうことがないでしょうか。

アモス書 3章
ここからしばらく北王国へのさばきが語られます。イスラエルはエジプトから解放され、選び出された民として、その契約に生きないならば咎は罰せられます(1-2)。自然界を例に、結果には理由、原因があることが語られ、さばきには原因があり、さらに預言者は主が語られるので告げずにはおられないと、アモスは自らの責任を重ねて語ります(3-8)。ペリシテやエジプトといった国々が証人として招かれるほどに北王国の腐敗した様子が責められます(9-10)。北王国はアッシリアによって滅ばれ、わずかなものが救い出されますが、それはさばきの証拠に過ぎません。「聞け」と先の敵国の証言者に、イスラエルへ証言せよと語られます。ベテルの金の子牛の祭壇は破壊され、豪華な家は打ち壊されます(11-15)。選びは特権ですが、責任もあります。神の民としての生き方が問われます。主のことばを語る責任があります。私たちの姿は周りの人にどう見えているでしょうか。

アモス書 4章
北王国への第二の警告で、北王国の贅を尽くす女たちの勝手気ままな振舞い、弱者を軽んじる姿が糾弾されます。彼女たちは崩れ落ちた城壁の間から捕囚に引いて行かれます(1-3)。また自分勝手な、形骸化した礼拝への警告です(4-5)。主はさばきをなされますが「それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった」と繰り返されます。主のさばきは、飢饉や干ばつによる食料不足(6-8)、さらに作物が病害虫で打たれ、出エジプトの時のような疫病、ソドムとゴモラの破滅した時のような災害が起こり、かろうじてわずかなものが助け出される(9-11)。それゆえに、主は語られます。「あなたがたの神に会う備えをせよ」(12)。そのお方は天地万物の造り主、その知恵、栄光が賛美されます。そのお方の前に立つのです(13)。私たちは神の前に立つ備えができているでしょうか。その備えとは、神との正しい関係の中に生きること、神への心からの信頼をもって歩みましょう。

アモス書 5章
第三の警告、アモスの哀歌です。北王国は倒れ、わずかなものしか残されません(1-3)。聖所の町は偶像の地となり、まことの神だけを求め(4-5)、天地万物の創造者である主を求めて生きよと語られます(6-8)。正しいものが虐げられ、賄賂、不正な裁判、また賢い者も悪に沈黙するという正義と公正が軽んじられている民の姿が描かれます(9-13)。主を求めることは善を求め、悪を求めない生き方です。そうすれば、神が残りの民を憐れんでくださるかもしれないとアモスは叫びます(14-15)。しかし、背く民にはさばきが臨み、うめきが起こります(16-17)。主の日は、民への暗闇の日、徹底したさばきの時ともなります(18-20)。うわべだけの集会や捧げものは受け入れられません。主が求めるのは公正と義です(21-24)。偶像の神々に従う者たちは遠く北方に引いて行かれます(25-27)。私たちは何を求めて生きているか。公正と義を絶えず川のように流れさせているか。

アモス書 6章
南ユダは安逸を、北イスラエルは堅固さを信頼していましたが、災いが近づいています(1-3)。豪華な家具、贅沢な食事、宴を楽しんでいても、北王国には破滅が訪れようとしています(4-7)。主は、真実なるご自身にかけて、さばきを行われると誓われます。自分たちは大丈夫とおごる者たちにさばきが訪れます(8)。その厳しさは、何とか危機を逃れた者たちにも死が訪れ、ほんのわずかしか生き残る者がない厳しさです。その恐怖、絶望のゆえに、誰も主の名を口にしません(9-10)。その原因は、彼らがあり得ない事、神の民であるにもかかわらず、神を離れ、公正を毒に、正義を苦よもぎに変えたゆえです(11-12)。さらに彼らは、自分たちの力を誇り、自分たちで敵を打ち負かしたと高ぶります。それゆえ主は、彼らを懲らしめるため、アッシリアを起こし、全土に渡って彼らにさばきをくだされます(13-14)。神の民とされた私たちの生き方はどうだろうか。

アモス書 7章
主はアモスに三つのことを示されます。第一に王のための作物が刈り取られた後の、次の作物はいなごによって食い尽くされます。アモスは、主の前に立って、民のためにとりなします。すると主はそれをとどめられます(1-3)。第二に戦火が地を焼き尽くす幻も、アモスのとりなしでとどめられます(4-6)。第三に城壁などの垂直さを測る下げ振りによって、北王国は測られますが、その歪みは深刻で、それは見過ごすことができないほどになっています(7-9)。アモスの預言を聞き、北王国の祭司アマツヤは王にアモスが北王国の滅びを語り、謀反を企てていると訴えます。さらにアマツヤはアモスに対して自分の国、南ユダに帰れと脅します(10-13)。それに対してアモスは、私は一介の牧者に過ぎないが、主に召されたゆえに、預言せずにはいられないと答えます。そして、アマツヤへの厳しいさばきを伝えました(14-17)。とりなし手として私たちは生きているでしょうか。

アモス書 8章
前章に続いて、次にアモスは夏の果物【カイツ】の幻を見せられ、「終わり【ケーツ】」の時が示されます。主は二度と彼らを見過ごさない(7:8)と語られます(1-3)。彼らは弱者を虐げ、信仰は形骸化し、社会には不正がはびこっていました。そこには必ずさばきと終わりが来ます。(4-6)。地は揺れ動き、主の厳しいさばきが起こる「その日」には、天地の異変、祭りの喜びは喪に、歌は悲しみの歌に、悲しみの粗布をまとい、悲嘆にくれて髪をそり、苦渋が訪れます。そこには、北王国に訪れようとしているアッシリアを通しての主のさばきを覚えつつ、終末の「その日」も重なります(7-10)。それ以上の苦難は、主のみことばの飢饉の訪れです。主のあわれみ、恵み、愛を聞くことのできない飢饉、主のことばが分からず、人々の心が渇く飢饉の時です(11―14)。食物、情報が溢れている時代、しかし主のみことばの飢饉が世界を覆っていないか。聞かず、語られず、聞こえない。

アモス書 9章
北王国の聖所を打ち砕かれる主のさばきの幻は、誰も逃れることができず、主の徹底的なさばきであることが示されます。神の目は幸いのためではなく、わざわいのために注がれます(1-4)。神が触れると地は震え(参8:7-8)、主なる神こそ偉大な支配者であることが宣言されます(5-6)。七節からは回復の預言となります。すべての国民が神の導きの下にあって、イスラエルの民はその神に選び出され、特別に目を注がれました。神様は罪深い彼らの内にも信仰に生きる民を残し、彼らは完全に滅ぼされることはありません(7-10)。その日、人々は立ち上がり、破れは繕われ、廃墟も再建され、回復が訪れます。そしてイスラエルだけでなく、諸国民の中にもその恵みにあずかる者たちが起こされます(11-12)。その日は、豊かな収穫、地の回復、イスラエルの栄光は決して引き抜かれず、回復されます(13-15)。この約束は終末におけるすべての神の民への約束にも向かっています。