ナホム書

ナホム書
ナホムの書の背景は、ヨナの時に(紀元前8世紀)、悔い改めたアッシリア(ニネベ)が、再び、高ぶり、北王国をはじめ諸外国に対して暴虐を尽くしたゆえに、神のさばきが下されます。この書は「復讐」(1:2)で始まりますが、アッシリアの滅亡、神の復讐が中心テーマとなります。事実、アッシリアの首都ニネベは、台頭してきたバビロンに滅ぼされます(紀元前612年)。預言者ナホムは、ゼパニヤと同じ前七世紀の預言者と考えられますが、出身地エルコシュも含め、その人となりを知ることはできません。しかし、その内容から卓越した詩人であることが伺えますが、一章には、さばきの神が明らかにされ、二章、三章で、ニネベへのさばきが具体的に描かれます。どんな大国であっても、神の正しいさばきの前には無力です。それは今日も同じです。神は歴史の中に働き、力をもって介入されます。主に身を避けることの幸いを覚えつつ(1:6、7)、平和の使者とされましょう(15)。

ナホム書 1章
預言者ナホムに与えられた、アッシリアの首都ニネベへの宣告です(1)。主は愛の故に「ねたんで復讐する神」と語られ(2)、神様の厳しいさばきが宣告されます。怒るのに遅い方ですが、罰せずにおかれることはありません(3)。神の圧倒的な力強さが詩的に描かれます(4-6)。しかし慈しみ深い主に身を避ける者たちは幸いです(7)。再び神に敵対する、特にニネベの姿とさばきが語られます(8-11)。十二節からは一転して、神の民ユダへの慰めの言葉となります。圧倒的な力を誇ったものたちでさえも、神は打ち砕かれ(12)、神の民を解放します(13)。主は、神の民に敵対するものたちを絶ち滅ぼし、偶像を破壊します(14)。解放の良い知らせ、平和を伝える者の足は喜びをもたらします(15)。良い知らせ、福音を受けた私たちは罪と死の支配から解放され、神との平和が与えられました。自由を与えられた私たちは、福音の足となりましょう(イザヤ52:7、ローマ10:15)。

ナホム書 2章
ニネベに対して「追い散らす者」が立ち向かいます(1)。イスラエルは主にあって、かつての威光を回復されると約束されます(2)。アッシリアを滅ぼすことになるバビロンとメディアの連合軍が、緋色の衣をまとい、火のように激しく、稲妻のように速やかに襲います(3-4)。地位ある者たちさえも戦闘に駆り出され、水は絶たれ、人々は嘆き、そしてついには、水が流れ出るように人々も金品も散らされていきます(5-9)。かつてアッシリアやその同盟軍は、獅子のようにして力を誇り、餌を狩るように国々から奪い、栄華を極め、自分たちを潤しました。しかし万軍の主が彼らに敵対する時、彼らは食い尽くされ、手にした富は奪われ、貢ぎと服従を求める使者たちの声は消え失せます(10-13)。いくつもの栄華を極めた国々が、今は跡形もなく消えさりました。歴史の支配者なる神様は必ず正しいさばきをなされます。私たちはこの国のために何ができ、何をすべきでしょうか。

ナホム書 3章
「流血の町」と語られ、虚偽、略強に満ちたニネベは、ついに戦地となり、死体が溢れます。その町は不品行な遊女の姿にたとえられます(1-4)。主は彼らを「敵とする」と再び(2:13)語られます。彼らは恥を見、愚弄され、慰めるものもいません(5-7)。アッシリアはエジプトのあのテーベを陥落させ(前663年)力を誇りましたが(8-10)、今度はニネベが、誰もが狙う初なりのいちじくのように、敵に侵略されるのです(11-13)。包囲に備えて努力をしても、それは空しく、敵は彼らを食い尽くします(14-17)。アッシリアの王に告げられます。指導者たちは何もできず、人々は散らされ、徹底的な破壊が起こり、暴虐の限りを尽くした彼らの滅びは諸国を喜ばせます(18-19)。ヨナ書とあわせて、あわれみ深い神様の厳しいさばきを覚えます。諸外国、私たちの国、私の姿を顧みて、不品行、嘘偽り、偶像礼拝、人間的力への傾倒、隣国(人)への姿勢を確認しましょう。