エゼキエル書

エゼキエル書
この書の著者は祭司エゼキエル(1:3)で、時代的には、エホヤキン王の捕囚の五年目(1:2 前592年頃)とあるのでエルサレムの陥落前、すでに多くの有力者がバビロンに捕囚され、祭司エゼキエルもバビロンで活動したと思われます。この書には幻も多く、非常に難解な書物でもあります。内容はエゼキエルの召命(1-3章)から始まり、第一にエルサレムがバビロンに包囲される前に、エルサレムの滅亡が預言されます。神に背いたゆえのさばきと悔い改めが迫られます。そして主の栄光が去ります(4-24章)。第二にエルサレが包囲された時の預言で、エルサレムの滅亡を喜ぶ諸国へのさばきが語られます(25-32章)。第三にエルサレムが陥落した後の預言で、イスラエルの回復が預言され(33-39章)、神殿の回復の幻が語られ、主の栄光が帰って来ることが約束されます(40-48章)。神は正しいさばきをなされるお方ですが、またあわれみをもって悔い改めるものを回復されるお方です。

エゼキエル 1章
祭司エゼキエルは捕囚の地バビロンの川のほとりで幻を見せられます(1-3)。彼は、人間・獅子・牛・鷲の四つの顔と、四つの翼を持つ不思議な四つの生き物の幻を見せられます。それらは霊の進ませるところに進みます(4-14)。そばには縁一面に目を持つ輪がそれぞれあって、ともに行動しました(15-21)。その頭上には水晶のような大空が広がり、さらに翼の音は大水のとどろき、全能者の声、陣営の騒音のようでした。そして頭上の大空から声があると彼らは翼を垂れて止まりました。さらに、その頭上の大空のはるか上方に、王座に似たものがあり、さらにその上方に人の姿に似た方がおられるのが見えました。腰から上も下もきらめき輝いています。それは虹のようで、まさに主の栄光の輝きです。そしてひれ伏すエゼキエルに声がかかります(22-28)。実に不思議な幻です。しかし、まさに筆舌に尽くし難い偉大なる神の栄光を覚えます。主はどんな中にも臨在を示されます。

エゼキエル 2章
前章の最後に出てきた大空におられたお方が、エゼキエルを「人の子」と呼んで、語られます。そして彼に主の霊が入り、彼は立ち上がらされます。彼は神に背く、頑なな民に遣わされます。彼らが聞く、聞かないにかかわらず、自分たちのうちに預言者がいること、すなわち主が語り続けておられることを知らせるためです。困難に遣わされるエゼキエルに、主は「恐れるな」と励まされます(1-7)。そのために、まずエゼキエルが主に従うように語られます。主のことばをしっかり受け止め、「口を大きく開けて」、食べるように命じられます。そして、表にも裏にも嘆きとうめきと悲痛が記されている巻物を見せられます。彼は民の対する厳しいことばを語るように遣わされるのです(8-10)。私たちも弱い人間に過ぎません。しかし主の霊が立ち上がらせてくださいます。私たちは人々が聞こうが、聞くまいが、まず主のことばを受けとめ、そして語り続けましょう(Ⅱテモテ4:2)。

エゼキエル 3章
天から語られるお方が、エゼキエルに巻物を食べよと命じます。それは口に蜜のように甘いものでした。その方は、エゼキエルに、バビロンにいることばの分かる同胞イスラエルの民に語れと命じます。彼らは非常に頑なですが、彼らが聞いても、聞かなくても語れと命じられます(1-11)。その後、エゼキエルは大きな音の中で、霊によって引き上げられますが、民の姿に心が重く沈みます。彼はケバル川のほとりテル・アビブで茫然とします。七日の終わりに、彼は見張人として警告を語れと命じられます。語らなければ、その責任は彼にあり、警告を聞かないなら、その責任は彼らのものとなります(12-21)。それから、彼は平地に導かれ、再び主の栄光を見せられます。今度は、家に閉じこもれ、あなたは話せなくなり、語るべき時に、口が開かれると語られます(22-27)。預言者は神に従うことが求められます。みことばを語れと言われたら語り、黙る時には黙って語るべき時を待ちます。

エゼキエル 4章
エゼキエルは預言者として象徴的行動を命じられます。粘土板にエルサレムが包囲される戦闘の様子を刻み、さらに、それと自分の間に鉄の板をつい立のように立てます。それはこれから起こるエルサレムに対する神のさばきの預言です(1-3)。また左わきを下にして横たわり、身動きできない苦痛を三百九十日間、さらに右わきを下に四十日間、過ごします。これは北イスラエル、そして南ユダの咎とそれを負う行為と思われます。その日数(年数)も何らかの象徴があるのでしょう。さらに縄をかけられるのは捕囚の象徴でしょうか(4-8)。その間、彼は雑穀で量を増やしたわずかなパン(約230g)と水(約0.6ℓ)で一日を過ごさなければなりません。しかもパンは乾燥した人の糞で焼くように命じられます。祭司エゼキエルは、汚れを避けるために、牛の糞に変えてもらいます。それは食糧難、異国の地で汚れたパンを食べる姿です(9-17)。預言者は苦難を共に味わい、身をもって語ります。

エゼキエル 5章
エゼキエルはさらなる象徴的行動を命じられます。髪とひげを剃り、三分の一ずつ、焼き、剣で打ち、風に散らします。また最後の三分の一からわずかにとって裾に包み、一部を焼きます(1-4)。エルサレムは諸国の中心に置かれたにもかかわらず、主の掟に従わず、反逆し、主が忌み嫌う偶像礼拝を行いました。それゆえ主は彼らをあわれまず、惜しみません。エルサレムの住民の三分の一は疫病に、三分の一は剣に、三分の一は散らされます(5-12)。主の怒りが出し尽くされ、憤りが終わる時、民は主が民をねたむほど愛するゆえに行ったことを知ります。諸国の民もまた、その厳しいさばきに教訓と恐怖を覚えます。主が放つ飢饉という矢、悪い獣、疫病、流血をとどめることのできるものはありません(13-17)。聖なる主は愛するものさえもさばかれます。それは、ねたむほどの愛をもって彼らを立ち返らせるためです。そして彼らのへのさばきは諸国の民の心を神に向けさせます。

エゼキエル 6章
エゼキエル(人の子)にイスラエルの山々に向かって預言せよと語られます(1)。山々の偶像の礼拝の場とされた高き所、その祭壇や香の台は破壊され、その周りには死体がまき散らされます。人々はその時、主こそ神であると知ります(3-7)。しかし残される者たちがいると約束されます。彼らは捕囚の地で、自分たちの罪、すなわち、主から離れ、霊的姦淫を犯し、主がどれほど傷ついたかを思い起こします。その時、彼らは主を知るのです(8-10)。彼らの罪は剣と飢饉と疫病でさばかれます。それは主の激しい憤りです。民は「ああ」と嘆きます。そして打ち殺された者たちが祭壇の周りに横たわるのを見る時、彼らは主を知ります。そして地が南の荒野から北のリブラまで荒廃する時、主を知ります(11-14)。義なる主の厳しいさばき、罪に対する憤り、それは民が主こそ神であり、主に立ち返ることを願われるゆえの行動です。今、経験して痛みは主を知るためことではないでしょうか。

エゼキエル 7章
主の怒りとさばきが南ユダの隅々に臨みます。事実それは前五八六年に起こります。しかしその日は、主を知る時です(1-4)。類のないわざわい、その終わりの時の厳しさが語られ、その日が来ると警告されます。その時、主があなたを打つ方だと知ります(5-9)。それは彼らの高ぶりや悪のためです。富は失われ、生き延びても土地を取り返せません(10-13)。戦いの備えをしても誰も出ていけません。なぜなら敵に囲まれ、さらに疫病や飢饉が襲うからです。みな気力を失います。金銀も、またそれで作った偶像も助けになりません。彼らは自らを汚したゆえに、彼らが他国によって汚されます。主は彼らから顔を背けます(14-22)。彼らはバビロンに鎖で引いて行かれ、家々は占領され、聖所を汚されます。恐怖が襲い、平安は奪われます。幻も、律法も、助言も、有力者も失われ、民衆はわななきます。その時、民は主を知るのです(23-27)。さばきの日は、主を知る日でもあります。

エゼキエル 8章
エホヤキン王の捕囚から六年目、第六年(前591年)のこと、神である主の御手がエゼキエルに臨み、幻でエルサレム神殿に連れて行かれ、イスラエルの罪の姿が見せられます(1-4)。神殿の内庭に入る北門の入口に偶像が置かれています。神の「ねたみ」を引き起こして当然です(5-6)。次にエゼキルは壁に穴をあけて通り抜けるようにと象徴的行動を命じられます。内壁には偶像が彫られ、異教の偶像があふれ、そこにイスラエルの指導者たちの姿を見ます。彼らは「神は見ていない、主はこの地を見捨てた」とつぶやいています(7-13)。さらに神殿に入る北門の入口では、女たちがバビロンの神タンムズの儀式をしている姿を見ます(14-15)。宮の内庭では、人々が神殿に背を向け、東を向いて太陽を拝み、さらに異教の風習をまねて礼拝していました。それゆえ主は激しい憤りをもって応じると語られます(16-18)。礼拝の場のひどい有様です。私たちの礼拝の姿はどうでしょうか。

エゼキエル 9章
エゼキエルは主の語られる大声を聞きます。破壊する者、都を罰する六人のみ使いによるさばきの幻です。そこに、もう一人、書記の筆入れを持つ人が加わり、七人が北からやってきます(1-2)。主は、祭服を着て、筆入れを持つ者に、エルサレムを行き巡り、エルサレムの現状を嘆き悲しむ者の額にはしるしをつけるように命じます。しかし、しるしのない者たちについては、老若男女を問わず、あわれむことなく打ち滅ぼすように、命じられます。それは聖所から始まります(3-6)。庭は死体で満たされ、汚れ、神の臨在は去ります。エゼキエルは、捕囚されず、都に残ったものたちを完全に滅ぼされるのですか、と叫びます。主は、彼ら自分自身の行いに報いると答えます。その時、亜麻布の人が、しるしをつけて戻ってきます(7-11)。前章の偶像礼拝の現実と神のさばき、しるしを受ける者の存在、主の宮からさばきが開始される姿(Ⅰペテ4:17)、ここに私たちの姿を顧みましょう。

エゼキエル 10章
エゼキエルは、天的存在である「ケルビム(ケルブの複数形)」の頭上にサファイアのような、王座に似たものがある幻を見せられます。主は、祭司の服である亜麻布をまとった者に、炭火を手に満たし、エルサレムにまき散らせと語られます。これはさばきの宣告です。神殿は主の栄光に満ちていました(1-8)。一章に登場した四つの顔を持つ生き物が再登場します。四つの輪は「車輪」(13)と呼ばれ、牛の顔(1:10)はケルビムの顔(10:14)となっています。また一つの輪の中にもう一つの輪があり、それらが「ケルビム」(9)の両脇にあって、さらに目は全体(1:18、10:12)についています(9-17)。主の栄光が神殿を去り、ケバル川のあるバビロンに向かいます(18-22)。不思議な幻ですが、主の栄光がエルサレムを去り、バビロンに向かう幻で、神殿があるから滅びないと高を括る者への強烈な警告です。私たちも自分は今のままで大丈夫だとうそぶく姿がないでしょうか。

エゼキエル 11章
霊に引き上げられたエゼキエルは、ユダの指導者たちのところに行くと、エルサレムは難攻不落(鍋)、自分たちは特別な存在(肉)で、ゆっくり家を建てようと彼らは臆面もなく話していました。主は彼らを剣が襲い、バビロンに連れ去られると、彼らの言葉を真っ向から否定します。さらに「主は逃れさせる」という意味を持つ指導者ペラテヤの突然の死が起こります。エゼキエルは、残りの民をみな滅ぼすのですかと叫びます(5-13)。エルサレムに残された民は、先に捕囚された者たちをあざけりますが、その捕囚の民こそが残りの民となり、主は散らされたところで彼らの聖所となり、彼らを集め、そして連れ戻すと語られます。そして彼らは「新しい霊」「肉の心」を与えられます。彼らは主の掟、定めに従うようになります(14-21)。主の霊は都からオリーブ山に、エゼキエルは捕囚の民のところに戻され、民に告げます(22-25)。うわべではなく、主の臨在と心の刷新こそが重要です。

エゼキエル 12章
主は、エゼキエルに象徴的行動を命じます。荷物をまとめ、城壁が崩れるように壁に穴をあけ、悲しみながら下を向いて出ていき、捕囚の姿を示します(1-7)そして、君主ゼデキヤ(前597年にエホヤキン王やエゼキエルらは捕囚)と民に告げよと言われます。やがて君主は目をつぶされ、バビロンを目で見ることができず死に、助ける者も散らされます。これは少し後の前586年に実現します(参:Ⅱ列25)。残された民がこのことを語り告げ、人々は、主こそ神であることを知ります(8-16)。さらにエゼキエルは恐れながら食べ、飲むように命じられます。それは、恐れおののく民の姿の象徴です(17-20)。主は、さばきの日は先のことで、預言者の幻は実現しないということばはむなしく、主のことばは引き延ばされることなく、はるか遠い将来ではなく、必ず成就すると語ります(21-25)。主のことばを真剣に聞かない民。しかし、主のことばは主の時に、人の都合によらず、必ず実現します。

エゼキエル 13章
この章からは、直接、主のことばによるエルサレム滅亡が預言されます。まずは偽りの預言者を責めます。彼らは自分の心のままに語るにもかかわらず、それを主のことばと言っています。廃虚の狐のように獲物を捜します。そして、むなしい幻、まやかしの占い、平安がないのに平安と、民の罪を責めず、それはまるで漆喰で上塗りし誤魔化すようです。それゆえ、主は激しい雨や風でそのうわべを取り去り、土台まであらわにすると言われます。その時、主を知ります(1-16)。後半は女預言者への警告です。彼女たちはただの占い師で、呪法の紐を結び、占ったようです。わずかなパンを得るためにまやかしを行い、人の生死を願いました。主は、占いの罠にかかった人々を解放し、救い出すと語られます。その時、民は主を知ると語られます(17-22)。自分都合のことばを主のことばのように語る者、占いに頼るような者となっていないだろうか。主をのみ信頼し、恐れているだろうか。

エゼキエル 14章
捕囚の地で長老たち(8章)がエゼキエルの前に来ます。主は、彼らが心のうちに偶像を、顔の前に不義を置いていると責めます(1-5)。そして民に、偶像から身をひるがえし、主が忌み嫌うべきものを遠ざけよと語られ、民を惑わす偽預言者を責めます。捕囚の民の回復が、イスラエルの回復につながります(6-11)。エルサレムの住民に対して、飢饉、獣、剣、疫病が襲い、たとえ義人の代表としてのノアとダニエルとヨブがとりなしをしても自分のいのちを救い出すだけで、誰も救い出せないと厳しい言葉が繰り返されます(12-20)。しかし、そこに逃れの者が残され、彼らはエルサレムからバビロンに逃れ(第三回の捕囚のことか)、彼らの生き方を聞き、主が不信仰をさばかれたことを知り、あなたがたは慰めを得ると語られます。主がなされることには意味があることを知らされるからです(21―23)。心に隠している偶像はないか。主のなさることには意味があることを覚えます。

エゼキエル 15章
エゼキエルを通して、主はイスラエルをぶどうの木にたとえて語ります。特に野生のぶどうの木は実もつけず、細く曲がりくねって、他の木々に比べてどこが優れているのかと問われます。木材にもならず、木工細工にも使えず、焚き火用にするにも、すでに焦げてしまっているなら何の役に立つのか、と語られます。彼らは周りの国々と比べてどこが勝っていたでしょうか。北イスラエルは滅亡し、南ユダは、すでに一部が捕囚の憂き目にあっていました。それは主が彼らに敵対されたからです(1-5)。そのようにして、主なる神はエルサレムに火を投げ込み、さばきを下すと語られます。主は彼らから顔を背けます。その時に、民は主を知ると語られます。イスラエルの民が主への信頼を裏切ったゆえに、イスラエルの地は荒れ果てるのです(6-8)。主はぶどうの木であるイスラエルを手入れしたにもかかわらず、彼らは、実を結びませんでした。私たちはどうでしょうか(ヨハネ15:4)。

エゼキエル 16章
エルサレムが主の花嫁として描かれています。もともとエルサレムはカナン人のたちが住んでいた異教の町でしたが、主が「生きよ」と救い出し、育て上げました(1-7)。主は契約を結び、美しく飾り、その名声は高まりました(8-14)。ところがその町は、他国に頼り、偶像に心を寄せ、貢物をおさめながら、姦淫を犯し続けました。(15-34)。それゆえに主はねたみと憤りで、花嫁エルサレムをさばくと言われます。エルサレムは他国に蹂躙されます。彼らの忌み嫌うべきわざと淫らな行いの報いが頭上に帰されます(35-43)。彼女の両親は偶像礼拝のカナン人であり、姉妹は堕落したサマリヤやソドムであって、それ以上の罪を犯していると責められます(44-52)。しかし、彼女には、さばきの後、回復される約束が語られます。主は契約を忘れることなく、罪を赦し、永遠の契約を立てるといわれます。その時、彼女は罪を悔い改めます(59-63)。主のさばきと憐れみ、回復を覚えます。

エゼキエル 17章
エルサレム滅亡(前586年)前に、エゼキエルを通して、たとえとその解説が語られます。バビロン(大鷲)が来て、エホヤキン王(若枝の先)を商業都市バビロンに連れ去ります(前597年)。そして、ゼデキヤ(種)がイスラエルに立てられ(Ⅱ列24:10-17)、バビロンの庇護の下、イスラエルは成長します。しかし、ゼデキヤは、エジプト(もう一匹の大鷲)に頼り、一時は栄えますが、バビロン(東風)によって滅ぼされます(7-10)。その謎かけの解説は、特にバビロンとの契約は、神がイスラエルをへりくだらせ、存続させるためのものでありましたが、ゼデキヤ王は、その契約を軽んじ、エジプトに頼り、結果的に、神への裏切りとなりました。主は、契約を蔑む者へのさばきを語られます(11-21)。しかし主のあわれみは尽きず、主、自らがイスラエルを回復してくださいます。この約束は、救い主(若枝)の到来にまで向かいます(22-24)。約束(契約)に誠実を尽くしましょう。

エゼキエル 18章
「熟していない酸っぱいぶどうを父が食べると子の歯が浮く」とは、親の行為が子に結果を及ぼすということわざで、それを盾に、現在の苦難を先祖だけのせいにし、自分の生き方を顧みようとしない人々に、罪を犯した人が死に、公正と義を行う正しい人は生きると語られます(1-9)。そして、正しい人の子が無法者となるなら、その責任は彼自身に(10-13)、逆に無法者の子が父の罪を見て反省し、そのように行わないなら必ず生きると語られます。主は、その人自身が自分の罪の罰を負うと語られます(14-20)。そして悪しき者が罪から立ち返るならばその人は必ず生き、主が喜ぶことは、その人が立ち返って生きることです(21-29)。主はそれぞれの生き方に従って、公正にさばかれます。それゆえ、立ち返り、背きから身を翻し、背きを放り出し、新しい心と新しい霊を得よと語られます。立ち返って、生きよと語られます(30-32)。人のせいではなく自分の姿を顧みましょう。

エゼキエル 19章
イスラエル(ユダ)の君主たち、すなわちエホアハズ王、(エホヤキム王)、エホヤキン王、ゼデキヤ王のために哀歌を歌えと言われます。ここではイスラエルの滅びの経緯が、たとえをもって歌われます。時は、エホヤキン王の捕囚以後、エルサレム滅亡前のゼデキヤ王の時代と思われます(8:1)。雌獅子(ユダ)は、雄獅子・若い獅子(諸国)の間で、子獅子たちを育て、彼らは強くなります。しかしその子獅子の凶暴さが伺えます。やがてその一頭(エホアハズ)はエジプトに、もう一頭はバビロン(エホヤキン)に引いて行かれます(1-10)。また母であるぶどうの木(ユダ)は繫栄し、そこに強い枝(ゼデキヤ)が成長します。それはひときわ高く、際立ちますが、引き抜かれ、東風(バビロン)によって焼き尽くされ、もう強い枝がなくなると預言されます。彼も先の王たち同様に高慢な態度で、やがてその結果を刈り取ります(11-14)。自らの力におごり高ぶる者は実を刈り取ります。