歴代誌
歴代誌は、サムエル記や列王記と内容が重なります。しかし、全く同じではなく、その書き方や強調点の違いから先の二書には含まれていない事柄も多くあります。特に列王記に比べて南王国の20人の王たちに焦点があります。歴代誌はヘブル語聖書では最後におかれ、まさにイスラエルの歴史の総まとめの様な位置づけになっています。この書物は前5世紀頃に、多くの資料によってまとめられたと考えられます。ユダヤの伝承ではエズラ記の最後の部分との類似からエズラよって書かれたと言われます。「第一」はアダムから始まるイスラエルの系図、特にユダ族、レビ族、ベニヤミン族が強調されます。続いてサウル王、そしてダビデ王の神殿建設準備が強調されます。「第二」はソロモン王の神殿建築、それ以後の南王国の王たちが描かれます。私たちは、歴史に働かれた神を覚え、このお方とのあり方について思い巡らしましょう。また神殿に関わった祭司たちの働きにも目を留めてみましょう。
第二歴代誌 1章
ダビデの後を継いだソロモンを主は大いに祝福されました(1)。ソロモンは、エルサレムから北西十キロほどの会見の天幕がおかれていたギブオンに全会衆とともにのぼり、千匹の全焼のいけにえをささげ主への献身と礼拝をささげました(2-6)。その夜、主は彼に現れ「あなたに何を与えようか。願え」と語られました(7)。ソロモンは、「知恵と知識」を求め、民を正しく導き、統治できるような識別力を願いました。神様はその願いを喜び、さらなる祝福、富、財宝、誉れをも与えると約束されました(8-13)。その後、ソロモンは軍備を拡張し、国の防備の力を注ぎました(14-17)。さらに北のヒッタイトやアラムに武器を売って商売を行い、富を増やしました。それらは知恵によったのでしょうか。申命記十七章に、王は、馬を、金銀を、妻を多く持ってはならないことが命じられています。ソロモンは限度を超えて求め続け、そして神から心が離れていったのではないでしょうか。
第二歴代誌 2章
ソロモンは神殿と自らの住まいである宮殿建築のため(Ⅰ列王5章)労働者を集め、さらに技術者と資材のためにイスラエル北方にある地中海沿岸のツロの王ヒラムに使者を遣わし、その提供を要請しました(1-10)。ソロモンは、神は大いなるお方であり、人が造った宮になどお入れできるお方ではありません(5-6)が、力の限りを尽くして、主のための宮を備えると告白します。ツロの王ヒラムは喜んでそれに応答し、必要な資材と人材を派遣すると約束します(11-16)。職人の長フラム(13)の母は、ダン族の出身で、ナフタリ族の男性と結婚した後、やもめとなり(Ⅰ列7:14)、その後にツロ人と結婚したように思われます。そして、最後にイスラエルに寄留し、神殿建設に関わった外国人の人数が記録されています(17-18)。私たちの信じる神は天と地を造られた大いなるお方であることを覚えつつ、このお方に私たちは力の限りを尽くして仕えてまいりましょう。
第二歴代誌 3章
ソロモンはモリヤの山、アブラハムがイサクをささげた場所であり(創22章)、エブス人オルナンの打ち場(Ⅰ歴代21章)のあったところに、約三年の準備を経て、治世第四年(前958年頃)に神殿の建築を始めます。そのために古い尺度のキュビト(約51センチ)が用いられました。神殿は、パルワイム(アラビア産)の金、そして宝石がふんだんに用いられました(1-7)。至聖所にも多くの金が用いられ、天的存在であるケルビム(ケルブの複数形)の像二体が、翼を広げ、至聖所を覆い、「神殿の方に向いて」(13)主を礼拝する存在として置かれました(10-13)。至聖所と聖所は垂れ幕によって仕切られ(14)、神殿の入り口にはヤキンとボアズの二つの柱をもって「彼(主)が建てる、力をもって」と示されました(15-17)。神殿はソロモンによって建築されますが、主によって設立されたものです。主が礼拝され、栄光が表される場所です。私たちも栄光の主を覚え、礼拝を捧げましょう。
第二歴代誌 4章
この章では神殿における備品について記録されます。青銅の祭壇は、モーセの幕屋の時よりも四倍の大きさ(出エジ27章)になりました(1)。祭司たちのきよめに用いられる鋳物の海に牛あるいはひょうたん(Ⅰ列7章)模様で。それは牛の像に支えられました。そこに計算上は二千四百バテ(約三千)の水が入ります(2-5)。いけにえを洗うための洗盤(6)、金の燭台(7)が十個(モーセの幕屋の時(出25:31)は一つ)、燭台をおくための机、いけにえの血を振りかける時に使用される金の鉢(8)、祭司だけが入れた庭(内庭)とイスラエル人が入れる大庭などについて記されます(9-10)。さらに、祭壇の灰を入れる灰つぼ、残り物を集める十能、いけにえを刺すため肉刺し、これらをフラムが忠実に作製しました(11-18)。ともしび皿、切った灯心を入れる平皿などは金でつくられました(19-22)。どんなに立派な道具がそろっても、重要なのは主への心からの礼拝です。
第二歴代誌 5章
この章には神殿に神の箱が安置された時の様子が記録されますが、町の政治や裁判をつかさどる長老たち、またかしらが集められ、第七の新月(太陽暦の九月から十月)に、祭司とレビ人によって神の箱が神殿に安置されました(1-5)。ソロモンは数えきれないほどのいけにえをささげ、ケルビムの翼で覆うように、神の箱は至聖所に安置されました(6-10)。この時、神の箱の中には十戒だけが納められていたようです(へブル9;1参照)。これらが滞りなく行われた後、祭司たちは組み分けに応じて奉仕し、賛美がささげられます(11-14)。その賛美は「まるで一人のように一致した歌声」(13)でありました。そして、主の栄光が宮に満ちると祭司たちでさえその栄光のゆえに「立って仕えること」ができず、ひれ伏すのみでした(14)。私たちが心を一つにして主を賛美し、礼拝することは大事なことです。そして、主は栄光の前に、私たちの姿勢はひれ伏すのみです。
第二歴代誌 6章
この章はソロモンの奉献の祈り(Ⅰ列8章)です。主への呼びかけ(1)、民に対する語りかけから始まります(2)。ソロモンは、主がダビデに約束されたことを実現し、主とイスラエルとの契約の証である箱を納めたことを宣言します(3-11)。そして主への告白、祈りが続きます(12-13)。あなたのような神はなく、契約と恵みを守られるお方(14-17)、あなたの住まわれる宮を造ることなど到底できませんが、あなたの臨座の象徴となるこの場、そこに向かう祈りをお聞きくださいと願います(18-21)。そして赦しを求める祈りとして、罪を犯した時、敵に負かされた時、干ばつの時、疫病や戦争、異邦人の祈り、捕虜となった時など、「あなたへ立ち返る」ならばと願います(22-39)。そしてもう一度、主よ、御目を開き、御耳を傾け、祈りをお聞きくださいと願うのです(40-42)。すべての支配者であるお方の臨在を覚えて、そこに向かう祈りを主は聞いてくださいます。
第二歴代誌 7章
ソロモンが主への奉献の祈りを捧げ終えると主の栄光が宮に満ち、民はその栄光の前にひれ伏すのみでした(1-3)。ソロモンと民は非常に多くのいけにえを、献身と交わりのいけにえをささげました。その時、民は、恵みを喜び、心が満たされます(4-10)。11節以降は、王宮の完成後となっていますので、神殿奉献から、十三年後になりますが、主がソロモンに現れ(11)、奉献の祈りに対する応えたが記録されます。すなわち、この場所で祈りを聞かれること(12)、もし罪を犯した時に悔い改めるなら赦されること(13-15)、この宮に私の名をおき主の目と心がここにあること(16)、そして主の前に歩み、命令と掟に従うならば祝福を与えること(17-18)、しかしそれに背き、他の神々に仕えるならば裁きを受けることが語られました(19-22)。私たちは、礼拝の恵みと喜びを味わっているでしょうか。私たちは主に従う道と主に背く道のどちらかの道を歩んでいるでしょうか。
第二歴代誌 8章
ソロモンは神殿と宮殿の建設を終えた後、ツロのヒラムから返されたいくつかの町々を再建します(1-2)。さらにイスラエル北方のハマテ王国、ツォバ王国を打ち破り、またダマスコ北東二百三十キロのタデモル、エルサレムの北西約二十キロの防備の町上・下ベテ・ホロンなどを再建しました(3-6)。そして、外国人を労働力として徴用し、ファラオの娘の家も建てたことが記録されます(7-11)。ソロモンは、主にいけにえをささげ、モーセの命令に従って、安息日、祭りを守り、また父ダビデの定めに従って、その務めをレビ人と祭司に委ねました(12-15)。主の宮は、建築上の完成ではなく、そこでの礼拝、奉仕を含めて完成しました(16)。確かに、ソロモンの治世は祝福され、その支配は南アカバ湾のエツヨン・ゲベルとエイラトに及び、船団を配置し、南西アラビヤのオフィルから金を貿易するほどになりました。モーセ、ダビデ、先人たちの信仰の姿に倣い歩みましょう。
第二歴代誌 9章
アラビヤの南西部シェバ国の女王がソロモンに謁見を求めます。彼女は、その知恵のみならず、建築物、整えられた従者たちの態度に息をのみます。そしてこの国の民の幸いと神の御名を賛美して帰国しました(1-12)。ソロモンの治世において国は非常に繁栄し、金銀をはじめ、貿易によって莫大な富を手にしました。その貿易は、スペインのタルシシュにまで及びました(13-21)。その貿易で得た富によって、軍備にも力を注ぎました。その支配は、東は大河ユーフラテス川、西は地中海岸沿いのペリシテ人の地、南にはエジプトの国境に至るまで広がりました(22-28)。ソロモンの治世は四十年に渡り、それらはいくつかの書物に記録され、彼の子レハブアムが後を継ぎました(29-31)。歴代誌は列王記と違い、晩年のソロモンの堕落の姿を記録していません(Ⅰ列11章)。ただ、神様が与えられた知恵と祝福、国の繁栄を記録します。私たちも主にあって与えられる祝福に目を向けましょう。
第二歴代誌 10章
レハブアムがソロモンの後を継いでイスラエルの王となった後、国が分裂していく様子が描かれます。ヤロブアムはソロモンから逃れてエジプトに逃げていましたが(Ⅰ列王11章)、イスラエルの民とともにレハブアムに謁見し、減税を申し出ます(1-5)。レハブアムはソロモン時代からの長老たちの温情的な助言を退け、共に育った若い仲間のより厳しい対応を取りました(6-11)。ヤロブアムとユダ族(及びベニヤミン族)を除く北の十部族はレハブアムが耳を貸さないことに、怒り、失望し、反旗を翻しました。これはすべてアビヤを通して語られた預言の通りでした。主から離れた晩年のソロモン、そしてイスラエルに対するさばきでした。とはいえ、レハブアムの態度は、箴言に「柔らかな答えは憤りを鎮め、激しいことばは怒りをあおる」(箴言15:1)といった言葉を思い出す時に、どのような助言に耳を傾け、どのような態度で臨むかを考えさせられます。私たちはどうでしょうか。
第二歴代誌 11章
レハブアムに対して反旗を翻したヤロブアムを中心とする北の十部族に対して、ユダ族とベニヤミン族は集結します(1)。しかしシェマヤを通して、そのことは主のみこころではないとのことばにレハブアムは矛先を収めます。主のことばに耳を傾ける姿勢は残っていました(2-4)。レハブアムは国内の防衛に徹し、三年は先祖の道に歩みました(5-12)。それに対して、北王国のヤロブアムは、自分勝手に祭司を任命し、自分都合の礼拝をささげました。それゆえに祭司とレビ人、そして心ある者たちはそれぞれの地を離れ、エルサレムにやってきました。自分勝手な礼拝は偶像礼拝に過ぎません(13-17)。南王国のレハブアムは多くの妻をめとり、その子たちをユダとベニヤミンの全土に分散させ、後継者争いを避けるように知恵を用いました。しかし多くの妻をめとることは律法に反することでした(18-23)。私たちの行動は主の前にふさわしいものとなっているでしょうか。
第二歴代誌 12章
レハブアムは国が強くなるにつれ、高ぶり、主の律法を捨て、また偶像に心を向け(Ⅰ列王14章)、主から心が離れていきました。そして指導者の影響は全国国民に及びました(1)。それゆえ主のさばきが、エジプトの第二十二王朝のシシャク(シェションク)を用いてエルサレムに臨みました(2-4)。預言者シェマヤを通して主は「あなたがたわたしを捨てたので、わたしもあなたがたを捨てる」と語られると、レハブアムと首長たちは悔い改め、完全に滅ぼされることは免れました(5-12)。レハブアムの治世は「心を定めて主を求めることしなかった」とあるように、徹底して主に従わなかったとまとめられます。そこにはアンモン人の母ナアマの影響も少なからずあったのかもしれません(13-14)。彼の後は、息子のアビヤが継ぎました(15-16)。レハブアムの姿は私たちの姿ではないでしょうか。神様に徹底的に従わない時に、傲慢となり、主を離れ、失敗します。
第二歴代誌 13章
北王国ヤロブアム王の第十八年、南王国ではアビヤがレハブアムの王位を継承します。彼の治世は三年間で、ヤロブアムとの間には、父同様、戦いが続きました(1-3)。アビヤは自分たちこそが、永遠に変わらない「塩の契約」の下にあってダビデ、ソロモンという正統な王位継承の系図であること、北王国は金の子牛礼拝や自分勝手に祭司を任命するという罪を犯していると主張します(4-12)。しかし、ヤロブアムはそのことに耳を貸さず、策略を持って攻撃を仕掛けます(13)。しかし、アビヤが主に叫び求めた時(14)、そこには圧倒的な戦力の差がありながら、アビヤはヤロブアム軍に大打撃を与えることができました(15-19)。その後、ヤロブアムは衰え、アビヤは勢力を増し加えました(20-22)。第一列王記十五章から、アビヤは決して立派な王ではありませんでした。しかし、主はあわれみをもって彼を導きました。主は求めるものたちに勝利を与えてくださいます。
第二歴代誌 14章
南王国ユダの三番目の王アサの治世の記録です。彼の治世の最初の十年間は平穏でした。彼は主の目にかなうことを行い、異教の神々や祭壇を取り除き、防備の町々を整えました(1-8)。その後、クシュ(今日のエチオピア)のゼラフに率いられた軍隊とマレシャ(ヘブロン北西約20キロ)のツェファテの谷で対峙します。アサは主に呼び求め、勝利を得ます。アサの「主よ、力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたには変わりありません…人間が、あなたに力を行使することがないようにしてください」との告白に心を留めましょう(9-13)。さらにアサは南のベエル・シェバ北西約二十五キロのゲラル周辺の町々(ペリシテの町々)を打ちます。それは「主の恐れがその町々にあった」からでした。アサ王は戦い、主がそこに勝利を与えられました。私たちは何もしないのではありません。しかし勝利を与えられるのは主です。私たちはそのことを忘れてはなりません。
第二歴代誌 15章
十四章に続き、南王国ユダの王アサの治世の記録です。彼が戦いに勝利し、凱旋した時、アザルヤを通して主のことばが告げられます。あなたがたが主を求めるならば、主は答えてくださる。祖父たちの歩みを覚えて、しっかりと主を求めて生きるように語られます(1-7)。アサは奮い立って、ユダとベニヤミンの地にある神が忌み嫌うべきものを打ち砕き、主の前にエルサレムでいけにえをささげ、もう一度、主との契約を確認し、心を尽くし、いのちを尽くして主を求めることを確認しました。それはまさに、宗教改革でした。民もそのことを喜びました。王も民も、ただ一筋に主を慕い求めました(8-15)。アサは異教の神を拝む母(祖母)をも退け、その心は生涯、全きものであった(17)と記録されました(16-19)。私たちも主に立ち返りましょう。勇気を出して、力を落とさず、労苦には報いがあります(7)。捨てるべきものを捨てて、主に従う歩みに踏み出してまいりましょう。
第二歴代誌 16章
十四章から南王国ユダの王アサの治世の記録が続きます。十五章では、彼の歩みは全きものであったとありましたが(15:17)、晩年の彼は主から心が離れていった様子が記録されます。アサの治世の第三十六年に北イスラエルの王バアシャが攻めてきて、エルサレムの北、八キロほどのラマの町をおさえます。アサは主に頼るよりも、北イスラエルの北方、アラムの王ベン・ハダドに頼り、勝利を得ます(1-6)。それに対して予見者ハナニを通して主のことばが語られます。かつて大軍勢の中でも主はあなたを守られたこと、主は心が全く一つとなっているものに力を表されること。しかしアサはこの予見者のことばに悔い改めではなく、彼を投獄するという態度を示しました(8-10)。さらに、彼は、死の間際の病の中でも、主よりも医者を求めました(11-14)。アサ王の姿は私たちに何を語っているでしょうか。まず主に頼って行動しているでしょうか。主と心が一つになっているでしょうか。
第二歴代誌 17章
南王国ユダの第四代目の王ヨシャファテの治世の記録です。ヨシャファテはユダの町々の防備を固めました。彼はダビデの道に歩み、バアルに代表される偶像を求めず、まことの神を求め、北イスラエルの金の子牛礼拝に倣わなかったゆえにその王国は確かなものとなりました。彼は、主の道を大いに誇り、祭壇のおかれた高きところやアシェラ像を除きました。主が彼とともにおられ、多くの富を手にしました(1-6)。さらにヨシャファテは、指導者たち、レビ人、祭司を国中に遣わし、民に律法を教えました(7-9)。周りの国々には、主の恐れが覆い、戦いを仕掛ける国はなく、西のペリシテ、東のアラビヤから貢物が届けられました。そして国の軍備も強化され、兵士の数も多少誇張もあるかもしれませんが、増大しました(10-19)。主の恐れ、主に従うもの対する祝福があります。また王の歩みはその国と民に影響があります。国の各分野の指導者たちのために祈りましょう。
第二歴代誌 18章
南王国はヨシャファテ王の時、大いに繁栄します。しかし、北王国のアハブ王との姻戚関係に入ったことから状況が変わっていきます(1)。アハブはヨルダン川東岸のラモテ・ギルアデを一緒に攻めるように誘います。ヨシャファテはそれを承諾し、主のみこころを求めるように願います(2-4)。アハブ王のお抱え預言者たちは王の意向に合わせて攻めるべきだと語り、その一人ゼデキヤは鉄の角を作り、必ず勝利が与えられると語ります。しかし、預言者ミカヤは「攻めればよいでしょう」と皮肉を言い、そして偽り霊が他の預言者たちを惑わし、イスラエルは羊に様に散らされ、アハブに災いが起こると預言します(5-22)。その預言にアハブは怒り、ミカヤを投獄します。それでも、アハブは変装して戦場に向かいますが、結局、敵が何気なく放った矢を受けて死にます。ヨシャファテ、アハブ、偽預言者たち、ミカヤ、それぞれの姿から何を学ぶことができるでしょうか。
第二歴代誌 19章
南王国のヨシャファテ王は、北王国のアハブの求めに応じて戦い出ましたが、それは主の喜ばれることではありませんでした。しかし、彼は心を定めて神を求めてきたゆえに、憐れみを受けると予見者エフーが伝えます(1-2)。ヨシャファテは、ユダの地に住む者たちを主に立ち返らせ、各地にさばき人を任命します。そして、主があなたがたを通してさばきを行うゆえに、主への恐れをもって事を行うように語ります(3-7)。またエルサレムにおいても同じように、レビ人、祭司、氏族のかしらの中から訴訟に関わるものを任命し、「主を恐れ、真実と全き心をもって」事を行い、主の前に責めを負うことのないように命じます。特に祭司アマルヤには宗教的事柄に関わる責任を、ゼバデヤには政治的事柄に関わる責任を与えました(8-11)。立てられたものは、誠実に正しいさばきを主の前に行う責任があります。主は善を行うものとともにおられます。主を恐れ、真実を尽くして歩みましょう。
第二歴代誌 20章
南王国のヨシャファテ王の時、ヨルダン東のモアブやアンモンの連合軍が死海の西岸に集結し、攻めてきました。王はひたすらに主を求め、民もまた主を求めました(1-4)。ヨシャファテは主に向かって、あなたはすべての支配者であり、父祖たちとの契約に従って助けてください。私たちには力がありませんと叫びました(5-13)。主はヤハジエルを通して(14)、これは神の戦いであるゆえに恐れてはならない。主が戦われる。堅く立って、主の救いを見なさいと語ります(15-19)。ヨシャファテは出陣し、民に向かい、主の約束を信じるように語ります(20)。そして、勝利を得(21-23)、多くの戦利品を手に入れました(24-30)。ヨシャファテは主の目にかなう歩みをしましたが、民はなおも神に心を定めませんでした(31-33)。彼は北王国のアハズヤと同盟を結び、船団を作りますが、それは主の目にかなったことではありませんでした(34-37)。主にあって勝利を得ましょう。
第二歴代誌 21章
南王国の第五代目の王ヨラムの治世の記録です。アサ、ヨシャファテと十分ではないにしても、ダビデの道に歩んだ祖父や父とは違い、ヨラムは北イスラエルの道に歩み、主の目に悪を行いました。彼はまず兄弟たちや、首長たちを殺害しました。さらにイスラエルの王アハブの道、すなわち偶像礼拝に倣いました。彼の妻はアハブの娘アタルヤでした(22:2)。しかし、主はダビデとの約束のゆえに国に滅ぼすことはなさいませんでした(1-7)。死海の南エドムが反乱を起こします(8-10)。さらに、預言者エリヤの名がついた(すでにエリヤ自身は天にあげられていたと思われる【Ⅱ列3:11】)書状によりさばきが語られます(11-15)。西からはペリシテ人、東からアラビア人が攻め上り、財産を、ヨラムの家族を捕られ、書状の通りに不治の病で彼は死にました。彼の死は、哀悼の香も焚かれず、惜しまれず、王の墓にも納められない最後でした(16-20)。主に従わない者の姿です。
第二歴代誌 22章
南王国の第六代目の王アハズヤ、その母アタルヤ(第七代)の記録です。父ヨラム王の時、アラビア人が敵対し(21:16)、彼の子らは末子アハズヤを除いて殺されたため、彼が王位を継承しました(1-2)。アハズヤは、北王国アハブの偶像礼拝の道にならい、主の目に悪を行います。それは、彼の母、アハブの娘(オムリの孫)であったアタルヤの助言ゆえでした(3-4)。アハズヤは、イスラエルの王ヨラムとともに、アラムの王ハザエルと戦います(5)。ヨラム王はその戦いで傷を負い、アハズヤは彼を見舞います(6)。その時、主に立てられたエフーによって、アハブの一族、すなわちアハズヤ王も殺されます(7-9)。それを聞いたアハズヤの母アタルヤは、自分の孫を含む王位継承者や関係者を皆殺しにし、自分が王位につきます。しかし、アハズヤの子ヨアシュだけは、アハズヤの妹エホシェバに助けられました(10-12)。神なき者たちの罪に荒れ狂う姿を覚えます。
第二歴代誌 23章
南王国の第七代目の王となったアタルヤ女王(第六代目の王アハズヤの母)から、アハズヤ王の子ヨアシュのいのちを守ったエホヤダは、七年目に奮い立って、ついにヨアシュを正式に第八代目の南王国の王に就任させます。その準備は周到に進められました(1-11)。ヨアシュの祖母でもあったアタルヤ女王は、そのヨアシュ王就任の声を聞き、自分の行ったことは棚に上げて、「謀反だ」と叫びますが、彼女は、主の宮から引きずり出され、殺されます(12-15)。身から出た錆です。しかしそれで事は終わりでありません。祭司エホヤダは、アタルヤによって持ち込まれた偶像礼拝を徹底的に破壊し、排除し、そしてダビデ王によって整えられた礼拝、そしてモーセの律法を国に回復させました。民はそのことを喜び、町に平穏が訪れました(16-21)。除くべき悪しき振る舞い、悪しき事柄は徹底的に除かなければなりなりません。奮い立って行うべきことは何でしょうか。
第二歴代誌 24章
南王国の第八代目の王ヨアシュの治世の記録です。ヨアシュは祭司エホヤダの生きている間は、主に仕えます(1-3)。彼は祖母、王女アタルヤが汚した主の宮の修復に取り組みます(4-7)。彼は献金箱を用意し、人々は喜んでささげ、あふれるばかりになりました(4-11)。それは主の宮の再建のために労する労働者への賃金、主の宮の道具に用いられました(12-14)。祭司エホヤダは死に、王たちの墓に葬られます(15-16)。祭司エホヤダの死後、ユダの首長たちがヨアシュ王を伏し拝み、彼は主を捨て、偶像に仕え、主の怒りを招きます。主は預言者を遣わし、悔い改めを促しますが、彼は聞き入れません(17-19)。とりわけ、祭司エホヤダの子ゼカリヤが彼を戒めたにもかかわらず、彼を殺します(20-22)。主はアラムの軍勢を送り、さらに謀反によって、ヨアシュは殺されます。彼は王たちの墓には葬られませんでした(23-27)。主が語られる声に耳を傾けているでしょうか。
第二歴代誌 25章
南王国の第九代目の王アマツヤについてですが、彼は心からではありませんでしたが、その治世の最初の頃は、主の目にかなうことを行いました(1-4)。彼はユダとベニヤミンの兵士たちを登録し、さらに北イスラエルからも兵を雇いました。しかし北王国の兵を雇うことは、主の喜ばれることではなく、アマツヤは神の人の助言に従い、彼らを国に送り返しました。そしてアマツヤはセイル(エドム)を打ち倒しました。しかし、返された北王国の兵士たちは帰る途中で、ユダの町々を襲いました(5-13)。アマツヤはエドム人を打ちましたが、その国の神々を国に持ち込み、主の怒りを招きます(14-16)。また、高ぶったアマツヤは北王国に戦いを挑みます。そして彼は、エルサレムの西25キロほどのベテ・シェメシュで捕らえられます(17-24)。彼は、その後、しばらく生き永らえますが、最後は民の謀反で殺されました(25-28)。主は心から従い続けるものを求めておられます。
第二歴代誌 26章
南王国の第十代目の王ウジヤの治世ですが、彼の治世は非常に長いものでした。彼は、ゼカリヤが生きている間は、主の目にかなうことを行いました。祖父や父と同様の姿です(1-5)。彼は、ペリシテの領地をはじめ、アラビア、アンモン人の地まで支配をのばし、エルサレムの城壁を強固にし、農業や牧畜にも力を入れました(6-10)。そして軍備を整え、名声と力を手に入れると他の王たちもそうでありましたが、強くなるにつれ、高ぶり、神から離れ、そして滅びを招くことになりました。彼は祭司だけが行うべき、神殿で香をたくことを、自分の分を超えようとしました。祭司アザルヤがその罪を指摘すると、ウジヤ王は悔い改めるどころか、怒りをもって答え、それゆえにさばきとしてツァラアトが額に現れました。結局、彼は王たちの墓の脇に葬られました(11-21)。彼の後は、その子ヨタムが継ぎました(22-23)。人の信仰ではなく、自分の信仰に生きなければなりません。
第二歴代誌 27章
南王国の第十一代目の王ヨタムの治世についてですが、彼は非常に良い王でありましたが、その記録は多くはありません。ヨタム王は父ウジヤの良い面に従い、主の目にかなうことを行いました。しかし、民全体に広がっていた偶像礼拝と退廃の影響は完全に拭い去ることはできないほどに巣くっていました(1-2)。ヨラム王は主の宮に通じる門を整え、防備を強化し、さらにアンモン人を打ち破り、貢物を受け取り、力を増し加えました。ヨタム王については「自分の神、主の前に、自分の道を確かなものとした」と記録されています(3-5)。ヨタム王はダビデの町に葬られ、彼の子アハズが王となりました(6-9)。これまでの三代の王たちは、最初は主に従いながらも、良き導き手がいなくなった途端に高ぶり、主から離れていきました。しかしヨタムは、自分の人生の土台をしっかりと神様に据えて、その歩みを確かなものとしました。私たちの人生も揺るがない土台の上に築きましょう。
第二歴代誌 28章
南王国の第十二代目の王アハズの治世についてですが、彼はダビデ王と違い、北イスラエルの王たちの道に歩み、主の前に悪しき王でした(1-4)。主は、彼を北方のアラム国と北王国の第十八代の王ペカの連合軍の手に渡されました(5-8)。しかし神は徹底的に南ユダの民を打つことの望まず、捕虜を解放するように預言者オデデを通して語られました(9-15)。アハズ王は、主に頼らず、アッシリアに助けを求めていました(Ⅱ列王記16:7)。さらに、神は南のエドム人、西のペリシテ人によって南王国を打たれます(17-21)。それらの中にあっても、アハズ王は主に立ち返らず、むしろアラムの神により頼めばうまくいくと考え、ダマスコの神々を礼拝し、異教の祭壇を導入し、罪を重ねました(22-25)。彼は王の墓に葬られることなく、彼の子ヒゼキヤが王位を継承しました(26-27)。罪に罪を重ね、問題の中にあっても神に立ち返らないならば問題を大きくするだけです。
第二歴代誌 29章
南王国の第十三代目のヒゼキヤ王は、父祖ダビデの道に歩み、とりわけ父アハズによる背教に対して、徹底した宗教改革を行いました。彼はそれを最初の年の第一の月に行います。彼は祭司とレビ人に命じて神殿から忌まわしいものを取り除き、主への礼拝を回復するように命じます。そして、手をこまねいていてはならないと語りました(1-11)。その命令を受けて祭司とレビ人は、身を聖別し、異教的なものをエルサレムの東を流れるキデロン川で焼き、宮の用具は聖別しました(12-19)。ヒゼキヤ王は指導者を集め、全焼のいけにえと罪のきよめのいけにえをささげ、そして祭司とレビ人に神殿に仕え、主を礼拝するように命じました(20-30)。彼らは自主的に主への感謝のささげものをささげました(31-36)。私たちの中に取り除くべき汚れはないでしょうか。手をこまねいてはなりません。それらが取り除かれ、主への礼拝が回復するなら、そこには感謝と喜びがあふれます。
第二歴代誌 30章
ヒゼキヤの治世の続きですが、ヒゼキヤは、南ユダだけでなく、エフライムとマナセの残留の民、ベエル・シェバからダンまでとあるように、まさに全イスラエルに主に立ち返るように呼びかけました。偶像礼拝がはびこり、聖別した祭司たちが十分でなかったため開始が一カ月遅れるような状況でした(1-6)。急使たちは、主の憐れみにより頼み、主に立ち返るようにというヒゼキヤ王からの手紙を携えて、全土に遣わされました(7-9)。その呼びかけに北王国のある者たちは嘲り、ある者たちは南ユダの民とともにエルサレムに上ってきました(10-12)。そしてエルサレムで過ぎ越しのいけにえが、久しぶりに南北の民でささげられました。ある者たちは定めの通りに行うことができなかった者たちがいましたが、主はその心を受け入れました(13-20)。喜びの時は十四日間に及びました(21-27)。悔い改め、主に立ち返り、喜びを味わう道と、なおも自分勝手に生きる道があります。
第二歴代誌 31章
延長した日を含めて十四日間の祭りを終えて、人々はそれぞれの町に帰り、偶像礼拝に関わるものを徹底的に破壊しました(1-2)。ヒゼキヤ王は祭司とレビ人の組み分けを行い(3)、自ら犠牲を払っていけにえをささげ、そして、主に仕える奉仕者が働きに専念できるように奉納物を人々に命じました。(4)。すると、人々は律法の定めに従い、十分の一を携えてきました(5-10)。そのささげられたものは非常に多く、それらは神殿に付属する脇部屋に納められ、それらを管理するものが任命され、それらは身分の差や、家族の数、放牧地に住むものなどといった区別に関係なく、公平に分配されました。それらは聖なるささげものであり、聖なるものとして忠実に扱われるべきものでした(11-19)。ヒゼキヤ王は忠実に、心を込めて、自分の責任をはたしました(20-21)。主から受けた恵みを、主の前に正しく取り扱っているでしょうか。どのようにその富を用いていくべきでしょうか。
第二歴代誌 32章
アッシリア軍の進攻に対して(Ⅱ列王18章)、ヒゼキヤは泉を隠し、城壁を修復し、武器を用意し、大いなる神がともにおられるゆえに恐れてはならないと民を励ましました(1-8)。センナケリブの軍隊は、エルサレムに押し寄せ、お前たちは何により頼んでいるのか。どんな神々も俺たちの手からお前を助け出せないと大言壮語を吐き、まことの神を偶像の神々を並べて侮りました(9-19)。ヒゼキヤ王は預言者イザヤとともに主に祈り、叫び求めました。主はみ使いを遣わし、アッシリアの大軍を打ち滅ぼされます。センナケリブは国に逃げ帰り、息子たちに殺されます(20-23)。この出来事はヒゼキヤの名声を高めます。またヒゼキヤは病気となりましたが、癒されたこともあり、心を高ぶらせます。しかし、悔い改め、彼の治世において、主のみ怒りは下りませんでした。彼はヒゼキヤトンネルをはじめ多くを成し遂げました(24-33)。私たちは何により頼んでいるでしょうか。
第二歴代誌 33章
第十四代目の南王国の王マナセは若くして王となり、長期政権を担いますが、その治世は決して主の目にかなったものではなく、父ヒゼキヤと違い、あらゆる偶像礼拝を行いました(1-9)。主はアッシリアを通して、マナセを打ち、その苦しみの中で、マナセは主の前に悔い改め、主に祈ったゆえに、主はマナセを救い出されました(10-13)。その後、マナセはへりくだって、町の防備を整え、偶像を捨て去り、主への礼拝を回復しました。このことは第二列王記二十一章には記録されていない姿です(14-17)。彼は眠りについて、彼の子アモンが第十五代目の王となりました。アモン王は父マナセの若い時の姿にならい、主の前に悪しき行いを続けました。彼は悔い改める機会なく、謀反によって殺され、彼の子ヨシヤが王となりました(21-25)。晩年に主から離れる王と違い、マナセは晩年、悔い改めて、主に立ち返りました。主に立ち返るのに遅いことはありません。時を逃してはなりません。
第二歴代誌 34章
南王国第十六代目の王ヨシヤの治世は主の目にかなう歩みでした。ヨシヤによる宗教改革は、全土に及び、偶像の神々、その祭壇を打ち砕きました(1-7)。その治世の中盤に、彼は主の宮の修理を行い、費用を支払い、各分野の仕事にある者たちが忠実に実行されました(8-13)。その際、祭司ヒルキヤが律法の書を発見し、書記シャファンを通して、ヒゼキヤの前で朗読されます。王は律法の書のことばを聞いた時、主の御怒りの前に激しく悔い改めました(14-21)。女預言者フルダを通して、主は先祖たちの犯した偶像礼拝に対する怒りは消えることはないけれども、あなたの悔い改めのゆえに、さばきは延ばされ、あなたの治世は平和の内に終わると告げられます(22-28)。ヒゼキヤ王は、人々を集め、律法の書を朗読し、主との契約を確認し、偶像を離れ、主に従って歩むことを命じました(29-33)。聖書を通して、罪を自覚した時、すぐにそれを認め、悔い改めて歩みましょう。
第二歴代誌 35章
前の章で、ヨシヤ王は、律法の書を発見し、主に立ち返って歩むことを民と確認しました。続いて、彼は過ぎ越しのいけにえをささげるために祭司とレビ人をその任につけました(1-6)。王は多くのいけにえを自らの財産から供出し、それに高官たち、またレビ人の長たちもならいました(7-9)。祭司とレビ人は規定の通りに、いけにえをささげました。多くのいけにえのため夜まで奉仕は続きましたが、奉仕者たちの働きは支えられました(10-15)。それはサムエル時代以来の壮大な過ぎ越しの祭りとなりました(16-19)。そのような善王のヨシヤでしたが、その最後は、エジプトがアラムへの支配に手を伸ばした時に、エジプト軍を迎え打ち、エジプト王ネコを通して語られた主のことばには聴かず、戦いで傷を負い、死を迎えるという最後でした(20-27)。指導者の影響力は国を建てあげることもあれば、滅ぼすことにもなります。立てられた指導者のために祈りましょう。
第二歴代誌 36章
ヨシヤ王の子エホアハズ(シャルム・エレミヤ22章)が第十七代の南ユダの王となりますが、その治世は三カ月で、エジプトに捕らえられ、彼の兄エルヤキム(エホヤキム)が第十八代の王に即位しました。(1-4・Ⅱ列王23章以下)。エホヤキムは主の目に悪を行い、バビロンに主の器とともに連れ去られ、彼の子エホヤキンが第十九代の王に即位しました(5-8)。エホヤキン(エコンヤ)の治世も約三カ月で、主の目に悪を行い、主の宮の器とともにバビロンに連れ去られました(9-10)。最後の王、ヨシヤ王の子ゼデキヤが第二十代の王となりますが、彼も主の目に悪を行い、民もまた、主が語り続けたにもかかわらず、立ち返ることなく、ついにバビロンによってエルサレムは破壊され、高官たちは財宝とともに捕囚となりました(17-21)。七十年の時が満ち、ペルシアの王キュロスの時に、主のことばの通り、回復が実現します(22-23)。主のさばきと憐れみは変わることがありません。