メッセージ

日付 聖書個所 メッセージタイトル 説教要旨 

2024年度(2024.4-2025.3)

2024年4月28日 ルカ12:13-21 「おろかな おかねもち」

【序論】本当の意味で、「私のもの」と言えるものがあるでしょうか。いのち、人生、家族…それは「私のもの」なのでしょうか。
【1.兄弟喧嘩 13-15】 ある人が、イエス様に、兄弟に遺産を私と分けるように言ってほしいと願い出ます(申21:17)。イエス様は、私はそのような問題を解決するために遣わされたのではないと答え、人々の心にある同じような思いに対して「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。」(15)と語られました。貪欲とは、私たちが、今、与えられているものに満足せず、「もっと」という思いに支配されることです。
【2.愚かな金持ちのたとえ 16-20】 イエス様は一つのたとえを語られます。沢山の作物が収穫できたお金持ちがもっと大きな倉に納め、自分のたましいに、安心して、楽しめと言います。しかし神はその人に、愚か者、今晩あなたは死ぬと言われます。なぜこの人は愚か者と言われたのでしょうか。
【3.神様に対して富む 21】 その人は自分のことにしか目を向けず、自分のものにしか関心がありませんでした。神様への感謝もなく、まさに神に対して富まない人でした。また、沢山「もの」があるから安心と、いのちを守られるお方への信頼もありませんでした。私たちは、必要を与えてくださる神様に感謝し、このお方に信頼し、どんな貪欲から自由にされて歩んで参りましょう。



2024年4月21日 エズラ4:1-6(4章) 「私たちに属する事柄」

【1.唯一の神を礼拝する 1-4】 「ユダとベニヤミンの敵」とは、北イスラエルの民と移住させられた民族の混血民族で、彼らはバビロン捕囚からの帰還民による神殿再建は、自分たちの立場や利益を損ないかねないと考え、まずは協力を申し出て、そこで自分たちに都合よく、あるいは妨害を試みようと考えました。しかし帰還民の指導者たちは、自分たちの信仰を危険にさらしかねない(Ⅱ列17:29,31,41)、彼らの申し出を退けました。
【2.不条理な訴えによる妨害 5-24】 敵対者はすぐさま本性を現し、脅して民の気力を失わせ、さらには地方官を買収して妨害し(5)、ダレイオス王の第2年まで神殿再建は中断されました(24)。さらにその後の時代にも妨害は続きました。クセルクセス王の時も(6)、アルタクセルクセス王の時も(7-23)、悪意ある手紙によって中断を余儀なくされました。主の働きであっても、妨害され、中断させられることが起こります。
【3.私たちに属すること 3】 確かに様々な妨害の中でも神殿再建(エズラ6章)、城壁修復(ネヘミヤ書)はやがて実現します。私たちは、妨害の中にあって「自分たちに属する事柄」、すなわち成すべきこと、使命、責任にしっかり立って、妥協しないこと、譲ってはいけないことは揺るがさないことを覚えます。また「私たちだけで」と、一つとなって歩み続けます。



2024年4月14日 Ⅰヨハネ3:1-6 「私たちは神の子どもです」

【1.神の子どもです 1】 イエス様を信じる者たちは、「神の子ども」と呼ばれるだけでなく、事実、今、神の子どもなのだとヨハネは語ります。そして、そのために、どれほどの愛を神様が私たちに示してくださったかを考えなさいと語ります(ヨハネ3:16、Ⅰヨハネ4:8-9)。私たちは、神様の大きな愛、御子の大きな犠牲、その恵みによって、神の子どもとされたのです。
【2.キリストに似たものとなる 2】 今、神の子どもである私たちの将来はまだ明らかにされていませんが、キリストがもう一度来られた時、キリストに似たものとなることが分かっているとヨハネは語ります。私たちは神の子どもとしてキリストに似たものに変えられ続け(Ⅱコリント3:18)、そして、キリストが現れる日、完全にイエス様に似たものとされる希望があります。
【3.罪を犯しません 3-6】 そのような希望を持つ私たちは、将来そうなるのだから、今はどうでもいいということではありません。そこに向かって、私たちは主イエス・キリストと同じ姿に変えられ続け、キリストのように歩むことを願うはずです(Ⅰヨハネ2:6、2:29)。罪とは律法(参:マタイ22:36-40)に違反する事です。そして、ヨハネはキリストにとどまるならば罪を犯さないと語ります。これは私たちとって大きな希望であり、同時に、チャレンジではないでしょうか。



2024年4月7日 Ⅰヨハネ2:28-29 「キリストにとどまる」

【はじめに】 前回は、「今は終わりの時」であることを確認しました。
【1.とどまる 28】 そして、ヨハネは「今こそ、彼のうちにとどまれ」と語ります。イエス様はぶどうの木、私たちは枝です(ヨハネ15:4-5)。そこには、「とどまる」とは、主のことばがとどまること(15:7)、主の愛のうちにとどまることが語られます(15:9)。そして、私たちは互いの愛にとどまるのです。
【2.主の来臨 28】 ヨハネがとどまるように語るのは、主の現われ、主の来臨、すなわち再臨の時に(マタイ16:27)、私たちが確信を持ち、神の御前で恥じることのないためです。私たちは、イエス様の十字架のゆえに、信仰によって、罪を赦され、義と認められ、神の子とされ、永遠のいのちを受けました。この確信にとどまり、歩みましょう(Ⅰヨハネ5:13、4:16-17)。
【3.誠実に生きる 29】 私たちの地上の歩みは、神の子どもとして、キリストに似たものとして生きる歩みです。それは義を行う者としての歩みです。神様は、この世を愛し、人々を愛し、この世に、神の義、平和、愛を届けようとしておられます。私たちも、神の子どもとして、その実を結びましょう。信じる者のうちにおられる聖霊なるお方が私たちに内にあって結んでくださる実は「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22-23)です。