ミカ書

ミカ書
ミカは、前8世紀の預言者で、その名は「誰が主のようであろうか」です。同時代のイザヤが王宮に関わる祭司出身の預言者であったの対して、ミカは地方の農民出身の預言者でした。特に、彼は上流階級の罪を糾弾し、神のさばきについて預言しました。その働きの場は違っても、内容の類似性が指摘されます。文体も多くの問いかけ、隠喩、語呂合せなども用いられます。その内容は「聞け」(1:2、3:1、6:1)と、1章、2章は両王国の罪に対する神の告発がなされ、そのさばきが警告されます。しかし、同時に残りの民の希望が語られます(2:12-13)。3章から5章は、指導者たちの不義、不正が責められます。しかし同時に、終わりの日に向かう神の国の回復(4-5章)、救い主の誕生の預言が語られます(5:2)。6章、7章は、再び当時のイスラエルの姿、あるべき姿が語られ(6:8)、その最後は主の救いを待ち望む祈りとなります(7:18-20)。主は約束に誠実なお方で、罪を赦されるお方です。

ミカ書 1章
前八世紀、ミカが両王国についてみた幻です(1)。主は全世界に呼びかけ、主なる神が証人となり、圧倒的な力をもってこの世に臨み、その罪をさばかれます。イスラエルの偶像礼拝、それに伴う腐敗のゆえに、偶像は砕かれ、町は瓦礫となります。事実、前七二一年、北王国サマリアでこのことが実現します(2-7)。主の悲しみは、預言者ミカの嘆きとなり、民の堕落とそのさばきを嘆きます(8-9)。南王国の町々の名がさばきと語呂合わせのように語られます。例えば、アフラ「塵」に悲しみで転がり、シャフィル「美」が裸の恥に、望みのない「苦い」マロテ、「欺き」のアクジブ、マレシャ「所有」でなく侵略、アドラム「隠れ家」は栄光が隠される姿に重ね合わせられます(10-15)。南王国ユダもまた捕囚され、嘆きが訪れます(16)。主こそ、私たちの罪の証人である厳粛さを覚えます。その主の前に立つ厳粛さ、しかし、それゆえ救いの恵み大きさ、赦しの喜びを覚えます。

ミカ書 2章
権力者が不法や悪を行い、土地をかすめ奪う姿はわざわいです。それゆえわざわいが降ります(1-3)。その日、所有地は侵略者に奪われ、分割のための土地を測る必要もなくなります(4-5)。彼らは、ミカに対して「戯言を言うな。」と戯言を言いますが、ミカは主のことばを語り、真っすぐに歩むものには益となります(6-7)。民は神に敵対して立ち上がり、静かに過ごすものからはぎ取り、やもめを追い出し、幼子たちの祝福を奪い去り、酒に酔いしれることを語ります(8-11)。後半は一転して、回復の預言となります。神に信頼する残りの民、散らされた民は一つに集められます。牧場の羊のように集められます。主が先頭に立って、敵の門を打ち破り、王として彼らを導かれます(12-13)。主のことばは主に信頼する者には恵みの声です。主なる神は、先立ち、敵を打ち、王として導き、やがて羊の群れを一つに集めてくださるお方です(ヨハネ10:1-18)。

ミカ書 3章
政治的指導者たちの態度は、重税などで弱い者たちをとことんまで打ちのめします。彼らは主の律法、神の公正を知らないはずはなく、知っているにもかかわらずです。それゆえ主は彼らから顔を隠されます(1-4)。次に宗教的指導者である預言者たちに主は語られます。彼らは自分に利益のある者には平和を語り、なければ主の名で脅しました。それゆえ主は彼らに何も語られません。それゆえ、偽預言者たちは恥をみます。しかし、ミカは力と公正と勇気に満ちて語ります。なぜなら、彼には、主の霊が臨み、イスラエルの真実を、背きと罪の宣告をまっすぐに語ったからです(5-8)。このように政治的指導者たちは正義を曲げ、宗教的指導者も金に踊らされながら、「主がおられるからわざわいは及ばない」とうそぶくゆえに、シオンは、人が住めないほどに荒廃します(9-12)。立てられた指導者は大きな責任があります。彼らのために祈りましょう。また主の霊により真実を語りましょう。

ミカ書 4章
前章ではエルサレムのさばきが語られましたが、この章では回復と祝福が語られます。最初の部分はイザヤ書二章二節から四節とほぼ同じです。終わりの日には全世界の民が主を礼拝するために主の家に集い、完全な平和が訪れます。これらの預言は、捕囚からの回復を超えて、救い主の到来と終末の時に完全に実現します。その日まで、諸国民が偶像に従って歩む中にあって、主の御名によって歩むように勧められます(1-5)。その日は、捕囚という苦難からの回復、主が王として君臨し、彼らを見守ります(6-8)。この預言の百数十年後、イスラエルの民は不信仰のゆえに、厳しいバビロン捕囚を経験し、敵が彼らを取り囲みます。しかし、それは同時に敵のさばきの時となり、主が敵を最終的に打ち砕かれます。これもまたミカの時代を超え、終末の預言に向かいます(9-13)。痛みの先に希望があります。苦しみの中に助けがあります。それゆえに主の御名によって歩みましょう。

ミカ書 5章
この章はミカの時代を超えて、まさに救い主の到来が預言されます。敵に打倒される中(1)、小さな町ベツレヘムに真の王の誕生が預言されます。その誕生は永遠の定めです(2)。苦しみの先に、民は集められ、真の王が主の力と御名で群れを養い、世界を治め、平和が訪れます。神の民に敵対する力が、当時、世界を支配していたアッシリアにおいて象徴的に語られますが、確かに救いがあります(3-6)。残りの者たちを通して、神様の恵みが示され、彼らはただ神にのみ希望を抱きます。さらに彼らは獅子のように、悪を打ち破ります(7-9)。その日に、主は人間的な頼みを打ち滅ぼし、呪術者、占い師、さらには偶像を打ち砕かれ、滅ぼされます。主なる神様は、神に聞き従わないものをやがて憤りをもって打たれます(10-15)。終末の時代を生きる私たち、永遠の定めにより、すでに救い主の誕生、そして終末の「その日」に向かって、ただ神様に望みをおいて歩んで参りましょう。

ミカ書 6章
主はイスラエルの民に自分たちの正当性を主張できるならば「訴えよ」と語られます(1-2)。そしてイスラエルの歴史を振り返り、どのように主が民を贖い、守り導いてきたか、具体的な出来事にも触れて語ります(3-5)。民がどんなに最上のいけにえ、多くのささげものをしても、主が求めているのは心からの悔い改め、へりくだって神とともに歩み、公正と誠実を愛して歩むことです(6-8)。主は、都に住む上流階級の者たちの不正な財宝、不正な秤、欺きと不法を責めます。主の御名を恐れることが英知です。それゆえ、主は、彼らを打たれます。彼らは決して満足できず、奪われ、剣に渡され、侵略者によって食糧も土地も奪われ、収穫を得ることも、油を得ることも、ぶどう酒を飲むこともありません。彼らの姿は、バアル礼拝を勧めたオムリ、南王国の最悪王の一人アハブの家と同じ罪を繰り返しています(9-16)。公正と誠実、へりくだって神とともに歩むことを確認しよう。

ミカ書 7章
悲しみから始まるこの章は、最後は希望の声で閉じられます。食べられるいちじくが見出せない様に、人々の心はねじれ、善人と言われる人さえとげを持ち、そして親しい間柄にまで信用が置けない有様となります。しかしミカは主を仰ぎ見、救いの神を待ち望むと語ります。倒れても立ち上がり、闇の中でも主が私の光と言います。罪ある一人として自分を見つめながら、主の正しいさばきと救いに委ねます(1-10)。神の国は広がり、建て直され、敵の地はさばかれます(11-13)。ミカはその日を待ち望み、主の養いと守りを祈ります(14)。すると主は、出エジプトの時のような奇しいみわざを約束されます(15)。そして、それを目撃する諸国の民は、主の前に恐れおののくようになります(16-17)。ミカは、罪を徹底して赦し、恵みを喜ばれ、約束を守るこのようなお方は他にいないと賛美し、ます(18-20)。この預言は当時の人々を超え、まさに福音として、今も響き続けます。